自然環境と調和したすぐれた文化がありました。同時発生的に世界各地で文明がうまれました。常識がくつがえされ、歴史がかきかえられます。
三内丸山遺跡の「さんまるミュージアム」では遺跡の発掘と保存の経緯についても解説しています。

三内丸山遺跡は、江戸時代にその存在がすでにしられていました。山崎立木(やまざきりゅうぼく)の『永禄日記(館野越本)』(1623年/元和9)に遺跡に関する記載がみられます。江戸時代後期には、紀行家・菅江真澄が現地をおとずれ、『栖家能山(すみかのやま)』(1799年/寛永11)に土器や土偶のスケッチと考察をのこしています。

時代はくだり、1953年(昭和28)、慶応大学と地元医師・成田彦栄により、発掘調査がはじめておこなわれます。

1967年(昭和42)、青森市教育委員会が、現在の南盛土北西側を調査します。

1976年(昭和51)、青森県教育委員会の調査により、2列にならんだ大人の墓(縄文時代中期)がみつかり、翌年、近野地区の調査で、ながさ約20mの大型竪穴住居跡がみつかります。

1987年(昭和62)、青森市教育委員会が南盛土南側の調査をおこないます。

1992年(平成4)〜1994年(平成6)、青森県総合運動公園内の県営野球場建設に先だち、青森県教育委員会による大規模な発掘調査がおこなわれます。竪穴住居跡・大型竪穴住居跡・盛土・掘立柱建物跡・大人の墓などがみつかり、また膨大な量の土器や石器・土偶、有機質遺物(木製品・漆塗り製品・骨角器・種など)が出土、さらに、大型掘立柱建物跡の柱穴のなかからクリの巨大な木柱がみつかります。

当時の新聞記事です。


4500年前の巨大木柱
青森・三内丸山遺跡から出土
20メートル級の建造物か 吉野ヶ里しのぐ可能性
青森県埋蔵文化財調査センターが発掘調査している青森市郊外の縄文時代の集落跡・三内(さんない)丸山遺跡で、約四千五百年前のものと見られる直径約八十センチの木柱三本と直径約1.8メートルの柱穴六つが見つかった。建造物であれば、佐賀県・吉野ヶ里遺跡より二千数百年古い時代に、吉野ヶ里の楼閣をしのぐ高さ二十メートルを超えるものであった可能性がある、と専門家はみている。
(朝日新聞、1994.7.17付朝刊)


弥生時代よりも前の縄文時代に、大規模な建物がすでに存在していたということは、それまでの常識を根底からくつがえす大発見でした。

これをうけて青森県は、野球場の建設を中止し、遺跡を保存する決定をくだします。


知事「三内丸山遺跡を保存」
全国に例のない工事中止
三内丸山遺跡を保存する ー 。北村知事が大きな政治決断を下した。

直径八十センチの木柱が出土し巨大建造物の可能性が高いことや、同遺跡が国内最大の縄文集落であることなどが報道されてから十日。(中略)

既に一部が出来かかっている工事を止めてまでも保存を優先した例となると、全国的にも皆無だ。(中略)

三内丸山は建設省の補助を受け、運動公園という特定の目的で買収しており、土地の用途や建築物の変更は、吉野ヶ里遺跡とは比較にならないほど困難が伴う。その意味でも、知事の「保存優先」表明は吉野ヶ里以上の決断といえる。
(東奥日報、1994.7.27付朝刊)


当時の発見がいかに重大であったかがわかります。

その後、1995年(平成7)、復元建物をはじめとする施設整備がすすみます。遺跡の公開がはじまります。

1997年(平成9)、国史跡に指定されます。

2000年(平成12)、特別史跡に指定されます。

2003年(平成15)、出土品のうち1958点が重要文化財に指定されます。

そして現在、世界遺産の登録をめざしています。北海道〜北東北には縄文時代の遺跡が多数分布し、ひとつの地域文化圏がこのエリアで形成され、円筒土器文化や亀ヶ岡文化などがさかえました。当時の人々は、狩猟・漁労・採集・栽培により1万年以上前から定住生活をし、長期間継続した先史文化(縄文文化)をうみだしました。この文化的な価値をふまえ、北海道・青森県・岩手県・秋田県の4道県および関係自治体は「北海道・北東北の縄文遺跡群」として世界文化遺産登録をめざしています。






わたしは、三内丸山遺跡を1997年6月にはじめておとずれ、まさに発掘がおこなわれている現場を見学できました。感動さめやらぬ空気がただよい、熱気がみなぎっていました。あたらしい時代がはじまる、というような雰囲気がありました。

このようなおおきな集落が縄文時代にすでにあったとは。縄文時代は原始的な時代ではありませんでした。常識がくつがえされ、歴史がかきかえられます。


970623b 三内丸山遺跡
発掘現場のひとつ(1997年撮影)


970623 三内丸山遺跡
ジオラマ(1997年撮影)


そして先日、ふたたび訪問し、当時の仮説を検証できました。縄文時代の自然環境と縄文人の生活様式がさらによく理解できました。縄文人は、自然環境と調和する、共生と循環の文化をつくりだしていました。重要なことです。

しかし残念ながら、弥生時代になると、オリジナルなこの文化は次第にうしなわれていきます。別の民族が日本列島に大陸からやってきます。そしてその末裔がヤマト政権をきずきます。この政権は、中国大陸の文明を模倣しながら国づくりをすすめ、一方で、縄文人(先住民)の末裔を、東国では「蝦夷」、九州では、「熊襲」や「隼人」とよび蔑視します。しかし縄文人からみると渡来人は侵略者でしかありません。

渡来人の末裔による国づくりは着々とすすめられましたが、縄文人の末裔もだまっていたわけではありません。平安時代末期になると東国人が台頭し、そして鎌倉時代が成立します。あるいは江戸時代末期には薩摩隼人が台頭し、明治維新となります。「縄文パワー」が新時代をきりひらいたのではないでしょうか。ごく大局的に日本史をみた場合、このような仮説がたてられます。

あるいは神仏習合と生命力信仰といった日本人の精神文化(宗教)や、世界に冠たる生食文化などにも縄文文化の影響がみられます。現代日本人の深層意識にも縄文の意識がよこたわっています。

しかしもしも、渡来人の末裔による侵略がなく、オリジナルな縄文文化がそのまま発展していたならば、三内丸山のような大集落は、世界各地にみられたような都市国家に発展したかもしれません。そこでは、模倣ではなく、独創が重視されたにちがいありません。これは「空想歴史学」ですが。

しかし日本人は、縄文文化を基層としつつ、外来の文化(文明)を積極的にとりいれ身につけて重層文化をつくりだす道をあゆみました。

三内丸山遺跡は、現在、「北海道・北東北の縄文遺跡群」の一部として世界遺産の登録をめざしています。

世界に目を転じてみると、三内丸山に大集落があった紀元前3900年〜紀元前2200年頃は、世界各地で文明が出現していました。黄河や長江流域では中国文明、インダス川流域ではインダス文明、チグリス・ユーフラテス川流域ではメソポタミア文明、ナイル川流域ではエジプト文明、エーゲ海周辺ではエーゲ文明、南アメリカ大陸・アンデス地方ではアンデス文明など、さまざまな文明がさかえました。

このようにみると、縄文文化も、これらの古代文明とならびたつ「縄文文明」ととらえてもよいでしょう。文明は、同時発生的に世界各地で誕生していたようです。古代文明におけるいわゆる「四大文明」という概念もかきなおさなければなりません。常識がくつがえされます。縄文文化(縄文文明)は、人類史・世界史・文明史的にみても重要です。




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▼ 注
特別史跡「三内丸山遺跡」




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