山地ヒンドゥー教徒が先住民を支配しました。先住民族運動が活発になってきています。大文明の縁辺では重層文化が発達します。
特別展「先住民の宝」が国立民族学博物館で開催されています(注1)。
ネパールは、国土はせまいですが典型的な多民族国家であり、先住民も比較的おおく(全人口 約2,649万人の約36%)、民族問題が先鋭的につめこまれた国として注目されています。
マガール
マガールは、ネパールの先住民のなかでもっとも人口がおおく(約189万人)、ネパール西部のマハバーラト山脈一帯を故地として山岳地帯にひろく居住する農耕民です。「ネパール先住民族連合」の創立6民族のひとつにかぞえられ、先住民族運動と国家先住民族開発財団により「恵まれない民族」に区分されます。
約250年前、ネパール王国(シャハ王朝)が成立してからは、ヒンドゥー教やカースト(社会身分制度)・ネパール語をおしつけられて伝統文化が衰退しました。先住民のなかで、ヒンドゥー化とネパール語化がもっともすすんだ民族です。
しかし1991年、「ネパール・マガール協会」が設立され、ヒンドゥー化・カースト化・ネパール語化に異議をもうしたて、これらから脱する民族運動を開始、テーラヴァーダ仏教徒に集団改宗する運動を採用し、1998年には、「マガール仏教徒宣言」を採択しました。さらにネパールの国民的祝祭であるヒンドゥー教の大祭「ダサイン」を段階的にボイコットすることも提唱しました。
他方で、1996年から10年におよんだネパール内戦においては、民族の解放と権利回復をうたった「ネパール共産党マオイスト」の活動に多数のマガールが参加しました。
マガールの伝統的な文化(行事)のひとつとしては「歌垣」があり、マガールの未婚男性は、ベンガルオオトカゲの皮をはった片面太鼓「カイジャリ」をもち、青年男女がつどう歌垣の場で歌にあわせて演奏してきました。しかし最近は、若者が歌垣をひらかなくなり、かわって、村の婦人会の母親たちが来客に対してカイジャリをたたきながら歌を披露します。
リンブー
リンブーは、ネパール東部の山地を故地とする人口約39万人の農耕民です。「ネパール先住民族連合」の創立6民族のひとつで、「恵まれない民族」に区分されます。隣接して分布する「ライ」という民族とともに「キラート」と総称され、民族運動においては、自然崇拝的な伝統信仰を「キラート教」と名づけ、反/脱ヒンドゥー教を推進してきました。
グルン
グルンは、ネパール西部のやや高地にすむ人口約52万人の民族であり、「タム」と自称する人もいます。「ネパール先住民族連合」の創立6民族のひとつで、「恵まれない民族」に区分されます。ヒマラヤ山麓で、季節に応じて高度差をかえながらヒツジを放牧する「移牧」をおこない、えられる羊毛をつかって毛布「ラリ」や敷物・外套をつくります。
ラウテ
ラウテは、ネパール中西部の山中を遊動する採集・狩猟民であり、ネパール極西部には、政府から提供された土地に定住する集団もいます。網をもちいてサルを狩り、食用とします。人口は618人(より少数の遊動ラウテはふくみません)、「消滅の危機にある民族」に区分されます。サルの狩猟を生業のメインとしながら、国有林の木をきってさまざまな木製の器や箱などをつくります。約50年前までは、夜に、農耕民の家に木製品をおき、かわりに、おかれた穀物を回収するという「沈黙バーター(物々交換)」をおこなっていたといいます。
ディマール
ティマールは、ネパール東部の低地帯タライに位置するモラン郡とジャパ郡、および国境をこえたインドに居住する民族であり、ネパールでの人口は26,298人です。
ガレ
ガレは、ネパール中部の高地にすむ人口22,881人の民族です。祭礼では、ガレ王とシャハ王の戦いとされる馬踊りが演じられ、両者は、北からの塩と南からの布を交換することで和解し、ネパール国旗に、シャハ王朝の月とガレ王朝の太陽がえがかれたといいます。しかしのちに、シャハ王にガレ王は征服され、ガレは分散させられ、おおくのところでアイデンティティをうしなったとされます。
ネワール
ネワールは、ネパール中部のカトマンドゥ盆地を故地とする民族であり、商人・官吏・農民・職人がおおく、独自のカーストをもち、職人文化が高度に発達しました。人口は約132万人で、「ネパール先住民族連合」の創立6民族のひとつで、「恵まれた民族」に区分されます。
ネワールは、言語・文字・暦・信仰・祭礼・建築・食など、さまざまな独自の生活様式をもち、シャハ王朝による侵略以前に、カトマンドゥ盆地に都市文明をきずいた民族であり、ほかの先住民とはおおきくことなります。
約250年前、ネパール王国が、ネパール中部のゴルカ地方からおこったシャハ王朝により建国されました。シャハ王朝の母体は、インド・アーリア系のネパール語を母語とする「山地ヒンドゥー教徒」であり、この人たちは、西ヒマラヤ山麓にふるくからすんでいた「カス」とよばれた人々と、13世紀以降、ムスリム(イスラム教徒)の侵攻からのがれて北インド平野からヒマラヤ山脈に移入してきた人々とからなります。
シャハ王朝は、先住の諸民族に対して、ヒンドゥー教・カースト・ネパール語をおしつけ、とりわけ、カースト体系の中位に先住諸民族をくみこんで、政治・社会・文化的に支配しつつ統合し、ひとつの民族をひとつのカーストとみなす認識を民法などによって定着させました(注2)。
またシャハ王朝は、マガール・グルン・ライ・リンブーの男性を勇猛果敢で従順であるとみなし、軍人として雇用しとりこみました。1820年頃からは、英国東インド会社が、植民地インドの治安部隊として彼らをやとい、「グルカ兵」とよばれ有名になりました。一方、ネワールは役人として重用しました。
このように、ネパールの先住民は、山地ヒンドゥー教徒とよばれるヒンドゥー文明人に支配され管理されてきました。カトマンドゥ盆地では、ネワールの都市文明がさかえましたが、それは、ヒンドゥー文明からみれば小さな文明であり、とてもかないません。もしも、ヒンドゥー文明人による侵略がなかったならば、都市文明がさらに発展して「ヒマラヤ文明」を形成したかもしれませんが、そうはなりませんでした。
しかし1990年になると、ネパール『憲法』で、主権在民、多民族・多言語国家、結社・結党の自由などが規定され、1991年には、「ネパール民族連合」が6民族で結成され(現在は56民族協会が加盟)、この連合のネパール名において民族を総称する「ジャナジャーティ」という造語がつかわれました。
1997年、ネパール政府は、民族連合の要求に応じて、「国家民族開発委員会」を地方開発省にもうけて民族を定義し、59の民族を公認しました。この委員会はのちに、「国家先住民族開発財団」になりました。
2003年、ネパール民族連合は、「ネパール先住民族連合」と改称し、「アーディバーシー・ジャナジャーティ」(アーディバーシーは最初の住人の意味)を名のりはじめます。
2007年、ネパール政府は、国際労働機関ILO169条「先住民及び部族民条約」を批准します。
他方、ネパールでは、1996年から10年間にわたり内戦がつづき、終戦後、2008年に王制が廃止され(ネパール王国は終焉し)、ネパール連邦民主共和国が成立します。
先住民族運動と国家先住民族開発財団は、59の民族を、「消滅の危機にある」「極めて周縁化された」「周縁化された」「恵まれない」「恵まれた」民族というように5つに分類して施策をすすめています。
わたしはかつて、ネパール山岳地帯をあるいていて、マガールの集落、グルンの集落、ライの集落、リンブーの集落、山地ヒンドゥー教徒の集落というように、それぞれが明瞭にすみわけていることをしりました。とくに先住民と山地ヒンドゥー教徒のすみわけははっきりしていて、ほとんど交流がありません。マガールの友人とあるいていると、山地ヒンドゥー教徒の村へはいきたがりません。山地ヒンドゥー教徒の友人と一緒にマガールの村へいったら、マガールがつくったものは山地ヒンドゥー教徒は絶対にたべません。マガールの村にあるときとまったら、山地ヒンドゥー教徒は自分のたべる分は自分でつくってたべていました。ことなるカーストと一緒に食事をすることを忌避します。
あるいはネパールの大学で仕事をしていたら、学生・教師の大部分は山地ヒンドゥー教徒であり、先住民は少数でした。
しかし先住民もだまっているわけではありません。
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▼ 注1
特別展「先住民の宝」
会場:国立民族学博物館 特別展示室
会期:2020年10月1日~12月15日
※ 特別展会場内の撮影は許可されていません。
▼ 注2
カーストという用語は、社会身分制度(カースト体系)をさす場合と社会身分制度のなかで上下に順位づけられた身分範疇(それぞれのカースト)をさす場合とがあります。
山地ヒンドゥー教徒のカーストは、「バフン(丘陵ブラーマン)」(バラモンに相当)、「チェトリ」(クシャトリアに相当)、「カミ」(不可触民の一部)など、上位カーストと下位カーストのみがあり、「ヴァイシャとシュードラ」(中位カースト)に相当するものは存在しませんでした。
▼ 参考文献
信田敏宏編著『特別展 先住民の宝』(図録)国立民族学博物館発行、2020年
▼ 関連書籍
ネパールは、国土はせまいですが典型的な多民族国家であり、先住民も比較的おおく(全人口 約2,649万人の約36%)、民族問題が先鋭的につめこまれた国として注目されています。
マガール
マガールは、ネパールの先住民のなかでもっとも人口がおおく(約189万人)、ネパール西部のマハバーラト山脈一帯を故地として山岳地帯にひろく居住する農耕民です。「ネパール先住民族連合」の創立6民族のひとつにかぞえられ、先住民族運動と国家先住民族開発財団により「恵まれない民族」に区分されます。
約250年前、ネパール王国(シャハ王朝)が成立してからは、ヒンドゥー教やカースト(社会身分制度)・ネパール語をおしつけられて伝統文化が衰退しました。先住民のなかで、ヒンドゥー化とネパール語化がもっともすすんだ民族です。
しかし1991年、「ネパール・マガール協会」が設立され、ヒンドゥー化・カースト化・ネパール語化に異議をもうしたて、これらから脱する民族運動を開始、テーラヴァーダ仏教徒に集団改宗する運動を採用し、1998年には、「マガール仏教徒宣言」を採択しました。さらにネパールの国民的祝祭であるヒンドゥー教の大祭「ダサイン」を段階的にボイコットすることも提唱しました。
他方で、1996年から10年におよんだネパール内戦においては、民族の解放と権利回復をうたった「ネパール共産党マオイスト」の活動に多数のマガールが参加しました。
マガールの伝統的な文化(行事)のひとつとしては「歌垣」があり、マガールの未婚男性は、ベンガルオオトカゲの皮をはった片面太鼓「カイジャリ」をもち、青年男女がつどう歌垣の場で歌にあわせて演奏してきました。しかし最近は、若者が歌垣をひらかなくなり、かわって、村の婦人会の母親たちが来客に対してカイジャリをたたきながら歌を披露します。
リンブー
リンブーは、ネパール東部の山地を故地とする人口約39万人の農耕民です。「ネパール先住民族連合」の創立6民族のひとつで、「恵まれない民族」に区分されます。隣接して分布する「ライ」という民族とともに「キラート」と総称され、民族運動においては、自然崇拝的な伝統信仰を「キラート教」と名づけ、反/脱ヒンドゥー教を推進してきました。
グルン
グルンは、ネパール西部のやや高地にすむ人口約52万人の民族であり、「タム」と自称する人もいます。「ネパール先住民族連合」の創立6民族のひとつで、「恵まれない民族」に区分されます。ヒマラヤ山麓で、季節に応じて高度差をかえながらヒツジを放牧する「移牧」をおこない、えられる羊毛をつかって毛布「ラリ」や敷物・外套をつくります。
ラウテ
ラウテは、ネパール中西部の山中を遊動する採集・狩猟民であり、ネパール極西部には、政府から提供された土地に定住する集団もいます。網をもちいてサルを狩り、食用とします。人口は618人(より少数の遊動ラウテはふくみません)、「消滅の危機にある民族」に区分されます。サルの狩猟を生業のメインとしながら、国有林の木をきってさまざまな木製の器や箱などをつくります。約50年前までは、夜に、農耕民の家に木製品をおき、かわりに、おかれた穀物を回収するという「沈黙バーター(物々交換)」をおこなっていたといいます。
ディマール
ティマールは、ネパール東部の低地帯タライに位置するモラン郡とジャパ郡、および国境をこえたインドに居住する民族であり、ネパールでの人口は26,298人です。
ガレ
ガレは、ネパール中部の高地にすむ人口22,881人の民族です。祭礼では、ガレ王とシャハ王の戦いとされる馬踊りが演じられ、両者は、北からの塩と南からの布を交換することで和解し、ネパール国旗に、シャハ王朝の月とガレ王朝の太陽がえがかれたといいます。しかしのちに、シャハ王にガレ王は征服され、ガレは分散させられ、おおくのところでアイデンティティをうしなったとされます。
ネワール
ネワールは、ネパール中部のカトマンドゥ盆地を故地とする民族であり、商人・官吏・農民・職人がおおく、独自のカーストをもち、職人文化が高度に発達しました。人口は約132万人で、「ネパール先住民族連合」の創立6民族のひとつで、「恵まれた民族」に区分されます。
ネワールは、言語・文字・暦・信仰・祭礼・建築・食など、さまざまな独自の生活様式をもち、シャハ王朝による侵略以前に、カトマンドゥ盆地に都市文明をきずいた民族であり、ほかの先住民とはおおきくことなります。
*
約250年前、ネパール王国が、ネパール中部のゴルカ地方からおこったシャハ王朝により建国されました。シャハ王朝の母体は、インド・アーリア系のネパール語を母語とする「山地ヒンドゥー教徒」であり、この人たちは、西ヒマラヤ山麓にふるくからすんでいた「カス」とよばれた人々と、13世紀以降、ムスリム(イスラム教徒)の侵攻からのがれて北インド平野からヒマラヤ山脈に移入してきた人々とからなります。
シャハ王朝は、先住の諸民族に対して、ヒンドゥー教・カースト・ネパール語をおしつけ、とりわけ、カースト体系の中位に先住諸民族をくみこんで、政治・社会・文化的に支配しつつ統合し、ひとつの民族をひとつのカーストとみなす認識を民法などによって定着させました(注2)。
またシャハ王朝は、マガール・グルン・ライ・リンブーの男性を勇猛果敢で従順であるとみなし、軍人として雇用しとりこみました。1820年頃からは、英国東インド会社が、植民地インドの治安部隊として彼らをやとい、「グルカ兵」とよばれ有名になりました。一方、ネワールは役人として重用しました。
このように、ネパールの先住民は、山地ヒンドゥー教徒とよばれるヒンドゥー文明人に支配され管理されてきました。カトマンドゥ盆地では、ネワールの都市文明がさかえましたが、それは、ヒンドゥー文明からみれば小さな文明であり、とてもかないません。もしも、ヒンドゥー文明人による侵略がなかったならば、都市文明がさらに発展して「ヒマラヤ文明」を形成したかもしれませんが、そうはなりませんでした。
しかし1990年になると、ネパール『憲法』で、主権在民、多民族・多言語国家、結社・結党の自由などが規定され、1991年には、「ネパール民族連合」が6民族で結成され(現在は56民族協会が加盟)、この連合のネパール名において民族を総称する「ジャナジャーティ」という造語がつかわれました。
1997年、ネパール政府は、民族連合の要求に応じて、「国家民族開発委員会」を地方開発省にもうけて民族を定義し、59の民族を公認しました。この委員会はのちに、「国家先住民族開発財団」になりました。
2003年、ネパール民族連合は、「ネパール先住民族連合」と改称し、「アーディバーシー・ジャナジャーティ」(アーディバーシーは最初の住人の意味)を名のりはじめます。
2007年、ネパール政府は、国際労働機関ILO169条「先住民及び部族民条約」を批准します。
他方、ネパールでは、1996年から10年間にわたり内戦がつづき、終戦後、2008年に王制が廃止され(ネパール王国は終焉し)、ネパール連邦民主共和国が成立します。
先住民族運動と国家先住民族開発財団は、59の民族を、「消滅の危機にある」「極めて周縁化された」「周縁化された」「恵まれない」「恵まれた」民族というように5つに分類して施策をすすめています。
*
わたしはかつて、ネパール山岳地帯をあるいていて、マガールの集落、グルンの集落、ライの集落、リンブーの集落、山地ヒンドゥー教徒の集落というように、それぞれが明瞭にすみわけていることをしりました。とくに先住民と山地ヒンドゥー教徒のすみわけははっきりしていて、ほとんど交流がありません。マガールの友人とあるいていると、山地ヒンドゥー教徒の村へはいきたがりません。山地ヒンドゥー教徒の友人と一緒にマガールの村へいったら、マガールがつくったものは山地ヒンドゥー教徒は絶対にたべません。マガールの村にあるときとまったら、山地ヒンドゥー教徒は自分のたべる分は自分でつくってたべていました。ことなるカーストと一緒に食事をすることを忌避します。
あるいはネパールの大学で仕事をしていたら、学生・教師の大部分は山地ヒンドゥー教徒であり、先住民は少数でした。
しかし先住民もだまっているわけではありません。
あるとき、マガールの友人に再会したら牛肉をたべていました。ヒンドゥー教徒は、神聖な動物である牛の肉はたべません。マガールはヒンドゥー教徒ではなかったのか。
「どうして牛肉をたべているのですか?」
「仏教に改宗したんだ」
そのときはよくわかりませんでしたが、マガールの決断がそこにはあったのでした。
ネパールの先住民は、山地ヒンドゥー教徒にながく支配されてきましたが、ヒンドゥー文明への完全な同化はまぬがれました。ネパール・ヒマラヤ地域は、インド亜大陸からみれば辺境であり、ヒンドゥー文明に完全にはのみこまれませんでした。
辺境には、大文明の中心よりもふるきよきものがのこっています。ふるい時代の痕跡も数おおくみつかります。これらを継承あるいは再生するところからあらたな創造がはじまります。重層文化が形成されます。ここに希望があります。このような点では日本も似ています。中国文明の辺境に位置し、重層文化を形成してきました。これからの時代は、大文明の中心よりも辺境・周縁がおもしろくなります。
ネパールは多様性に非常にとむ国であり、いいかえると複雑でわかりにくい国ですが、今回の特別展をとおして、先住民、山地ヒンドゥー教徒、ネパール王国の歴史、先住民族運動のそれぞれについて情報を整理してとらえなおせば理解がすすみます。ネパールは、多様性を理解するためのモデルとしても役立ちます。
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▼ 注1
特別展「先住民の宝」
会場:国立民族学博物館 特別展示室
会期:2020年10月1日~12月15日
※ 特別展会場内の撮影は許可されていません。
▼ 注2
カーストという用語は、社会身分制度(カースト体系)をさす場合と社会身分制度のなかで上下に順位づけられた身分範疇(それぞれのカースト)をさす場合とがあります。
山地ヒンドゥー教徒のカーストは、「バフン(丘陵ブラーマン)」(バラモンに相当)、「チェトリ」(クシャトリアに相当)、「カミ」(不可触民の一部)など、上位カーストと下位カーストのみがあり、「ヴァイシャとシュードラ」(中位カースト)に相当するものは存在しませんでした。
シャハ王朝(山地ヒンドゥー教徒)は、カースト体系の中位に、先住諸民族(ネワールはのぞく)を位置づけました。
ネパール語では、カーストは「ジャート」といい、こうして、ジャートは、“カースト” と民族の両方をさす言葉となりました。ひとつの民族をひとつのジャートとみなす認識が定着しました。たとえばあるネパール人が、「わたしはグルンです」といった場合、グルンは、民族名であると同時に、カースト体系においてはチェットリの下、不可触民の上という身分範疇をしめします。グルンはジャートのひとつです。
ここに、ネパール独自のカーストの複雑さがありますが、カーストには広狭の意味があり、先住諸民族はカースト体系の中位であり、ネパール語ではカーストをジャートといい、それぞれの民族はそれぞれがジャートとみなされることをおさえれば理解できます。
ここに、ネパール独自のカーストの複雑さがありますが、カーストには広狭の意味があり、先住諸民族はカースト体系の中位であり、ネパール語ではカーストをジャートといい、それぞれの民族はそれぞれがジャートとみなされることをおさえれば理解できます。
▼ 参考文献
信田敏宏編著『特別展 先住民の宝』(図録)国立民族学博物館発行、2020年
▼ 関連書籍