三内丸山遺跡入口
(平行法で立体視ができます)
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大規模な集落が縄文時代にすでにありました。狩猟・漁労・採集にくわえて栽培がおこなわれていました。日本の深層文化にアプローチできます。
三内丸山遺跡は、縄文時代前期中頃から縄文時代中期(紀元前約3900〜2200年)の遺跡です。青森県青森市に位置し、2000年11月、国の特別史跡に指定されました。
1992年から、大規模な発掘調査がおこなわれ、竪穴建物跡、大型竪穴建物跡、大人の墓、子どもの墓、盛土、掘立柱建物跡、大型掘立柱建物跡、貯蔵穴、粘土採掘穴、道路跡などがみつかり、また膨大な量の土器、石器、土偶、土製品、石製品、掘り棒などの木製品、漆器、縄文ポシェットと編布、骨角器などが出土し、他地域からもちこまれたヒスイや黒曜石などもみつかり、当時の様子があきらかになってきました。
ステレオ写真はいずれも平行法で立体視ができます。
立体視のやり方 - ステレオグラムとステレオ写真 -
▼ 注
特別史跡「三内丸山遺跡」
1992年から、大規模な発掘調査がおこなわれ、竪穴建物跡、大型竪穴建物跡、大人の墓、子どもの墓、盛土、掘立柱建物跡、大型掘立柱建物跡、貯蔵穴、粘土採掘穴、道路跡などがみつかり、また膨大な量の土器、石器、土偶、土製品、石製品、掘り棒などの木製品、漆器、縄文ポシェットと編布、骨角器などが出土し、他地域からもちこまれたヒスイや黒曜石などもみつかり、当時の様子があきらかになってきました。
ステレオ写真はいずれも平行法で立体視ができます。
立体視のやり方 - ステレオグラムとステレオ写真 -
園内の道路
南盛土(断面)
竪穴建物(復元)
大型竪穴建物跡
大型竪穴建物(復元)
大型竪穴建物の内部(復元)
大人の墓(土坑墓)
掘立柱建物(復元)
北の谷(低湿地)
北盛土
子どもの墓
大型掘立柱建物跡
大型掘立柱建物(復元)
集落の風景(復元)
ジオラマ
園内の現在の道路は「道路跡」のうえにつくられています。発掘された道路跡は幅約7〜12mあり、地面をけずってつくられ、集落の東側へ約420m、南側へ約370mのびていました。南側へのびる道路跡にそった斜面には「環状配石墓」が並列につくられ、これらは、大人の墓のまわりを石でかこんだもので、直径は約4mありました。
「南盛土」は、当遺跡で確認された3つの盛土(北盛土・南盛土・西盛土)のひとつであり、土やゴミ、焼けた土や炭、石器やこわれた土器などがおなじ場所に長期間にわたってすてられて小山のようにもりあがったところです。北盛土と南盛土では土偶がとくにおおくみつかっています。展示施設内で盛土の断面がみられます。
「竪穴建物」(復元)は、縄文時代中期(紀元前約3000年)の竪穴建物を復元しており、地面をほって床をつくり、柱をたて、屋根をかけています。屋根は、茅葺き・樹皮葺き・土葺きの3種類を発掘調査の結果や民族例を参考にして復元しています。時代によって、平面の形・柱の配置・炉の位置や構造にちがいがあります。
「大型竪穴建物跡」は、集落の中央付近からおおくみつかります。公開している建物跡は縄文時代前期(紀元前約3500年)のものであり、ながさは約15m、柱の位置が外側へ移動していることから建て替えされた可能性が指摘されています。
「大型竪穴建物」(復元)は、ながさ約32m、幅約9.8m、床面積約250㎡、日本最大のものです(ながさが10m以上ある竪穴たてものは大型竪穴建物とよばれます)。縄文時代中期後半(紀元前約2800年)のものが復元され、住居であったとする説のほかに、集会場や共同作業場だったという説などもあります。
「大人の墓(土坑墓)」は、むかいあうように道路の両脇に列状にならんでいました。当時の大人は、地面にほられた穴(土坑墓)に埋葬され、墓のなかからは、ヒスイ製のペンダントや石器が副葬品として出土した例もあります。
「掘立柱建物」(復元)は、地面に柱穴をほり、柱をたててつくった建物であり、炉や床などの跡がみつからないことから高床建物であったとかんがえられます。柱は、約35cmの倍数で配置されています。
「北の谷(低湿地)」は、縄文時代前期(紀元前約3900〜3300年)にゴミ捨て場としておもに利用されていました。水分が豊富なため、通常はのこらない動物や魚の骨、種子、漆器や木製品、編み物、寄生虫の卵などの有機質の遺物が良好な状態で出土しました。当時の環境や食生活が推定できます。また土留め用の杭列がみつかっています。
「北盛土」は、発掘調査された当時のまま展示されており、一面にしきつめられたような土器は縄文時代中期(紀元前約3000年)のものです。みえているのは盛土のほんの一部であり、このような状態のものが何層にもかさなってひろがっています。
「子どもの墓」の発掘により、子どもの遺体は土器にいれて埋葬したことがわかりました。棺につかわれた土器はまるい穴があけられたり、口や底がこわされており、煮炊きに使用した土器とは区別されていました。なかからは、こぶし大のまるい石が出土した例もあります。
「大型掘立柱建物跡」からは、直径約2m、ふかさ約2mの柱穴が3個ずつ2列ならんでみつかり、これらの間隔はすべて約4.2mであり、規則ただしく配置され、柱穴のなかからは、直径約1mのクリの木柱がみつかりました。縄文時代中期後半(紀元前約2600年)のものとかんがえられます。
「大型掘立柱建物」(復元)は、発掘調査の成果や柱穴の底の部分にかかっていた土圧の分析結果などから全体のおおきさを推定し、柱間とおなじ4.2m間隔で床をつくり、3層の建物としました。屋根については、さまざまな説があることから現在のところ復元していません。
以上のように、竪穴建物跡や大型竪穴建物跡・道路跡・墓・盛土などが発掘されたことから、ここには、比較的おおきな集落(ムラ)がかつてはあり、人々が、通年定住していたにちがいないという仮説がたてられます。
この集落は、陸奥湾にそそぐ沖館川右岸の標高約20mの河岸段丘状上に位置し、北側には、竪穴建物や大型竪穴建物で構成される住居域が、東側には墓域が配置されていました。狩猟具や釣り針・銛などの漁労具、加工具、多種多様な魚骨や動物骨、クリ・クルミなどの堅果類などが出土することも、当時の人々が定住生活をしていたことを裏づけます。内湾および河口に立地していて水産資源にめぐまれていたとかんがえられ、またクリ林を維持・管理していた痕跡もあります。盛土の上では、まつりや儀式をおこなっていたのかもしれません。
▼ 注
特別史跡「三内丸山遺跡」