法隆寺は607年に創建され、670年に焼失、8世紀初頭に再建されました。再建法隆寺は、聖徳太子一族のための鎮魂寺ではないでしょうか。検証します。
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タグ:日本史
神仏習合の歴史 - 特別展「国宝 聖林寺十一面観音 -三輪山信仰のみほとけ-」(東京国立博物館)-
オオクニヌシ鎮魂説 - 特別展「出雲と大和」(東京国立博物館)(2)-
オオクニヌシ鎮魂説 - 特別展「出雲と大和」(東京国立博物館)(1)-
ヤマト王朝以前に、西日本をほぼ統一した出雲王朝がありました。出雲王朝をほろぼし、あらたな統一国家をつくったのがヤマト王朝です。出雲大社は、出雲の王であったオオクニヌシを鎮魂し、オオクニヌシの怨霊を封じこめるために、ヤマト王朝がたてたのではないでしょうか。
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日本の重層文化 - 東北歴史博物館(1)-
東寺ガイド -『東寺』(小学館101ビジュアル新書)-
南大門からはいるとよいです。鎮護国家の官寺と真言密教の総本山としての二面性があります。春と秋に特別公開があります。
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特別展「国宝 東寺 - 空海と仏像曼荼羅 -」(東京国立博物館)をみる
弥生人と日本人 - 企画展「砂丘に眠る弥生人 - 山口県土井ヶ浜遺跡の半世紀 -」(国立科学博物館)-
日本列島各地から出土した人骨の比較研究がすすんでいます。西日本を中心に、在来の縄文系の人々と渡来系弥生人との混血がすすみました。一方、弥生時代になっても縄文人の遺伝子が東北地方ではうけつがれていました。
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展覧会「京都・醍醐寺 - 真言密教の宇宙 -」(サントリー美術館)
評価ではなく、実像にせまる -「悪人か、ヒーローか」(東洋文庫ミュージアム)-
歴史上の人物の虚像と実像にせまっています。政権と時代によって人物の評価は変わります。人物の背後にあるもっと大きなものに気がつくことが大事です。
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白村江、日本史上最初の大敗 - 倉本一宏著『戦争の日本古代史』-
7世紀後半、白村江の戦において、倭国(日本)は唐(中国)に大敗しました。しかしこれを契機に、本格的な国家、中央集権的律令国家「日本国」の建設がはじまりました。
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上空の視点から想像する - 司馬遼太郎『関ヶ原』-
上空の視点から物語を想像すると歴史の大きな流れがみえてきます。
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歴史の舞台をとらえる - 日本史(まとめ)-
日本史の急所をとらえる -『鳥瞰イラストでよみがえる歴史の舞台』(3)-
仮説をたてて歴史を想像する - 飛鳥と百済 -
清明天皇の陵墓(牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん))は八角形のピラミッドでした。80トンの巨石の内部をくりぬいて石室をつくりました。益田岩船(ますだのいわふね)などは、失敗作あるいは未完成の石室であるという仮説がたてられました。石の都としての飛鳥は、朝鮮半島の百済と友好関係にあったことが大きく影響しています。
わたしがここでおもいだしたことは、川喜田二郎の「騎馬民族倭人連合南方渡来説」です。
どうして、飛鳥と百済とは友好関係にあり、白村江の戦いでは連合軍をつくって共に唐と戦争をしたのでしょうか?
「騎馬民族倭人連合南方渡来説」によれば、飛鳥の人々と百済の人々は民族学的におなじ起源をもち、南方から黒潮にのって北上してきた人々であり、その一方は九州から西日本に入り飛鳥にたどりつき、他方は朝鮮半島南西部(百済)にたどりついたのです。元々はおなじ人種ですから仲がよいのはあたりまえであるというわけです。白村江の敗戦で百済が滅亡したときには百済の人々が多数 日本にのがれてきました。現在の大阪や近江に居住したようです。
今回の番組ではここまでつっこんだ説明はしていませんでしたが、石室にかかわる仮説などはとても説得力があり興味ぶかかったです。
このように、仮説をたてて歴史をとらえなおすと、今まで見えていなかったことが想像できてとてもおもしろいです。仮説は、情報を処理し考察をすすめ問題を解決するのためのポイントになります。
▼ 関連ブログ
現場のデータにもとづいて仮説をたてる 〜川喜田二郎著『ヒマラヤ・チベット・日本』〜
仮説を検証し、体系化する 〜 川喜田二郎著『素朴と文明』〜
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本書第二部では、第一部で発想された仮説「 文化発展の三段階二コース」説を日本史のデータをつかって検証しています。
第二部の目次はつぎのとおりです。
第二部 日本誕生 - 生態史的考察 -序 総合的デッサンの試み1 北方からの道2 水界民のなぞ3 農業への道と日本4 倭人の日本渡来5 渡来倭人の東進北進6 騎馬民族倭人連合南方渡来説7 日本到来後の古墳人8 中国文明とは何か9 朝鮮半島の古代文化地図10 白村江の意味するもの11 日本の知識人は島国的12 水軍と騎馬軍との結合で中世へ13 重層文化の日本14 半熟に終わった日本文明
要点を書きだすとつぎのようになります。
旧石器時代の後期から少なくとも縄文前期ぐらいにかけては、圧倒的に北の文化が南下する流れが優勢だったのである。一気に素朴から文明へと飛躍したのではなかった。その中間段階へと、白村江の敗戦を境に踏み切ったのである。その中間段階を、私は「重層文化」の段階と呼んだ。それは具体的には次のような平明な事柄である。すなわち、素朴な土着文化的伝統と、お隣の外来の中国文明との、折衷から融合へという道を選んだわけである。日本の文化の発展段階は、聖徳太子から大化の改新を経て天武天皇に至るあたりを境にして、素朴文化の段階から重層文化の段階に移ったのである。地縁=血縁的な素朴な日本の伝統社会のゆき方がある。他方では律令制と官僚群による中国から導入された法治主義がある。この両方のゆき方の並立からしだいにその融合に進んだとき、ここに封建制が出現したのである。戦国期以来ようやく前近代的文明への文化変化を推し進めたきた。
「文化発展の三段階二コース」説によれば、日本は、次の発展段階をたどったことになります。
〔素朴文化〕→〔重層文化〕→〔前近代的文明 → 近代化〕
本書第二部では、日本史のデータをつかってこれを検証しています。具体的にはつぎのようになります。
素朴文化:旧石器時代から白村江の敗戦のころまで
重層文化:白村江の敗戦のころから戦国期まで
前近代的文明:戦国期から江戸時代末期まで
近代化:江戸時代末期から
上記のひとつの段階から次の段階へ移行するときには、「技術革命」がまずおこり、つづいて産業、そして社会の変革にいたり、最後には、人々の世界観・価値観が変容し、あらたな精神文化が確立するとしています。つまり、ハードからソフトへと変革が順次進行します。
ある仮説にもとづいてさまざまなデータを検証し、その結果をアウトプットするということは、その課題に関する多種多量な情報を体系化することでもあります。著者は、本書第二部で、「文化発展」という仮説から日本の歴史を再体系化しました。検証と体系化の実例として参考になります。
文献:川喜田二郎著『素朴と文明』(講談社学術文庫)講談社、1989年4月10日
多様なデータに基づいて仮説を立てる -出雲神話は事実に基づく-
東京国立博物館特別展「出雲 -聖地の至宝-」(古事記1300年 出雲大社大遷宮)を見ました。
『古事記』のなかの重要な事件の一つとして「オオクニヌシの国譲り」があります。哲学者の梅原猛さんは、「大量の青銅器が地中に埋められていたのは、『国譲り』の代償に巨大な神殿を得てそこに祀られることになったオオクニヌシの魂を鎮めるためのもの」(注)という仮説をのべています。出雲の地をたずねてみて、神話がまさに事実であったことをまざまざと実感したそうです。
この鎮魂説により古代史がよく見えてきます。多様なデータに基づいて仮説を立てることが重要です。
参考文献:『特別展「出雲 -整地の至宝-」』(図録)東京国立博物館/島根県立古代出雲歴史博物館編集、2012年。
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