文明史の観点から情報産業についてのべた先見の書です。
目次はつぎのとおりです。
放送人の誕生と生長情報産業論精神産業時代への予察情報産業論への補論四半世紀のながれのなかで情報産業論再論人類の文明史的展望にたって感覚情報の開発『朝日放送』は死んだ実践的情報産業論情報経済学のすすめ情報の文明学情報の考現学
要点を書きだしてみます。
人類の産業史は、いわば有機体としての人間の諸機能の段階的拡充の歴史であり、生命の自己実現の過程であるということがわかる。第一の段階にあっては、人間はたべることに追われる。産業としていえば、主として農業による食料生産の時代である。第二期は、主として工業による物質およびエネルギー生産の時代である。第三期の特徴は、脳および神経系を中心とする外胚葉性諸器官の機能の産業化が起動にのる時代である。
五感の産業化人間の感覚にうったえかける情報を、感覚情報と名づけるならば、それを産業化したものは、感覚情報産業とよぶことができるであろう。総合的な感覚情報のことを体験情報とよんでみてはどうであろうか。人間は体験情報をもとめている。人びとは疑似体験をこえて、なまの体験をのぞんでいるのである。
「情報」が相対的にたかい価値をもって、「物質」や「エネルギー」の価値がひくくなる社会へしだいに移行しつつあるのが現代であり、そのむかいつつある状態が情報社会だというわけなのです。「情報産業論」のまえに「文明の生態史観」というのをかきまして、世界の諸文明の空間論、その地理的展望をこころみました。それに対して、この「情報産業論」は人類文明の歴史的展望といったかたちでかんがえてみたわけです。このふたつは横軸と縦軸で、両方かさねるととわたしの文明論の骨格ができる仕くみになっているのです。
地球上のすべての地域は情報場となった。情報の時代には、情報の批評家ないしは解説者が不可欠である。情報氾濫の時代になればなるほど、情報の情報が要求されるのである。流体のうごきを流体力学がとらえるように、情報のうごきをとらえる情報力学をかんがえることができるかもしれない。
文明とは、人間と人間をとりまく装置群とでつくる、ひとつの系である。システムである。装置群とは、具体的な器物や構築物のほかに、諸制度あるいは組織をもふくめることができるであろう。文明系における装置群の発展と蓄積によって、人間はついに、この一連の過程における最後の段階に達しようとしているのである。あたらしい時代において、情報は人間の装置、制度、組織に、いっそう根本的な変革をもたらすであろう。人間はそのときにこそ、根本的な価値の大転換を経験することになるであろう。
■ 未来を予想する方法は類推である
本書のなかの「情報産業論」を 梅棹忠夫がはじめて発表したのは1963年、今から51年も前のことです。1960年代に日本人が工業化をよろこびあっていたときに、情報産業の時代が到来することをすでに予言していたわけであり、みごとな未来予知でした。今日において、梅棹が発想した仮説は実証されました。
梅棹は、「農業の時代→工業の時代→情報産業の時代」という文明の発展をわたしたちの身体をモデルにして類推しました。これは、植物→動物→人類という進化論からも類推できるのではないかともおもわれます。
本書は、未来をどのように予想したらよいか、その基本的な方法は類推であることをおしえてくれています。未来予想のサンプルとしてとても有用な本です。
■ 文明系の発展における最後の段階
梅棹は、文明の発展の観点から情報産業を歴史的にとらえています。わたしたちが立っている時代の歴史的な位置づけを知ることはとても意味のあることです。
情報化の背景には、グローバル化という巨大な潮流の出現があります。今日のわたしたちは、この潮流の変化、大転換期のまっただなかにいます。
梅棹は、「文明系の発展における最後の段階」に入ったとのべています。わたしたちは、「グローバル文明」というまったくあたらしい文明の構築をはじめました。これが人類最後の文明になるのでしょうか。わたしたちは人類進化の最終段階に入ったのでしょうか。
■ 心の充実がもとめられる
今日、物質の時代から精神(あるいは心)の時代へと転換しました。これからは心の働きが重視される心の時代です。
その意味で、「モノづくりニッポン」にいつまでもとらわれているとかならず行きづまります。モノは情報をはこんだり、メッセージをつたえるための手段になり、情報やメッセージの方が重要になりました。発想の転換が必要です。
工業の時代と情報産業の時代とでは価値の決め方がことなります。これからは、心の充実や生きがいがもとめられます。そのためには、個人としても組織としても、情報処理能力を高めることがもっとも重要な課題である時代に入ったことはあきらかです。
■「体験情報」の処理をすすめよう
情報処理は、〔インプット→プロセシング→アウトプット〕という三場面からなります。
たとえば、わたしたちは、テレビを見たり、本を読んだり、話を聞いたり、食事をしたりすることにより、視角、聴覚、味覚など個別の感覚体験によってえられる感覚情報を処理しながら生きています。個別の感覚情報を処理するのは情報処理の第一歩です。
それに対して、体験を通して、あらゆる感覚をつかってえられる総合的な情報を「体験情報」と梅棹はよんでいます。
たとえば、観光旅行に出かけていって、行動を通して五感を総動員して総合的にえられる情報は「体験情報」です。ここでえられる情報は、テレビを見たり、本を読んだりすることよりも高度な情報群となります。情報処理ではこの「体験情報」がとても重要です。
観光旅行などで「体験情報」をえること(取得すること)は情報処理でいうインプットの場面です。この段階では、観光旅行に行ってたのしかったということでよいでしょう。
しかし、旅行をつみかさえているとそれだけではあきたらなくなります。そこで、体験情報を心のなかで整理したり編集したりします。これは、体験情報を心のなかにしっかりファイルし、情報を処理する場面です。情報処理の第2場面、プロセシングです。
そしてその結果を、フェイスブックやツイッターやブログなどにアップロードします。これは第3場面のアウトプットです。
このように、初歩的な個別の感覚情報の処理になれてきたら、さらに一歩すすんで総合的な「体験情報」の処理にトライするのがよいです。そのためには行動することです。出かけることです。「体験情報」の処理は心の充実のためのキーポイントになるでしょう。
▼ 文献
梅棹忠夫著『情報の文明学』(中公文庫)中央公論新社、1999年4月
情報の文明学 (中公文庫)
情報の文明学 (中公文庫)
▼ 関連書
梅棹忠夫著『情報と文明』(梅棹忠夫著作集 第14巻)中央公論社、1991年8月20日
梅棹忠夫著作集 (第14巻)
梅棹忠夫著作集 (第14巻)
▼ 参考ブログ
世界モデルを見て文明の全体像をつかむ 〜 梅棹忠夫著『文明の生態史観』〜