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東京国立博物館・平成館
(交差法で立体視ができます)
法隆寺は607年に創建され、670年に焼失、8世紀初頭に再建されました。再建法隆寺は、聖徳太子一族のための鎮魂寺ではないでしょうか。検証します。
令和3年(2021)は、聖徳太子の千四百年遠忌にあたり、これを記念して、特別展「聖徳太子と法隆寺」が東京国立博物館で開催されています(注)。聖徳太子の肖像や遺品・宝物また飛鳥時代以来の貴重な文化財を法隆寺につたわる寺宝を中心にみながら太子と法隆寺の世界にはいります。


第1展示室(A) 聖徳太子と仏法興隆
第2展示室(B) 法隆寺の創建
第3展示室(C) 法隆寺東院とその宝物
第4展示室(D) 聖徳太子と仏の姿
第5展示室(E) 法隆寺金堂と五重塔

会場図
会場図



法隆寺の位置



御物 聖徳太子二王子像(ぎょぶつ しょうとくたいしにおうじぞう、奈良時代(8世紀)、宮内庁)
法隆寺東院にながらく伝来し、明治時代に皇室に献上された肖像画です。聖徳太子をひときわおおきくえがき、むかって左に弟の殖栗王(えぐりおう)、右に息子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)とされる二王子を配します。天平11年(739)に太子の宮殿跡に、夢殿を中心とする法隆寺東院伽藍が創建され、太子を追慕する気運がもりあがるなかで制作された可能性があります。

法隆寺伽藍縁起幷流記資財帳(ほうりゅうじがらんえんぎならびにるきしざいちょう、江戸時代、法隆寺)
法隆寺の創建以来の由来(縁起)に関する記述を冒頭におき、つづいて、所有の財産(資財)およびその来歴をしるした文書の写本です。原文書は、天平19年(747)に作成されました。法隆寺は、7世紀初頭に創建され、天智天皇9年(670)に焼失しました。五重塔初層の塑像群が和銅4年(711)につくられたという記事から、焼失後に再建された伽藍の完成時期をおおよそ把握できます。法隆寺は焼失後、8世紀初頭に再建されました。

軒丸瓦・軒平瓦(のきまるがわら・のきひらがわら、飛鳥時代(7世紀)、法隆寺)
斑鳩寺(法隆寺)は、聖徳太子のすまいである斑鳩宮(いかるがのみや)とともに、のちの法隆寺西院伽藍の南東隅にあたる地に創建されました。この地は、江戸時代中期には若草とよばれ、創建斑鳩寺の伽藍は「若草伽藍」とよびます。1968・1969年の本格的発掘調査により、若草伽藍金堂の遺構が確認され、周辺からは多数の瓦が出土しました。

法隆寺東院縁起資財帳(ほうりゅうじとういんえんぎしざいちょう、江戸時代、法隆寺)
法隆寺東院に関する資財帳であり、原本は、天平宝字5年(761)に寺が作成し政府に提出したもので、本品は、元文元年(1736)に書写したものです。法隆寺の東院は、聖徳太子がすんだ斑鳩宮の後に、天平11年(739)に僧 行信(ぎょうしん)が建立しました。本資財帳には、東院の本堂たる夢殿の本尊・救世観音、鉄鉢(てっぱつ)や錫杖(しゃくじょう)などの仏具、経典などについてしるされています。

行信僧都坐像(ぎょうしんそうずざぞう、奈良時代(8世紀)、法隆寺)
行信は、天平11年(739)、荒廃していた斑鳩宮(いかるがのみや)跡に東院伽藍をおこし、夢殿に、救世観音(くせかんのん)を安置しました。法相宗(ほっそうしゅう)の僧で、元興寺(がんごうじ)に住したといい、天平19年(747)には大僧都(僧正につぐ地位)に任じられたといいます。のちに、薬師寺に住しましたが、天平勝宝6年(754)に厭魅(えんみ:人を呪うこと)の罪で下野国の薬師寺に流罪となり、そこで没したとされます。本像は、麻布を漆ではりかさねて表面を木屎(こくそ)で成形する脱活乾漆造(だっかつかんしつづくり)の技法でつくられ、生前の姿をありのままにうつし、人物の精神性までも再現することを意図したものといえます。つりあがった目、かたくむすんだ口、おそろしいその形相は誰をも威圧し、何人もちかづけません。

舎利神輿(しゃりみこし)・聖皇神輿(しょうこうみこし)(室町時代(15〜16世紀)、法隆寺)
聖徳太子の忌日(旧暦2月22日)に法隆寺でとりおこなわれる聖霊会(しょうりょうえ)には、10年に一度の大会式(だいえしき)の法要がつたわり、南無仏舎利と聖徳太子坐像を西院の大講堂に東院からむかえ、盛大な法会(ほうえ)や楽舞がもよおされます。舎利神輿と聖皇神輿は、南無仏舎利と聖徳太子坐像をそれぞれ奉安し、東院と西院の間の移動に使用されるもので、移動行列において中心的な役をになっています。

塔本塑像(とうほんそぞう、奈良時代(711)、法隆寺ほか)
法隆寺西院伽藍に金堂とならびたつ五重塔の初層に、心柱を中心とした四面にきずかれた塑壁を背景に塑像群が安置されています。これらは、塔本塑像といまはよばれ、天平19年(749)の『法隆寺伽藍縁起幷流記資財帳』に記載される和銅4年(711)完成の「塔本四面具」にあたるとみられます。その最大の特徴は、舎利を奉安する仏塔であるにもかかわらず南と東が釈迦の事蹟ではないところにあり、古代寺院における塔では、釈迦の事蹟が主題となるのが常であったはずですから、法隆寺の塔本塑像の構成には何らかの特別な意図がはたらいたことはまちがいありません。

救世観音像(くせかんのんぞう、奈良時代(8世紀)、法隆寺東院夢殿)(特別企画「8K文化財で鑑賞」、平成館1階ガイダンスルーム) 
聖徳太子の等身像とつたえられ、行信が建立した夢殿の本尊です。楠の一木造りで漆箔がほどこされ、秘仏としてながく厳重に奉安されてきたために金銅仏とみまがうような輝きをみせます。おなじく法隆寺の百済観音像と比較してことなる点はおおきな釘によって光背が頭に直接うちつけられていることです。救世観音像は秘仏であったため、制作当初以来だれもみたことはありませんでしたが、明治17年(1884)、明治政府の命をうけたフェノロサが像のはいった厨子を僧たちの反発をおしきってあけたところ、像には、体いっぱいに白布がまかれており、その布がとりのぞかれ、救世観音像が姿をあらわしました。今回、聖徳太子の没後1400年の節目にあわせて 8K 映像が特別に公開されました。



関連年表(要約)
  • 574 聖徳太子、うまれる
  • 593 聖徳太子、摂政となる
  • 601 聖徳太子、斑鳩宮を造営する
  • 604 聖徳太子、憲法十七条を制定する
  • 605 聖徳太子、斑鳩宮に移住する
  • 607 聖徳太子、斑鳩寺(法隆寺)を創建する
  • 同年 小野妹子ら、随に遣使される
  • 621あるいは622 聖徳太子、斑鳩宮でなくなる
  • 643 蘇我入鹿、山背大兄王(聖徳太子の王子)を斑鳩宮に襲撃、王らは、斑鳩寺(法隆寺)にて自害する
  • 645 大化の改新
  • 670 斑鳩寺(法隆寺)が焼失する
  • 672 壬申の乱
  • 708 詔により法隆寺を再建という
  • 710 藤原京から平城京へ遷都
  • 711 法隆寺五重塔の塔本塑像などが制作される
  • 739 行信、法隆寺東院(夢殿など)を建立する
  • 748 行信、聖霊会を始行する


若草伽藍_edited-1
斑鳩宮と若草伽藍(旧法隆寺)の位置
(衛星写真は Google による)






創建法隆寺と再建法隆寺

『日本書紀』などによると、538年あるいは552年、聖徳太子の祖父にあたる欽明天皇の時代に朝鮮半島の百済から仏教が正式につたわりました。聖徳太子は、積極的に仏教を受容し、『法華経』をはじめ仏教の真理をみずからも研究します。

605年、聖徳太子は斑鳩宮に移住します。そしてその西側に隣接して、仏法興隆の中心地として斑鳩寺(法隆寺)を創建します。金堂に安置される薬師如来坐像の光背銘文や法隆寺伽藍縁起幷流記資財帳によると、太子の父である用明天皇が寺と薬師像の造立をちかったものの崩御されたために、その遺志をついだ推古天皇と聖徳太子が完成させたとあり、その年は、推古天皇15年(607)とされます。

しかし天智天皇9年(670)、太子が創建した法隆寺は焼失し、その後、8世紀のはじめごろに再建されたのが現在の法隆寺西院伽藍です。再建法隆寺に対して、太子が創建した当初の法隆寺の伽藍を若草伽藍といいます。

太子がすんだ斑鳩宮の跡地はそのご荒廃していましたが、天平11年(739)、行信が、阿倍内親王(のちの孝謙天皇)にうったえ東院を建立します。東院の中心をなすのは夢殿であり、その本尊は太子等身とつたわる救世観音像、建立にあたっては太子の遺品類もあつめられました。太子の遺徳をたたえる聖霊会もはじまります。

このように聖徳太子は、仏法興隆の中心地として法隆寺を創建しましたが、それは670年に焼失、現在みられる法隆寺は再建された寺であり、発掘調査の結果からもこのことはまちがいありません。

あたらしい法隆寺は、西院(金堂)の本尊・釈迦三尊像(釈迦如来像)も東院(夢殿)の本尊・救世観音像も聖徳太子と等身につくられていることから、仏法興隆の中心地というよりも太子を祀る寺であることはあきらかです。すなわち法隆寺は、聖徳太子のたてた寺から聖徳太子のための寺に変化したのであり、おなじ名称であっても、旧法隆寺と新法隆寺は別の寺であるとかんがえたほうがよいでしょう。

それではなぜ、焼失してしばらくそのまま放置されていたにもかかわらずあらためて寺をたてる必要があったのでしょうか? どのような背景がそこにはあったのでしょうか? どうやら、キーパーソンは行信のようです。今回の特別展において、おそろしいその人相はもっとも強烈な印象をのこしました。

行信(生没年不詳)は、天平11年(739)、荒廃していた斑鳩宮の跡に東院伽藍をおこしました。その夢殿の本尊・救世観音像の左脇に行信坐像が安置されています。行信は、天平19年(747)に大僧都に任じられましたが、天平勝宝6年(754)、厭魅(えんみ、人を呪うこと)の罪で下野国の薬師寺に流罪となり、そこで没したとされます。つまり行信は呪いをおこなう怪僧でした。呪いのもっとも普通の方法は人形(ひとがた)をつくってそこに釘をうちこむことであり、奈良時代、こういう厭魅がさかんにおこなわれていました。行信のこわい顔は厭魅を得意としたためであり、慈悲や徳はそこにはまったく感じられず、異様な迫力で人々を威圧します。おそろしい人物です。

法隆寺の東院は、行信の願により建立され、その夢殿の本尊・救世観音は聖徳太子そのものであり、フェノロサがやってくるまではぐるぐる全身を白布でつつまれ、厨子のなかへ厳重にいれられて日の目を永遠にあおぐことができないようにしてありました。そしてその像のちょうど頭の真後ろにふとい釘がささっており、そこに、首枷(くびかせ)のごとくおもい光背がのせられていました。つまり行信は、厭魅の法力を行使し、そして聖徳太子の怨霊を封じこめたのではないでしょうか。もしそうだとすると、「決して厨子を開けてはならない。もし像をみれば、たちまち天変地異がおこる」と法隆寺にいいつたえられてきた理由もわかります。


歴史的背景

ここで、当時の歴史的背景をふりかえっておきましょう。法隆寺再建の背景には、聖徳太子の死と聖徳太子一族の覆滅があります。聖徳太子の死因についてはよくわかっていませんが、山背大兄王(やましろのおおえのおう、聖徳太子の子)ら太子の子孫たちは、643年、蘇我入鹿(そがのいるか)ら反山背大兄王の勢力によって襲撃され、いったんは生駒山ににげたものの斑鳩寺にもどって自害しました。大変な惨劇でした。舒明天皇(じょめいてんのう)が641年に没すると皇位継承問題がおこり、衆望のあった山背大兄王を蘇我入鹿らが排除しようとしたためだといわれます。

しかし645年、蘇我入鹿は、中臣鎌足(なかとみのかまたり、のちの藤原鎌足、藤原氏の祖、614-669)らによって暗殺されます。大化の改新の発端です。

中臣鎌足は、大化の改新(諸改革)をすすめ、鎌足の死後は、二男・藤原不比等(ふじわらのふひと、659〜720)が後継者となり台頭、権勢をふるい、律令制度の確立につとめ、平城京遷都も推進しました。仏教政策もすすめ、四大寺(大安寺・薬師寺・元興寺・興福寺)を整備し、法隆寺も再建しました。

藤原不比等の死後は、不比等の子、武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂(まろ)ら4人が実権をにぎり、政治をにないました(藤原四子政権)。

ところが天平9年(737)、藤原氏にとって最大のピンチがおとずれます。疫病(おそらく天然痘)が大流行し、藤原四兄弟全員があいついで死亡、権力の絶頂にあった藤原氏は絶望の淵におとされます。のこされた藤原氏の一門の中心には、藤原不比等の子・光明皇后(こうみょうこうごう、701-760)がおり、皇后のショックははかりしれません。藤原氏は呪われている。祟りではないか。

そして、希代の怪僧・行信の登場です。

権力者・支配者が、殺害された前代の権力者・支配者・実力者の祟りをおそれて鎮魂するということは歴史的にみてもよくあることです。


法隆寺は鎮魂寺ではないか

このような歴史的背景(前提)をふまえると、「法隆寺は、聖徳太子一族の鎮魂のための寺ではないか」という仮説がたてられます。この「鎮魂寺」説は、哲学者・梅原猛が、『隠された十字架 法隆寺論』で発表した常識をくつがえす仮説であり、おどろくべきこの説はおおくの人々に衝撃をあたえました。


仮説がただしいとすると・・・

そしてもし、「法隆寺、鎮魂寺」説がただしいとすると、法隆寺の建築・彫刻・絵画・資財帳などに鎮魂をしめすいろいろな情報がみつかるはずであり、それらが実際にみつかれば仮説の蓋然性がたかまります。ちなみに蘇我氏の鎮魂寺は元興寺です。

法隆寺は、聖徳太子を祀る寺として8世紀初頭に再建されましたがそれだけではまったく不十分でした。行信は、虐殺された聖徳太子一族の怨霊を封じこめるために、太子一族がかつてすんでいてその後あれはてていた斑鳩宮の跡地に東院伽藍をあらたに建立します。

その夢殿が八角円堂(六角以上の堂を円堂という)であるのは、興福寺の北円堂や栄山寺の八角堂などなどが墓であるように、墓(聖徳太子の霊を祀る墓)であるからです。八角形の堂を墓とするのは中国にも先例があり、八角円堂は円形堂のかわりであり、南アジアのストゥーパの形に起源があります。そしてこの八角円堂のなかの石の壇の上に厨子があり、そのなかに、ぐるぐる白布でまかれた救世観音像(聖徳太子)が秘仏として安置されていました。つまり封じこめられていました。今回の特別展では、救世観音像の 8K 画像を特別に公開しており(平成館1階ガイダンスルーム)、これをみれば、救世観音像が普通の仏像ではないことに誰もが気がつきます。舎利瓶(遺骨)を手にもち、薄気味わるい生々しい微笑をうかべ、炎々たる火焔のなかに亡霊のごとく聖徳太子がたっています。

さらに行信は、聖徳太子の霊をなぐさめる会「聖霊会(しょうりょうえ)」をはじめます。鎮魂の行事とこれはいってもよいでしょう。物事には、“ハードウェア” だけでなく “ソフトウェア” も必要です。行信は、太子一族の霊を夢殿のなかに幽閉しましたが、他方で、一年に一度は祭りをおこない、霊を解放し、霊をなぐさめたのでした。かくして鎮魂寺・法隆寺は完成しました。

また法隆寺伽藍縁起幷流記資財帳(ほうりゅうじがらんえんぎならびにるきしざいちょう)をみると、「大化3年、孝徳帝の命で、巨勢徳太(こせのとこた)が三百戸の食封(へひと、じきふ)を法隆寺に下賜した」という記述があり、巨勢徳太は、聖徳太子一族虐殺の直接の加害者であり孝徳帝もその一味であり、殺された側の寺に殺した側が食封を下賜するのは祟りをおそれての鎮魂のためです。

あるいは法隆寺西院伽藍の中門の真ん中に柱があるのは、「偶数性の原理」がはたらいて正面なき建物であるとともに出口なき建物をつくり、霊を封じこめることができるからです。

また西院伽藍の金堂のなかは、右から、薬師如来・釈迦三尊・阿弥陀如来の三体の本尊、それらを四天王がとりかこみ、そして薬師如来と釈迦三尊のあいだにすこしさがって毘沙門天が、釈迦三尊と阿弥陀如来のあいだにすこしさがって吉祥天がいて、壁画には、浄土のありさまがえがかれています。釈迦三尊(釈迦如来)は聖徳太子と等身の像ですから聖徳太子としておがまれ、阿弥陀如来は極楽浄土へ霊をはこびます。

五重塔の内部に安置さている塑像群をみると、東面では、太子の生前の姿をあらわし、北面は、釈迦の死をえがいていますが聖徳太子の死をそれにかさね、西面は、釈迦の火葬・分骨をえがいていますが太子の火葬・分骨であり、南面は、弥勒浄土をえがき、浄土での太子の再生をあらわし、これらの塑像群は、太子をめぐる「生-死-供養-復活のドラマ」を表現しています。

このように、「鎮魂寺」説がただしいとするといろいろな推論ができ、またその結果が確認でき、仮説の蓋然性がたかまります。「鎮魂寺」説によってさまざまな事実が説明でき、つじつまがあいます。


歴史の変動

歴史的にみると、聖徳太子と太子一族および蘇我氏が滅亡し、大化の改新をへて藤原氏が台頭、政治の実権をにぎったことが重要であり、ここに、氏族性から律令制へ、そして中央集権国家の基礎をつくるという古代日本における時代の大転換があったのであり、これが飛鳥時代から奈良時代への移行だったわけで、このような歴史的大転換と感染症大流行がからみあい、こうしたなかで法隆寺は再建され、そして、厩戸王(うまやどのおう、聖徳太子の本名)は「聖徳太子」としてまつりあげられたのでした。

今回の特別展をとおして、聖徳太子と法隆寺にとどまらず、もっとおおきな歴史の変動がよくわかりました。






以上みてきたように、「聖徳太子と法隆寺」という主題をめぐり、いくつかの事実をとらえ、前提(歴史的背景)をふまえると、「法隆寺は鎮魂寺ではないか」という仮説がたてられます。〈事実→前提→仮説〉とすすむこの方法は仮説法といえます。

つぎに、前提のもとで、仮説がもしただしいとしたらとかんがえ推論し、その結果を、史料や資料あるいは現場でたしかめます。実際に確認できれば、仮説を補強する事実(証拠)とそれらはなり、データとして蓄積されます。〈前提→仮説→事実〉とすすむこの方法は演繹法です。

こうしているうちに、あたらしい事実がつぎつぎに発見され、たくさんのデータが蓄積され、それらを総合することによって、歴史の変動など、もっと本質的・一般的なことがわかってきます。最初の仮説をのりこえ、見当を当初つけた以上のことがみえてきます。〈仮説→事実→一般〉とすすむこの方法は帰納法です。

このように、〈仮説法→演繹法→帰納法〉をつかえば歴史のダイナミックスにまで認識をふくらませることができ、おおきな体系のなかに位置づけて特別展で展示された史料もとらえなおすことができ、したがってそれぞれの意味もわかります。

それにしても、法隆寺の背後に感染爆発があったとは。認識をあらたにしました。




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▼ 注
聖徳太子1400年遠忌記念 特別展「聖徳太子と法隆寺」
公式サイト(特設サイト)
関連サイト(ブログ)
会場:東京国立博物館・平成館
会期:2021年7月13日~9月5日
※ 撮影は許可されていません。


▼ 参考サイト
法隆寺(公式サイト)


▼ 参考文献
奈良国立博物館・東京国立博物館・読売新聞社・NHK・NHKプロモーション編集『聖徳太子1400年遠忌記念特別展 聖徳太子と法隆寺』(図録)、読売新聞社・NHK・NHKプロモーション発行、2021年
梅原猛著『隠された十字架 法隆寺論』(新潮文庫)新潮社、1981年
梅原猛著『梅原猛著作集1 聖徳太子(上)』小学館、2003年
梅原猛著『梅原猛著作集2 聖徳太子(下)』小学館、2003年