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マダイの骨
(縄文時代前期、紀元前3900年)



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クリ
(縄文時代前期〜中期、紀元前3900〜2200年)



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盛土の断面
(縄文時代中期、紀元前3300〜2200年)



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煮炊きの跡がのこる土器
(縄文時代中期、紀元前3300〜2200年)



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土偶(盛土から出土)
(縄文時代中期、紀元前3300〜2200年)



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ミニチュア土器(盛土から出土)
(縄文時代中期、紀元前3300〜2200年)



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土製装身具盛土から出土)
(縄文時代中期、紀元前3300〜2200年)



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ヒスイ製ペンダント盛土から出土)
(縄文時代中期、紀元前3300〜2200年)



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円筒土器
(縄文時代前期中頃〜中期中頃、紀元前3900〜3000年頃)



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刺突具・針・錐・針入れ
(縄文時代前期、紀元前3900年、重要文化財)



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漆塗り土器
(縄文時代中期、紀元前2800年、重要文化財)



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人物文様付き土器
(縄文時代中期、紀元前3000年)



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玦状耳飾り
(縄文時代前期、紀元前3900〜3300年、重要文化財)



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縄文服(復元)



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漁労のモデル(釣り)



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狩猟のモデル



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栽培のモデル



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家族のモデル






以上みてきたように、三内丸山遺跡からは、土器・土偶・石器・骨角器・木器・編カゴ・装身具・クリ・クルミ・動物の骨など、実にさまざまな物がたくさん出土します。これらの出土品によって「縄文人の定住生活説」が実証されました。

とくに、盛土からは、多数の土偶や装身具が出土し、土器や石器・石棒・石刀・動物の骨・コハクなどもみつかりました。盛土は、いろいろな物と土砂がつみかさなって周囲よりも2mほどたかくなったところです。茶色や黄色の土は地面をほったときにでた土であり、赤く焼けた土や炭の層もあります。土砂の層のかさなり(層状構造)は、下位から上位にむかって時代があたらしくなり、ここでは、縄文時代中期(紀元前3300年〜2200年)の約1000年間にわたって、さまざまな物が土砂とともにおなじ場所にすてられつづけたことがわかり、したがってすくなくとも約1000年間にわたって定住生活がいとなまれていたことがあきらかになりました。定住生活をしめす証拠として盛土はとても重要です。

この三内丸山地域は、森と海のゆたかな自然環境にめぐまれていました。住民の食料は、クリやクルミなどの木の実、キノコ、ワラビやゼンマイなどの山菜、植物の根にふくまれるデンプンなどの植物質のものがおおかったようですが、動物や魚・貝などもたべられました。

森では、クリやクルミ・ワラビ・キノコなどがとられました。動物は、ムササビやノウサギなどがおおくとられ、川や沼にきた水鳥もとられました(ただしほかの遺跡ではおおいシカとイノシシは非常にすくないです)。

猟は、弓矢や石槍をつかったり、落とし穴や罠をつかったりしておこなわれました。犬も、猟犬として活躍しました(縄文時代の遺跡からは大切に埋葬された犬が多数みつかっています)。

漁は、50種類以上の魚骨、シジミ・タコ・イカ・シャコなどが出土することから、陸奥湾沿岸から沖合にかけてのひろい範囲で、ときには津軽海峡へでかけて年間を通じておこなわれていたとかんがえられます。

集落のまわりにはクリ林がひろがっており、クリは食用としてだけでなく、建物の材料や煮炊きなどの燃料としてもつかわれました。集落のまわりの林は単なる自然林ではなく、植物の栽培もおこなわれていました。このような、住民がかかわった林の地帯を「縄文里山」とよびます。

煮炊きは、住居内の炉に土器をおいておこなわれました。外側にはススが、内側には、煮汁などがこびりついた痕がみられる土器があります。出土量が非常におおいことから、土器は頻繁につくられ、すてられていたことがわかります。

「円筒土器」が、北海道石狩低地の南から秋田市・盛岡市の北側にはひろく分布し、とくに、津軽海峡をはさんだ地域におおくみつかります。一般的な土器のおおきさは、たかさは約20〜40cm、容量は4〜7リットルです。おおきな土器はたかさ90cmちかくもあり、これらは貯蔵用につかわれたとかんがえられます。

住居は、10㎡ほどのひろさのものがおおく、中央には炉がつくられ、煮炊きや暖房、照明の役割をしていました。特別な施設を奥の壁際にもつ家もありました。

装身具としては、髪飾り・耳飾り・腕輪・ペンダントなどがあり、髪飾りは角や骨で、耳飾りやペンダントは粘土や石でつくられました。またクシは角や木でつくられました。これらは、ふだんから身につけるものもありましたが、まつりなど、特別な場合につかったものもあったでしょう。

狩りの成功や安産などを願う祈りや、自然の実りなどに感謝するまつりのためには、土偶や石棒・石刀・ミニチュア土器などもつかわれたかもしれません。

墓は、子どもの墓と大人の墓があり、乳幼児などの子どもは土器にいれて埋葬されました。煮炊きにつかった土器を転用し、底や横にわざと穴をあけたり、底をぬいたりしているものもあります。こぶし大の丸い石が中から出土することもあります。大人の墓は、集落の道路の脇にならんでつくられています。楕円形の穴をほり、壁際に板をたてたものや穴のまわりに石をならべたものなどがあります。矢じりや調理用の石、装身具などが中からみつかることもあります。

なお、ヒスイや黒曜石・コハクも出土しますが、これらは、ほかの地方からもちこまれたものです。新潟・富山県境のヒスイ、北海道や長野県の黒曜石、岩手県のコハク、秋田県のアスファルトがもちこまれました。広域的なネットワークがこの時代にすでにあったことがわかります。

このように、フィールドの調査・発掘と出土品の分析的研究により、当時の人々の生活と自然環境がわかってきました。とくに、「縄文里山」は重要です。当時の人々は植物栽培をすでにおこなっていました。集落のまわりに人の手で林をつくって食料生産性を継続的にたかめていました。「縄文里山」がもしなかったら、比較的おおきな集落で長期間にわたって定住生活を維持していくことはできず、もっととおくまで採集・狩猟に頻繁にでかけなければならなかったでしょう。定住はできなかったでしょう。

これらのことから、当時の三内丸山地域をモデル化すると下図のようになります。これを、「三内丸山モデル」とよんでおきます。


201121 三内丸山モデル
図 三内丸山モデル


三内丸山遺跡は、わたしたちの縄文時代の認識を一変させました。とくに、「縄文里山」にはおどろきました。縄文人は、狩猟採集の原始的な民族だとおもっていましたがそうではなく、おおきな集落をつくって長期間にわたって定住生活をし、自然環境と調和したすぐれた文化をうみだしていました。

そしてその縄文文化が、日本の基層文化になりました。日本の歴史と文化をかんがえるうえで縄文文化をしることはとても重要です。



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▼ 注
特別史跡「三内丸山遺跡」




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