ルンビニから西へ約27kmいったところにあるティラウラコット(コットとは村の意味)は、シャーキャ国の城都カピラヴァストゥ(ヴァストゥは城の意味)があったところであるとかんがえられます。城址は、東西約400m、南北約500mのひろがりをもち、レンガづくりの城門と城壁にかこまれ、王宮の土台部分や貯水池跡などがみられます。シッダッタ王子は、29歳まで、カピラヴァストゥですごしました。
城址には西門からはいります。西門は堅固で重厚なつくりであり、そこから南北に城壁がのび、城壁はたおれたり、うまったりしていますが、レンガづくりの強固なものであったことがわかります。西門跡の反対側には東門跡があり、そこからも城壁跡がのびています。東門は、シッダッタ王子が悟りの道を決断して城をでた門とされます。
城址から北へ約500mいくと、「双子仏塔(ツイン・ストゥーパ)」とよばれる大小2基の墳墓があります。発掘調査の結果、シャーキャ国があった時代のものであると推定され、大小よりそってたっている様子から王と王妃のストゥーパであると想像できます。地元の人々は、ブッダの父・スッドーダナ王と母・マーヤー王妃のものであると信じています。
マーヤー王妃は、シッダッタ王子を出産後7日でなくなりました。スッドーダナ王は、マーヤー王妃の妹マハーパジャーパティー(マハープラジャーパティーあるいはゴータミーとも)を王妃としてむかえ、王子は、マハーパジャーパティー王妃にそだてられました。
城址の西門から西へすこしいったところにはカピラヴァストゥ博物館があり、土器や人形・貨幣・トークン・矢じり・ビーズなど、王宮などから発掘された品々が展示されています。撮影が許可されています(有料)。
ティラウラコットにはそのほかにも、仏塔遺跡やアショカ王が建立した石柱、ふるい村落の遺跡など、たくさんの遺跡が点在しています。
たとえばカピラヴァストゥ城址から5km ほど北東へいくとニグリハワのアショーカ石柱(Ashoka Pillar)があります。人造池(ニガリ・サガル)のほとりに石柱の上半分がよこたわっており、もともとは池の浅瀬で発見され、ひきあげられて現在の場所で保管されています。
石柱には、「(前略)コナカマナ・ブッダのストゥーパの2回目の拡大を行った(後略)」ときざまれており、コナカマナ・ブッダとはコナカムニともよばれ、ムニとは賢者・聖者を意味し、コナカムニは伝承によると、シャーキャ族のブッダ(ゴータマ=ブッダ)以前に存在した3人の「ブッダ」のひとりであり(ブッダとはもともとは、目覚めた人、悟った人を意味します)、2番目に悟りをひらいた人とされます。このようなことから、ブッダ信仰がこの地に歴史的に存在していたことがわかります。
これらのことから、このあたりにかつては、城都(王宮)を中心として、周囲では農業がいとなまれ、交易も発達していた都市文明圏があったことが想像できます。
ところがその後、悲劇がまっていました。
しかしその後、コーサラ国は、ガンジス川の下流域で勢力を拡大していた、マガダ国のアジャータシャトル王(紀元前493-紀元前461年)によってほろぼされ、カピラヴァストゥ一帯もマガダ国が支配下におきました。
以上のように、ティラウラコットにはたくさんの遺跡があります。ルンビニにいったら是非 足をのばしてください。見学するには車をチャーターするとよいでしょう。ルンビニのホテルにたのめば地元にくわしいドライバーを手配してくれます。ひととおりまわるのに約4時間はかかります。
城址には西門からはいります。西門は堅固で重厚なつくりであり、そこから南北に城壁がのび、城壁はたおれたり、うまったりしていますが、レンガづくりの強固なものであったことがわかります。西門跡の反対側には東門跡があり、そこからも城壁跡がのびています。東門は、シッダッタ王子が悟りの道を決断して城をでた門とされます。
西門跡
東門跡
城壁跡
王宮跡
井戸跡
貯水池跡
城址から北へ約500mいくと、「双子仏塔(ツイン・ストゥーパ)」とよばれる大小2基の墳墓があります。発掘調査の結果、シャーキャ国があった時代のものであると推定され、大小よりそってたっている様子から王と王妃のストゥーパであると想像できます。地元の人々は、ブッダの父・スッドーダナ王と母・マーヤー王妃のものであると信じています。
双子仏塔(ツイン・ストゥーパ)
マーヤー王妃は、シッダッタ王子を出産後7日でなくなりました。スッドーダナ王は、マーヤー王妃の妹マハーパジャーパティー(マハープラジャーパティーあるいはゴータミーとも)を王妃としてむかえ、王子は、マハーパジャーパティー王妃にそだてられました。
城址の西門から西へすこしいったところにはカピラヴァストゥ博物館があり、土器や人形・貨幣・トークン・矢じり・ビーズなど、王宮などから発掘された品々が展示されています。撮影が許可されています(有料)。
出土品
(カピラヴァストゥ博物館)
ティラウラコットにはそのほかにも、仏塔遺跡やアショカ王が建立した石柱、ふるい村落の遺跡など、たくさんの遺跡が点在しています。
たとえばカピラヴァストゥ城址から5km ほど北東へいくとニグリハワのアショーカ石柱(Ashoka Pillar)があります。人造池(ニガリ・サガル)のほとりに石柱の上半分がよこたわっており、もともとは池の浅瀬で発見され、ひきあげられて現在の場所で保管されています。
石柱には、「(前略)コナカマナ・ブッダのストゥーパの2回目の拡大を行った(後略)」ときざまれており、コナカマナ・ブッダとはコナカムニともよばれ、ムニとは賢者・聖者を意味し、コナカムニは伝承によると、シャーキャ族のブッダ(ゴータマ=ブッダ)以前に存在した3人の「ブッダ」のひとりであり(ブッダとはもともとは、目覚めた人、悟った人を意味します)、2番目に悟りをひらいた人とされます。このようなことから、ブッダ信仰がこの地に歴史的に存在していたことがわかります。
ニグリハワのアショーカ石柱
これらのことから、このあたりにかつては、城都(王宮)を中心として、周囲では農業がいとなまれ、交易も発達していた都市文明圏があったことが想像できます。
カピラヴァストゥ城址から南へ約6kmいったところに位置するクダンは、出家した王子がブッダになって故郷にかえったときに、カピラヴァストゥ王宮にははいらずに手前でとどまり、父王スッドーダナと再会したところです。7年ぶりの帰郷でした。現在は、僧院跡や仏塔跡などがみられます。
シャーキャ国のシッダッタ王子は、ヤソーダラーと結婚し、王位を将来継承する皇太子となっていましたが、29歳のときに、カピラヴァストゥ城の東門から、悟りの道をもとめて出発しました。
その後、王子が悟りをひらき、教えをひろめていることをききしった父王は、使者をおくって郷里をおとずれるようつたえ、これをうけてブッダは、王宮に宿泊するのではなく、城外のどこかに宿泊できるように依頼したとされます。ブッダは、継母マハーパジャーパティー王妃と妻ヤソーダラー妃・息子ラーフラらとも再会し、40日ほどクダンに滞在して、ラージャグリハ(古代インド・マガダ国の都(王舎城)、現在のビハール州ラージギル)にもどったとつたえられます。
クダンの遺跡
クダンの遺跡
ところがその後、悲劇がまっていました。
カピラヴァストゥ城址から北東へ4kmほどいったところはサガルハワとよばれ、そこは「シャーキャ族虐殺の地」であるとされます。
シャーキャ国のスッドーダナ王が逝去したのち、バドゥラカ王が王位を継承し、そしてマハナマ王が王位を継承したころ、北西インド地域で勢力を維持していた、当時の16大国のひとつ、コーサラ国の王位についたヴィルダカ王がカピラヴァストゥにせめいり、攻防のすえ、シャーキャ族の多数の人々を惨殺しました。サガルハワは、最初の発掘調査が1897年におこなわれ、遺骨をおさめた多数のストゥーパの遺跡があることが確認され、マハナマ王の骨壺も発見されました。
シャーキャ国のスッドーダナ王が逝去したのち、バドゥラカ王が王位を継承し、そしてマハナマ王が王位を継承したころ、北西インド地域で勢力を維持していた、当時の16大国のひとつ、コーサラ国の王位についたヴィルダカ王がカピラヴァストゥにせめいり、攻防のすえ、シャーキャ族の多数の人々を惨殺しました。サガルハワは、最初の発掘調査が1897年におこなわれ、遺骨をおさめた多数のストゥーパの遺跡があることが確認され、マハナマ王の骨壺も発見されました。
ブッダは、コーサラ国軍が進軍するとき、その路上の枯れ木の下にすわり、ヴィルダカ王に憂慮の気持ちをつたえ、ヴィルダカ王は一旦は兵をひきましたが、再三にわたり進軍をくりかえしたため、ヴィルダカ王をシャーキャ側がはずかしめたところに事の発端があるとブッダはおもい、ある日、木の下に坐すことをやめたとつたえられます。こうして、シャーキャ国は滅亡しました。
しかしその後、コーサラ国は、ガンジス川の下流域で勢力を拡大していた、マガダ国のアジャータシャトル王(紀元前493-紀元前461年)によってほろぼされ、カピラヴァストゥ一帯もマガダ国が支配下におきました。
以上のように、ティラウラコットにはたくさんの遺跡があります。ルンビニにいったら是非 足をのばしてください。見学するには車をチャーターするとよいでしょう。ルンビニのホテルにたのめば地元にくわしいドライバーを手配してくれます。ひととおりまわるのに約4時間はかかります。