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東洋文庫ミュージアム・第1展示室
(交差法で立体視ができます)
それぞれの古地図は歴史の断面をあらわします。古地図を多数ならべると都市の変遷がわかります。空間と時間がむすびつきます。
企画展「江戸から東京へ - 地図にみる都市の歴史」が東洋文庫ミュージアムで開催されています(注)。古地図などをみながら江戸・東京の変遷をたどります。



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長禄江戸図
(書写年不明)



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慶長年中江戸図
(江戸初期の町並み??)



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武州豊嶋郡江戸庄図
(初期の江戸図代表といえばコレ!)



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新添江戸之図
(1656(明暦2)年頃の江戸)



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新板武州江戸之図
(1664(寛文4)年刊)



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江戸図正方鑑
(1693(元禄6)年刊)



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明和版江戸図(大火焼失範囲朱入)
(1772(明和9)年の大火)



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府郷御江戸絵図
(1857(安政4)年改正)



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New Map of Tokio
(1888(明治15)年)



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New Century Map of Tokyo
(1889(明治22)年発行、1901(明治34)年再販)






「長禄江戸図(書写年不明)」は、室町時代の武将・太田道灌が江戸城をきずいた長禄年間(1457-60)頃の江戸をえがいたとする図です。実際には、江戸時代の創作とかんがえられますが、「中世の江戸」をどのように解釈していたのかをしることができます。

「慶長年中江戸図(江戸初期の町並み??)」は、1608(慶長13)年ごろの江戸城内郭をえがいたとされる図です。江戸城とその周辺の整備は、1606(慶長11)年から約30年にわたり実施され、本図は、外濠の工事、日比谷入江の埋め立て、溜池づくりなどをおこなった直後ぐらいの図です。北に田安土橋、西に半蔵町口、東に浅草橋、南に日比谷御門があり、中央の本丸と西の丸をかこむように武家屋敷がならびます。

「武州豊嶋郡江戸庄図(初期の江戸図代表といえばコレ!)」は、1632(寛永9)年刊行とされる江戸図の写しであり、江戸城内だけでなく市中もえがいた「江戸図」としてはもっともふるいものです。江戸城には天守閣がえがかれ、徳川御三家(尾張・紀伊・水戸)の大名屋敷が城内にあります。江戸城からみて、東は日本橋・京橋・銀座・八丁堀周辺、南は増上寺・愛宕神社周辺・北は神田周辺までがえがかれています。

「新添江戸之図(1656(明暦2)年頃の江戸)」は、1657(明暦3)年旧暦1月18日におきた明暦の大火直前の頃をしめす図であるとかんがえられます。新添」とは、従来の江戸図に西南方面を拡大してくわえていることを意味します。本図は、上に浅草、下に芝、右に東京湾、左に青山と、北を上にして縦長の図であることが特徴的です。

「新板武州江戸之図(1664(寛文4)年刊)」は、明暦の大火後に復興された町並みをえがいています。図の北方(右側)に火除地となる空き地がもうけられ、また画面右下の浅草川(隅田川)には「大はし(両国橋)」が架橋され、本所・深川地区の開発がすすんでいる様子もわかります。

「江戸図正方鑑(1693(元禄6)年刊)」は、元禄時代を代表する江戸図であり、武家地の情報が主題となっていて、大名屋敷のそれぞれに御道具をえがきいれています。御道具とは、大名行列の先頭をいく槍じるしであり、遠方からみても何家の行列かわかります。またその主の名を武家屋敷にいれるのは一般的ですが町人の名もいれられています。

「明和版江戸図(大火焼失範囲朱入)」は、1772(明和9)年に発生した大火による焼失範囲を朱色でしめした図です。目黒行人坂の寺院から出火し、日本橋付近、さらに神田・上野、浅草・千住あたりまで類焼し、数日にわたって再出火がつづきました。死者・行方不明者は2万人ちかくにのぼったとされます。江戸中期(18世紀)の人口増加にともない火事の回数もふえました。

「府郷御江戸絵図(1857(安政4)年改正)」は、江戸市中とその均衡をおさめ、村や神社仏閣などの名称をこまかく記載した図です。江戸時代後期になると、観光や遊覧のために江戸近郊へ人々がでかけることがさかんになりました。市街地だけでなく、江戸に接する周辺地域も発展しました。

「New Map of Tokio(1888(明治15)年)」は、外国人むけの東京の地図であり、1869年にもうけられた筑地の外国人居留地がえがかれています。公使館や領事館がおかれ、外交官・宣教師・医師・教師などがすみました。また日本でははじめての鉄道となる1872年開通の新橋駅-横浜駅のライン、1885年に開通した品川駅-前橋駅のラインもえがかれています。

「New Century Map of Tokyo(1889(明治22)年発行、1901(明治34)年再販)」は、外国人観光客のためにつくられた図であり、黄色く色づけされた範囲は、東京市とのちになる15区をあらわします。皇居のすぐ北、後楽園の南には「飯田町駅」があり、これは、1895(明治28)年に開通した甲武鉄道の駅です。この東側、格子状の街区は三崎町であり、新興住宅地開発の先駆けです。






平安時代後期、武蔵国では、畿内から関東へ進出した河内源氏や桓武平氏などの有力一族の子孫や家臣が基盤をきずき、このうち、入間川流域を支配していた秩父氏につらなる一族が12世紀なかばに江戸郷を領し、江戸氏をなのり、武蔵国での勢力を拡大しました。江戸氏の祖である江戸重継の子・重長は源頼朝にのちにしたがいます。

15世紀後半にはじまる戦国時代には、武蔵国を拠点とする大名・扇谷上杉氏の家臣である太田氏が台頭、その家宰職をついだ太田道灌が現在の皇居のあたりに江戸城をきずきます。道灌の死後、小田原を拠点とする後北条氏が扇谷上杉氏をやぶり、武蔵国は、後北条氏の支配下となります。

1590(天正18)年、豊臣秀吉による小田原征伐により大名家としての後北条氏がほろびると、同年、秀吉の命により、武蔵をふくむ関東6国を統治することになった徳川家康が江戸にはいります。

家康が入府した当初の江戸は、江戸城といっても荒廃のすすんだとてもちいさな城(とりで)にすぎず、周辺は葦だらけの湿地帯であり、とてもさびしい所です。

家康は、城と城下町の建設にすぐにとりかかり、運河をまず開削します。江戸城の東側から平川(日本橋川)の河口、江戸湊までをむすぶ約1kmの運河「道三堀」をつくり、さらに、主要な川と江戸周辺をむすぶ運河も開削し、物流のラインを確立、また飲料水を確保するために上水道も建設します。

1606(慶長11)年から約30年間は5次にわたって「天下普請」が実施され、まず、江戸城外濠の工事と日比谷入江の埋め立てがおこなわれます。現在の日本橋から新橋付近まではかつては東京湾につきでた半島(江戸前島)であり、この一帯には入り江がいりこんでいましたが、これを埋め立てて大名屋敷をたてます。さらに、江戸城を中心に外濠の内側に武家地、寺社地、そして日本橋・神田・中橋・京橋などの町人町が建設されます。

しかしその後、1657(明暦3)年に発生した大火災「明暦の大火(振袖火事)」によって江戸の約6割が焼失し、推計10万人以上の死者がでます。幕府は、災害復興にあたり、大規模な都市改造をおこない、江戸城内にあった御三家(尾張・紀伊・水戸)の上屋敷は城外に移転し、吹上御殿として、ひろい庭と玉川上水の水をひきこんだ池が跡地につくられ、避難場所が確保されます。ほかの武家地・寺社地も外濠の外側一帯からたちのき、空き地(火除地)と跡地はなります。大名のおおくは、緊急時避難のために上屋敷にくわえて中屋敷や下屋敷があらたにあたえられ、埋め立てによってできた筑地などの隅田川河口付近にそれらがたてられます。両国橋がかけられ、本所と深川一帯にも武家地・町人地が整備されて都市が拡大します。各所に、火除地や火除土手がもうけられ、江戸橋・両国橋・上野などは道幅がひろげられて「広小路」となります。開府直後はおよそ二里(約7.8km)四方といわれた江戸の街は延宝年間(1673-1681年)には四里四方に拡大します。

こうした17世紀後半の大拡張期をへたのちも都市域はひろがり、初期には300町ほどであった町数は、18世紀前半には1700町ちかくにまで増加、人口も、推定で100万人をこえたとされます。江戸には全国から人が流入し、さまざまな問題が発生する一方、多様な文化が開花します。色彩ゆたかな木版の浮世絵「錦絵」、川柳や狂歌、落語など、芸能がさかんになり庶民にしたしまれます。「大江戸」「江戸っ子」といった表現も定着します。

商業も発展し、多種多様な商人が活躍、なかでも三井越後屋は、現金掛け値なしという現代にも通じる商法をうちだして年間売上げが大名の収入を凌駕します。

食文化も発展し、江戸前の魚介類をあげて串ににさしてタレや天つゆをつけてたべる天麩羅、十六文でたべられる蕎麦、にぎり寿司・馴鮨・押し鮨、味醂の生産向上によっておいしくなった鰻の蒲焼きなど、現代でも世界的にしられる和食の代表格は庶民にしたしまれた江戸のファーストフードでした。また駒込茄子や練馬大根などの江戸野菜、江戸前海苔や佃煮などの江戸名産もうまれ、参勤交代によって江戸の美食が地方へもつたわります。

また江戸っ子たちは、寺社でおこなわれる祭りに熱狂、なかでも、山王権現(日枝神社)の山王祭と神田明神の神田祭は江戸の「天下祭」として、山王祭は旧暦6月15日、神田祭は旧暦9月15日を中心に隔年ごとにおこなわれ、将軍が上覧し、100基をこす山車がおおい時には登場するたいへんはなやかな祭りです。

19世紀前半になると、諸産業の発展により全国的な流通と消費がさかんになり、その中心地として江戸は繁栄をつづけます。しかし幕政は、社会の変化に対応しきれず、深刻な状況におちいっていきます。

1855年には、安政江戸地震がおこり、これと前後して各地で大地震が発生し、そのほかにも天災や疫病などもおこり、不安の時代にはいります。

1868(慶応4・明治元)年、明治維新、東京府と江戸は解消され、1889(明治11)年、旧江戸御府内を15区に、農村がひろがる周辺地域を6郡に編成します(ほぼ現在の東京23区に相当)。1889(明治22)年には、東京府内15区は東京府から分立して東京市となります。

20世紀にはいってからも東京の人口はふえつづけ、日露戦争の直後には200万人を突破します。1932(昭和7)年、東京府は、周辺地域を編入し、改編してあらたに20区を設置、これまでの15区とあわせて35区とします。





東京は、いまでこそ日本国の首都ですが、徳川家康がはいったときは葦だらけの湿地帯にすぎず、そもそも大名がすむようなところではありませんでした。しかし家康は、転封のくるしみにたえ、あたらしい都市づくりをゼロからはじめました。

したがって江戸・東京は自然発生的な都市ではなく、まったくの人為的・人工的な計画都市であり、都市が誕生し発展していく過程をつぶさに研究できる絶好のフィールドだといえます。実際には家康は、後北条氏の小田原をモデルにして江戸城とその城下町を建設したとかんがえられます(注2)。城下町という日本独自のパターンをしるうえでも江戸・東京は重要でしょう。

そのために古地図がたいへん役立ちます。古地図は、その時代の様子を顕著に記録しており、歴史の「断面」をしめし、製作時期のことなる古地図を何枚もみくらべればその地域の変遷がよくわかります。多数の古地図を連続的にみることは歴史書をよんだり、遺物をみたりするのとはまたちがう独特の体験がえられ、今回のような企画展はとても貴重です。

また古地図と現在の地図や航空写真とをみくらべ、そして現地をあるいてみれば歴史の痕跡がたくさん発見され、理解がさらにふかまります。

たとえば航空写真1をみれば、東京の「骨格」は江戸時代につくられたものであることがわかります。


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航空写真1 現在の東京
(出典:Apple マップ)


航空写真2をみれば、現在のJR中央線は、外濠内の南側をうめたてたところにそってはしっていることがわかります。またかつて存在した甲武鉄道(のちに国鉄、JR貨物)の飯田町駅とその線路の痕跡が現在の道路などの形状からよみとれます。


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航空写真2 現在の飯田町駅付近
(出典:Apple マップ)


写真1は、現在の飯田橋駅の南口から南西方向をみたものであり、このあたりには外濠がよくのこっています。飯田橋駅南口には、江戸城に関する案内板(写真 2, 3, 4)もありとても参考になります。是非いってみてください。


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写真1 飯田橋駅南口から外濠をみる



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写真2 案内板



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写真3 案内板



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写真4 案内板



あらたなフィールドワークが古地図からはじまります。




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▼ 注1
企画展「江戸から東京へ - 地図にみる都市の歴史」
会場:東洋文庫ミュージアム
会期:2021年6月2日〜2021年9月26日




▼ 注2
城下町の原点 - ブラタモリ「小田原」-


▼ 参考文献
公益財団法人東洋文庫編集・発行『江戸から東京へ - 地図にみる都市の歴史』2021年6月1日
一般財団法人日本地図センター著『地図中心 2021年5月号(通巻584号)総特集 東洋文庫「江戸から東京へ - 地図にみる都市の歴史」読本』日本地図センター、2021年
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