地形・地質を最大限に活用しました。人材がそだちました。城下町の時代はおわり、近代化へ時代は転換します。
NHK「ブラタモリ」、鹿児島編は、「なぜ鹿児島は明治維新の主役となれた?」というテーマでブラブラします。

鶴丸城(鹿児島城)跡からスタートです。




慶長6(1601)年、島津家18代当主・島津家久によって十数年かけて築城されました。
「これまでいろいろな城を見てきたけれど、石垣はみんなもっと高かった。堀も狭いよね」(タモリ)
石垣のたかさは約6.6m、堀の幅は約13m、ふかさはわずか80cmほどしかありません。また枡形もきわめてシンプルであり、大手門からすぐのところに本丸があります。「無防備すぎ」です。

そこで本丸の裏手にまわってみると、切り立った崖につきあたります。天然の岩壁、この「城山」によって城はまもられていました。

つづいて城山の上へ。意外に平坦なところです。ここには、兵をあつめて配備する「曲輪(くるわ)」がおかれていました。

遊歩道をあるいていくと白っぽい岩肌の地層がみえます。「シラス」です。シラスとは、火山からふきだした高温の火山灰・軽石・水蒸気などをふくむ火砕流が熱や圧力でおしかためられてできた地層です。
「その火砕流はどこから来たんですか? 桜島ですか?」(近江アナ)
「いや、桜島じゃない。これは姶良カルデラ」(タモリ)
カルデラとは、火山が噴火し、地下のマグマがなくなったことで山全体が陥没してできる巨大な「穴」です。約2万9000年前、いまの桜島の北側には巨大火山があり、その爆発で、700度をこえる火砕流が大地をおおい、その堆積物が「シラス台地」となりました。その地層の厚さは100mをこえるところもあります。

シラスは風化しやすく、薄皮のようにポロッとはがれる性質をもっており、これが、城山の急な崖と大地をつくりました。鹿児島県の50%以上をシラス台地がしめ、いたるところで急な崖と大地が天然の要害となり、この地形をいかして、薩摩藩独自の防衛ネットワーク「外城制(とじょうせい)」がつくられました。それは、要害の地を山城とし、その周囲に武士をすまわせる仕組みで、江戸時代の薩摩には110におよぶ外城がありました。鹿児島全体がいわば「巨大な要塞」でした。島津家は、シラス台地の利点をよく理解してかしこく活用しました。

さらに、城山自然歩道をあるいていくと二之丸あたりの裏手にでます。道がぬかるんでいます。山肌から水がわきだしています。シラス層の下には泥岩層があり、それは水をとおさないので水がわきでます。したがって水にこまることはありません。シラスは、水をたっぷりためこむ性質があり、わき水はいつも一定量です。地形と地質を最大限にいかした城造りがおこなわれていたことがよくわかります。

今度は、鹿児島駅前へ。ここから市電にのり、城下町をみます。5駅目のいづろ通電停でおります。おおきな石灯籠があります。このあたりはかつては海沿いで、これは、灯台のような役割をはたしていました。薩摩藩は、海岸をうめたてて城下町をひろげ、海運業や貿易にたずさわる商人をすまわせました。琉球を通じて中国との交易をし、中継貿易で多大な利益をあげました。




つづいて、ひと駅となりの天文館界隈へ。かつては甲突川はここをながれていました。川の流路をかえて武士の居住地域をふやしました。

つけかえられた甲突川の周辺には、明治維新の主役となった藩士たちが多数うまれそだった「加治屋町」があります。




西郷隆盛の生誕地をたずねます。「下加治屋郷中(ごじゅう)」、現在の加治屋町の一角です。そばには、大久保利通がそだった家の跡も。さらに、おなじ郷中には、大山巌・東郷平八郎・村田新八・吉井友実・篠原国幹らもいました。ちいさな一区画から、これほどたくさんの逸材が輩出したのは薩摩藩独特の「郷中教育」の賜物です。それは、おなじ地域にすむ武士の子供たち同士で、年長者がリーダーになって武芸や学問を年少者に自治的に指導する教育のしくみです。たすけあったり切磋琢磨したりするなかで精神性がひきつがれ、つよい結束力が郷中に芽ばえ、またリーダーもそだちました。幕末には、鹿児島城下に36の郷中がありました。

つづいて、桜島フェリー乗り場ちかく、「いおワールドかごしま水族館」の前にやってきます。海につながる水路には100mほどのながい石垣があります。ここは「新波止」とよばれ、西洋列強の侵略をふせぐために大砲を設置した「お台場」でした。実際に、薩英戦争でつかわれました。1820年代からつぎつぎと外国船があらわれ、事件が勃発していました。




3km ほどはなれた皷川町(つづみがわちょう)、「たんたど」という名の市バスの停留所があります。その北西には、「たんたど石」を採石していた石切場がありました。たんたど石は、約54万年前の吉野火砕流でできた溶結凝灰岩であり、シラス層の下にあります。切り出しも加工もしやすく、しかも城下町からちかい場所で大量にとれました。大地のこの恵みをいかしてお台場を建設しました。




今度は、鹿児島市街から車で20分、島津家の別邸「磯庭園」こと「仙巌園(せんがんえん)」へ。御殿にはいり、障子をあけると真正面にドーンと桜島が。庭園と錦江湾(鹿児島湾)と桜島が一体化した雄大な眺めです。




庭園には、かわった形の石灯籠があります。薩摩藩近代化の立役者だった島津斉彬はこれをつかってある実験をしました。ガス灯です。

つぎに石垣のうえにいくと、鉄をとかして鋳型にながしこんで大砲を製造していた「反射炉」の基礎部分の遺構があります。溶結凝灰岩のたんたど石でつくられています。反射炉は、ヨーロッパで18世紀に開発された金属溶解炉です。土台の内部に特別にはいらせてもらうと、当時の石組みの技がみてとれます。基礎の石組みには石垣をつくる技術、耐火レンガの焼成には薩摩焼の技術、レンガの筒のカーブは石橋のアーチ造りの技術というように、既存の技術を応用して反射炉をつくりました。この反射炉跡は、「明治日本の産業革命遺産」の構成資産のひとつとして、2015年、世界文化遺産に登録されました。

さらに「尚古集成館(しょうこしゅうせいかん)」本館としている建物、ここは、幕末にきずかれた機械工場でした。戦艦の部品や工作機械などがつくられました。建物の外壁は、断熱性にすぐれる溶結凝灰岩「小野石」がつかわれています。

薩摩では、いろいろな溶結凝灰岩が用途に応じてつかいわけられていました。それが、明治維新の礎にもいかされました。

斉彬は、製鉄・造船・ガラス製造・紡績など、さまざまな近代化事業にとりくみ、工場群を建設しました。日本の産業革命は幕末にすでにはじまっていました。

幕末の絵図『薩州鹿児島見取絵図』をみると、ここ仙巌園の裏山には水路がはりめぐらされ、工場までそれがつづいていたことがわかります。実際に裏山にいってみると、たしかに水路跡があります。6km ほど上流から水をひいていました。

つぎにこの水路の上流をたずねます。車で30分、稲荷川の上流です。「関吉の疎水溝」とよばれる場所です。江戸時代初期に水田への灌漑を目的としてつくった用水路でした。




斉彬はこれに目をつけ、集成館の事業の動力として利用するために、この用水路を改修して工業用水として活用しました。

薩摩の人々は、地形や地質がうんだ大地の奇跡をみのがしませんでした。そのような姿勢が、明治維新につながる知恵や工夫の源泉となりました。地形・地質をしる者は国家を制します。

ところで薩摩といえばサツマイモです。シラス台地は、水はけがよすぎて米づくりにはむかず、その他の農作物の生産性もたかくありません。そこで推奨されたのが、琉球を通じて伝来した「唐芋(からいも)」ことサツマイモの栽培でした。サツマイモは、シラスの特性とも薩摩の気候ともあい、薩摩の主力作物となり、ほかの作物が凶作によりできなかったときでもサツマイモだけはでき、領民が餓死することはありませんでした。






以上みてきたように、鶴丸城(鹿児島城)および外城の築城、城下町の建設、農業の振興などのために、薩摩の人々は、地形・地質・気候などの自然環境をよく理解し、たくみに利用しました。不利な条件があっても自分たちの強みにかえました。とくに、シラスがつくる地形とシラスの性質はみごとにいかしきりました。

そして自然環境をしり、それを活用する技術が、お台場、製鉄、大砲、造船、ガラス製造、紡績、工業用水、工場群など、さまざまな近代化事業にいかされました。日本の産業革命は幕末に薩摩ですでにはじまっていました。

また拡充・整備された城下町、とくに加治屋町で、時代をうごかす逸材がそだちました。そこでは、「郷中教育」が決定的な役割をはたしました。

薩摩の人々はそもそも、大和の政権をきずいた人々の系統とも、鎌倉時代〜江戸時代をきずいた東国武士の系統ともことなる系統の人々であり、日本をかえようとしたエネルギッシュなあらたな流れは薩摩からうまれました。

こうして江戸時代はおわり、時代は明治になり、近代化がはじまります。すなわちこれは、城下町の時代はおわり、城下町の役割はおわったことを意味します。

しかし、城下町の時代はたしかにおわりましたが、近代化につながる知恵と工夫は江戸時代の城下町ですでにつちかわれていたことに気がつくことは重要でしょう。

わたしはかつて、薩摩は、江戸あるいは京都からみれば日本の西南端でありながら、なぜ、明治維新の主役となったのか疑問におもい、鹿児島を旅したことがありました。そのときは、時代をうごかした人々のエネルギーに感じいりましたが、こうして鹿児島をいまとらえなおしてみると、そのエネルギーは、江戸時代に、ポテンシャルをすでに相当たかめていたことがわかります。それは、城下町のしくみによってたかまっていました。

鹿児島をフィールドワークしてみれば、城下町の痕跡のみならず、時代をうごかしたこのようなエネルギーがどこからわきでてきたのかをしることができます。そして江戸から明治への時代の転換を追体験することができます。とてもおもしろいところです。




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▼ 参考文献
NHK「ブラタモリ」制作班監修『ブラタモリ 14 箱根 箱根関所 鹿児島 弘前 十和田湖・奥入瀬』KADOKAWA、2018年
2020-08-18 10.39.55


▼ 関連サイト
城山公園
鹿児島県立博物館
仙巌園
鹿児島県歴史・美術センター黎明館
維新ふるさと館


▼ 関連書籍
鹿児島(Amazon)
2020-08-26 20.44.30