東北有数の稲作地帯です。扇状地を活用しました。縁から、アイデアがうまれます。
NHK の人気番組「ブラタモリ」の「会津」編は、「会津人はアイデアマン!?」というお題でブラブラします。




若松城(鶴ヶ城)からスタートです。




天守にのぼると会津盆地がみわたせます。南北34km、東西13km、東北地方有数の稲作地帯がひろがります。周囲の山々が「やませ」をさえぎるため冷害がすくなく、米の収穫量が昔から安定していました。やませとは、夏季、北海道や東北地方の太平洋側にふくつめたくしめった風であり、長期間にわたってふくと冷害をもたらし、「餓死風」「凶作風」ともよばれ、おそれられました。

城の東側をみると、山と盆地の境界が南北に一直線になっていることがわかります。西側をみても、おなじように一直線になっています。
「これ、いわゆる構造盆地でしょ」(タモリ)
一直線になっているのは実は断層です。会津盆地は、東西2本の断層にはさまっており、これらがかつてうごいて、外側は隆起し、内側はしずんで盆地を形成しました。このような地殻変動でできた盆地が「構造盆地」です。

つぎに、城の東側にある谷間へ移動します。渓谷です。しかしここから西に目を転じると傾斜がゆるやかになり、扇状に平地がひらけます。ここは「扇状地」の「扇頂」です。福島県・三大温泉のひとつといわれる東山温泉の一角にたたずむ「御宿東鳳」の20階にくるとよくみえます。若松城の天守も遠望できます。若松城は、川がはこんだ土砂があつく堆積した扇状地のたかい場所につくられました。会津盆地全体がみわたせ、また川の出発点であり、“水” を支配できるところです。為政者は、こうした地の利をみこして城をきずきました。




今度は、城下町の痕跡をもとめて市街地へ。「外堀ビル」にやってきます。その名のとおり、ここにはかつて外堀がありました。ブロック塀が蛇行しているのがその痕跡です。古地図の外堀ともぴたりと一致します。堀の内側をたどってすすんでいくとおおきな石垣があります。これは若松城内への入口となった門、郭門のなごりです。門を背にして城の方にあるいていくと、防御のための「クランク」の跡があります。会津若松の当時の建物のおおくは焼失していますが、堀・郭門・クランクの痕跡からかつての城下町の面影をしのぶことができます。

つぎにやってきたのは堀の外側にあるすこしおおきな交差点、ここにもクランクがあります。しかしこれは、東西方向の線にそってつくられており、城の方向にはむかっていません。しかも地下に水路があります。会津盆地は南東がたかく、北西がひくい地形をしており、この傾斜を利用して水をながします。ただし傾斜がきついので、そのままながすと一気にながれくだってしまい、町全体に水をいきわたらせることはできません。そこでクランクを水路につくって水のいきおいをよわめ、周辺に水がいきわたるようにしました。地形をうまく活用しています。

しかし江戸時代、会津若松の城下町はおおきく発展し、水田開発もすすみ、川の水だけではたりなくなりました。こうして猪苗代湖に水源をもとめた「戸ノ口用水」の開削がはじまりました。猪苗代湖の標高は514m、会津若松の町との高低差は300mしかなく、難工事になりました。




タモリさんたちは水路の切り通しにやってきます。地質をみると火砕流の堆積物でできていてボロボロとくずれやすいです。地形のままするどいカーブをえがいた水路をつくればすぐにこわれてしまいます。そのため切り通しをつくって水のながれを制御しました。水路の完成までには70年の歳月がかかる難工事となりましたが、年間4500tの水がひかれ、3万石分の水田をうるおし、会津を発展させることに貢献しました。

地形と地質はすでにきまっていますが、それを理解し、改良して活用していく、会津人たちのアイデアがここにもあらわれています。

最後にやってきたのは飯盛山、ここには「さざえ堂」があります。六角三層の建物であり、内部は、二重らせん構造になっており、上りと下りのスロープはまじわりません。ここにはかつて、33の観音様が安置されていて観音めぐりが体験できました。大勢の人々が参拝におとずれてもすれちがうことはなく、混雑を気にする必要はありません。省スペースで合理的なお堂です。また堂内33ヵ所にある賽銭箱にいれられたお金は樋をとおって地下にあつまる仕組みになっています。奇抜なアイデアがここにもつまっています。






わたしはかつて、会津若松を旅したとき、白虎隊のイメージとともに愚直な閉鎖社会といった感想をもちましたが、いま、こうして会津をとらえなおしてみると、そういうことよりも、人間と自然環境が調和したみとごな城下町であったことがわかります。会津は、地域の一体性が顕著であり、地域が、ひとつの体系になっています。完結しているといってもよいでしょう。このことは、たとえば東北の都とよばれる仙台とくらべてもすぐれています。

会津人たちはアイデアマンでした。ながい歴史のなかで、気候・地形・地質・扇状地・水系などを理解し、利用し、そして改良しました。自然環境の利用、人間の工夫がありました。その地域の自然環境はすでにきまっているものですが、それをただうけいれるだけでなく、積極的にはたらきかけ、手をくわえ、そして生活を改善します。

こうして、人間と自然はきってもきれない関係になりました。ここに、ひとつの地域の完成形をみることができます。それは、ひとつの “国” といってもよく、そのことが、戊辰戦争のときに最後まで抵抗するおおきな要因になったのではないでしょうか。 

今回のブラタモリでもそうであったように、城下町を旅するときには、城跡をおとずれるとともに、城下町の縁をあるいてみるとよいです。宿を、中心部にではなく、やや郊外にとってみるのもよいでしょう。縁には、さまざまな工夫がみられます。人間と自然の交互作用があります(図)。


200715 縁
図 縁のモデル


縁というのは、中心からはややはずれていますが、はなれすぎてはおらず、おもしろいところです。アイデアは、中心よりもむしろ縁からうまれます。中心に、どっぷりつかってしまうのではなく、ちょっとはなれたところ、しかし完全にははなれていないところが独創・創造の現場です。



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▼ 参考文献
NHK『ブラタモリ 8 横浜 横須賀 会津 会津磐梯山 高尾山』KADOKAWA、2017年


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会津(Amazon)
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