交通の要衝でした。地形を利用しました。天下の台所になりました。
NHK「ブラタモリ」、大阪編の第1回は、「大阪はなぜ日本一の商都に?」というお題でブラブラします。

地上300m、日本一の超高層ビル「あべのハルカス」からはじまります。




北側には、こんもりと緑につつまれた大阪城、西には、現在の大阪の中心地、キタの梅田やミナミの道頓堀がみえます。
「梅田っていうくらいですから、あのあたりは埋立地ですね。ウメダは “埋めた”。大昔には湿地帯だったんでしょうね」(タモリ)

大阪の地形立体図をみると、南北にのびる台地が市街地の真ん中にあるのがわかります。それが上町台地であり、その北の先端に大阪城があります。

さらに5500年前の縄文時代のおわりから弥生時代にかけての遺跡の地形をみるとあたり一帯は海、上町台地だけが半島のように南からつきでていました。

そこでタモリさんら一行は、上町台地の北側へ。天満橋駅そばの谷町1交差点から西にあるきます。ふりかえれば大阪城がみえます。北大江公園にそって右にまわりこむと、北の土佐堀通におりる階段があります。公園内を西側にぬけるとそこにも段差があります。ここは上町台地の北西のへりです。




土佐堀通をわたって北へすすむと大川がながれています。この川べりには、1000年以上前から船着き場がありました。これこそが、大阪が商都として発展する重要なポイントでした。

この地に最初に目をつけたのは織田信長でした。
「そもそも大阪はおよそ日本一の境地なり」(信長)
淀川を通じて京都ヘ、旧大和川では奈良へつながり、西には、海外からの船もくる瀬戸内海がひろがります。海と川が重要な運輸ルートだった時代、大阪は、国際貿易の拠点として、日本の商業の中心地になるとみぬきました。

信長なきあと、その意志をついで日本一の城下町をここにつくったのが豊臣秀吉でした。大阪は、太閤さんがつくった町だと今でもいわれます。

今度は、北大江公園から南へあるきます。東西にのびる通りをはさんで両側がおなじ町名です。こういう町割を「両側町」といい、むかいあう商店は、おなじ町の住人としてたがいの顔がみえ、ふだんから交流することで経済活動が発展します。

和泉町二丁目にくるとほそい路地があります。ほそい路地が町境であり、こうした隙間がどの町境にもかつてはありました。

路地をぬけると、南大江小学校つきあたります。「太閤下水見学施設」があり、ガラス窓から地下をのぞけます。「都市技術センター」に予約すれば地下におりて下水をみせてもらえます。おそらくこれは、日本最古の現役の下水道です。秀吉は、両側町の境界のすべてに排水溝を通し、家々は、共同の下水道を背後にもっていました。「太閤下水」は、上町台地の傾斜をたくみに利用して東から西にながれます。




つぎは船場(せんば)へ。うえを高速道路がとおる東横堀川から西の地域が船場です。上町台地の西側には湿地帯がかつてはありましたがうめたてられて船場というあらたな町になりました。

船場の西の端には西横堀川という堀がかつてはあり、「筋違橋(すじかいばし)」がかかっていました。石碑には、筋違いにかけられていたためとかかれています。
「堀を隔てて、道路を引く基準が変わったんだね」(タモリ)




そして西横堀川の西側は江戸堀という町名になります。このあたりには、西横堀川から西にひきこむ江戸堀という別の堀がかつてはあり、西横堀川以西の町づくりは江戸時代の町人によっておこなわれました。秀吉が、道や水路をまっすぐにひきながら土地を造成したのに対し、町人たちは、自然な水のながれにそって効率的に土地をつくりかえ、その結果、現在の道もななめのままのこっています。江戸時代にはおおくの堀ができ、町中まで船がはいり、日本各地の特産物があつまり、物流の拠点として機能しました。

そして町人がつくった町の北側の大川にある中之島は、自前の船着き場をもち、年貢米や特産物をおさめた12の蔵がたつ蔵屋敷のエリアでした。中之島を中心に、全国各地130藩あまりの蔵屋敷が大阪にはありました。




こうして大阪は、日本一の商都になり、「天下の台所」とよばれ、大商人もたくさん輩出しました。






わたしは先日、Osaka Metro 森ノ宮駅から大阪城天守閣まであるいたところ、急斜面をのぼるながい階段が途中にあり、そこが台地になっていることを実感しました。

今回のブラタモリにより、大阪には、南北にのびる上町台地があり、意外にも、おおきな高低差があることを再確認できました。大阪は、ほかの巨大都市と同様、開発がいちじるしく、かなり注意しないと城下町の痕跡がつかめませんので今回のブラタモリは大変参考になります。

秀吉は、この台地をまずは利用し、そして斜面を利用し、地形をうまくつかって、町人たちが大勢あつまれる、くらしやすく清潔な城下町をつくりました。

その後、秀吉の城下町を基盤として、大阪城の西側に町人の町がさらに発達しました。低地をうめたて、堀をつくり、物流の拠点ができました。

一方で、大阪は、瀬戸内海・京都・奈良とのアクセスがよく、水運にめぐまれるという立地条件をもちました。すぐれた立地条件もあったからこそ「天下の台所」になりえました。

地域の可能性は、その土地独特の地形とそこでくらす人々だけできまるのではなく、もっと広域的・大局的な環境にも左右されます。地域のポテンシャルをしるためには広域的な地理も理解しなければなりません。大観とフィールドワークをくみあわせることがとても大事だといえるでしょう。




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▼ 参考文献
NHK「ブラタモリ」制作班監修『ブラタモリ 10 富士の樹海 富士山麓 大阪 大坂城 知床』KADOKAWA、2017年
2021-01-26 5.09.02


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