本書で著者は、「法隆寺は、聖徳太子一族の鎮魂寺である」という仮説をたてました。

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そして、いったん仮説がたてられると、今度はつぎの過程によって、あらたな事実を予見(想像)することが可能になります。

前提 → 仮説 → 事実予見

ここで前提は、「日本の神まつりにおいて勝者は敗者を鎮魂する」ということです。この前提から、「法隆寺は鎮魂寺」であるという仮説がひきだされると、今度は、それに基づいてあらたな事実を予見し想像できることになります。

そして、予見・想像の結果がただしいかどうかを実際に現場に行ってたしかめます。たしかめられ、予見や想像が観察事実と一致すれば、仮説はさらにつよめられるわけです。

たとえば、著者の梅原さんは、 昭和46年、 聖徳太子の霊を祀る祭である聖霊会(しょうりょうえ)千三百五十年忌に実際に出席し、仮説を支持する数々の事実を観察しました。御輿が復活した怨霊のひそむ柩(ひつぎ)であるとか、怨霊の狂乱の舞であるとか。

こうして仮説は、 〔前提→仮説→事実確認〕の過程によってさらにつよめられ、仮説にもとづく情報の体系化ができました。この〔前提→仮説→事実〕の過程は演繹法ともよばれます。

演繹法:前提 → 仮説 → 事実

『隠された十字架』では、第二部「解決への手がかり」において、当時の仏教政策、仏教情勢の全体を論じ、四大寺の設置とともにその移転をめぐる政治的意味、また、その宗教政策は神道政策ともふかく関連をもっていたことを解説しています。

この第二部は、上記でいう「前提」に位置づけられます。著者の梅原さんは、「前提」についてもかなりくわしくおさえています。

この第二部の「前提」、そして「鎮魂寺」仮説をへて、『隠された十字架』第三部「真実の開示」が執筆されています。第三部において、多種多量の事実が明示・確認され、仮説はさらにつよめられ、『隠された十字架』が体系化されたわけです。したがって本書の構成では、第二部 → 第三部に〔前提 → 仮説 → 事実〕の過程を見てとることができます

以上のように、この方法では、ある前提(背景)のもとで、現場の事実の想像と確認ができるということになり、前提(背景)と現場の事実は、場と要素の関係になっていて、全体的な場のなかに個々の要素が位置づけられるのであり、その位置づけを決める役割をはたすのが仮説です。仮説があることにより、場の中で要素は適切に位置づけられ、全体が体系化でき、『隠された十字架』が完成したといえるでしょう

言いかえると、仮説がないと、データの羅列、あるいは、せいぜいデータの分類でおわってしまうということです。

本書にかぎらず、前提と仮説と事実をこのように整理してみると体系化の中身がよく見えてきます。