城郭と城下町の痕跡がみられます。
小田原は城下町の原点・モデルでした。
原点・起源をしることはトータルにすばやく物事を理解するために役だちます。
NHK の人気番組「ブラタモリ」の小田原編は、「江戸の原点は小田原にあり?」というお題でブラブラしています。
小田原はかつては、北条氏の本拠地として関東一のにぎわいをみせていました。北条早雲から5代100年にわたり、関東一円に勢力をひろげた北条氏の版図は、本能寺の変で織田信長がたおれてからは上野・信濃にまでおよび、その広大な領地の中心となった城下町が小田原でした。
小田原城址公園には、江戸時代の天守閣が復元されています。その裏手にある「こども遊園地」にいってみると「東京軽石層」という地層がみられます。いまから6万6000年ほどまえ、箱根火山が大爆発したときにできた地層で、軽石をふくむ火山灰が10m以上もこの地につもったことがわかります。小田原城の周辺には、山から海へと3本の尾根がつらなり、火山灰がつくったこの地形が難攻不落の名城・小田原城をうみだしました。小田原城本丸は、中央の尾根の先端に位置し、両側の尾根は防御のために活用されました。
つぎにむかったのは、小田原城から西に1.5kmほどの早川のほとり、ここには、「小田原用水」の取水口があります。全長3.5kmの用水が清流を城下にはこび、その最大の特徴は飲み水としてこれがつかわれていた点にあり、「日本最古の水道」ともいわれます。小田原は海にちかく、井戸水に塩分がふくまれているため、飲用水を別の方法で確保する必要がありました。井戸水に海水がまざるという事情は江戸もおなじであり、小田原用水は、江戸の神田上水や玉川上水がつくられるときの手本になりました。
今度は、小田原城から北東に1kmほどいってみると、路地につづく不自然な石積みがみつかります。1590年、豊臣秀吉は小田原を大軍で包囲しました。ここは、秀吉の軍勢にそなえるために北条氏がきずいた堀の跡であり、明治時代にうめたてられましたが排水量がおおいため、水ぬきのために水路がのこされたのでした。城から1km以上もはなれたところに大規模な堀と土塁がきずかれ、それが9kmにわたって城下町をぐるりとかこんでいます。これは「小田原城総構」とよばれ、当時としてはほかに類をみない巨大なものでした。小田原合戦のときに大規模な合戦がこの周辺で唯一おこなわれましたが、攻撃側は、1000人以上の犠牲者をだしながら総構を攻略できなかったという記録がのこっています。総構はのちに、江戸城をはじめとする近世城郭のおおくにうけつがれていきます。
つぎにむかったのは、小田原合戦時の徳川家康の陣地跡です。家康は、1590年、小田原合戦終結の5日後に総構のなかにはいり、城下町の姿を目のあたりにします。その後、江戸にはいって城下町づくりを開始したときに小田原を意識していたことはまちがいありません。また小田原合戦には、戦国大名の大部分が集結しており、彼らは、小田原の城下町をみて衝撃をうけたことでしょう。こうして、小田原城下町は、江戸城下町だけでなく、全国各地の城下町建設の原点・モデルになりました。
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城を中心として、城郭と城下町がひろがり、その周辺には耕作地がひろがり、さらにその外側には自然環境がひろがり、それぞれの城下町は、ぞれぞれの地方における政治・経済・文化の中核として機能し、そして全国各地の城下町には、このような同一のパターンがどこにいってもみとめらました。パターン(モデル)があると進歩がはやいです。城下町にいけばどこでも、ひととおりのものがそろっており、城下町は、大陸の都市国家にも似た要素をもち、それぞれの城下町はひとつの “国” でした。
それぞれの城下町は江戸幕府の管理下におかれてはいましたが、それぞれの地方においては独自の発展をし、地域の個性をうみだしました。江戸幕府による全国支配があったにもかかわらず、日本国には多様性があったという、普遍性と個性が両立したような、いっけん矛盾するような仕組みが江戸時代にはあり、この時代は、このような城下町を基盤として発展しました。
現在の日本をみても、人口10万以上の都市の半分以上が城下町を起源としており、近代日本を建設するうえでも、城下町と江戸時代はその基盤としておおきな役割をはたしました。
このように城下町は、江戸時代のみならず日本の近現代を理解ためにも重要です。
わたしはかつて、「小田原は最初の城下町だった」という話をききおよび、しらべにいったことがあります。
そのときの旅行と今回のブラタモリにより仮説が検証できました。原点でありモデルである小田原をみておくことにはおおきな意義があります。原点や起源をしることは、その分野の全体をすばやく理解するためにたいへん役だちます。
わたしはかつて、「小田原は最初の城下町だった」という話をききおよび、しらべにいったことがあります。
小田原城天守閣
(2013年撮影)
(2013年撮影)
そのときの旅行と今回のブラタモリにより仮説が検証できました。原点でありモデルである小田原をみておくことにはおおきな意義があります。原点や起源をしることは、その分野の全体をすばやく理解するためにたいへん役だちます。
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▼ 参考文献
NHK「ブラタモリ」制作班監修『ブラタモリ 5 札幌 小樽 日光 熱海 小田原』KADOKAWA、2016年
▼ 参考サイト
小田原城