地形・地質をしらべます。斜面に注目します。空間的な認識に歴史的な考察をくわえます。
NHK の人気番組「ブラタモリ」が仙台にいきました(2015年7月11日放送)。ブラタモリ制作班監修『ブラタモリ 3』(KADOKAWA, 2016年)をよんであらためて内容を確認しました。お題は「伊達政宗は『地形マニア』!?」です。
仙台城跡
青葉山の高台にきずかれた仙台城跡からフィールドワークがはじまります。なぜ、伊達政宗はここに城をきずいたのでしょうか?
仙台城の周辺をみわたすと、東は広瀬川をのぞむ断崖、西は「御裏林(おうらばやし)」とよばれる自然林、南は竜ノ口渓谷のふかい谷間という要害の地であり、あとは北側に石垣をきずけば鉄壁のまもりが完成します。
政宗は、それまでは、岩出山城(宮城県大崎市)を居城にしていましたが、関ヶ原の戦い(1600年)ののち、1603年に仙台に移住しました。当時はまだ不安定な時代であり、臨戦態勢を意識して堅固な城をすばやくつくったのだとかんがえられます。
城下町
城下町におりていくと、そこは河岸段丘のうえにつくられた町でした。広瀬川にちかいほうから、「下町段丘」「中町段丘」「上町段丘」という3つの段丘があり、高低差をいまでもはっきりみることができます。
しかしさらに東(海の方角)には広大な仙台平野がひろがっています。なぜ、仙台平野を利用しなかったのでしょうか?
海岸線から4km ほどのところにやってきます。のどかな田園風景がひろがります。松本秀明さんが地層の調査をしています。採取した土の層をみると、上のほうには灰色の砂、下のほうにはカフェオレ色の土がありました。
「あ、粘土だね、これ」(タモリ)
下のほうの土は、約2500年前に堆積した洪水の土でした。そして上のほうの砂は海砂、つまり津波の証拠でした。
仙台平野は、洪水と津波が何度となくおそってくる危険な地帯でした。町は、高台(微高地)につくらざるをえなかったのです。
四ツ谷用水
高台に町をつくるとなると、水はどう確保したのでしょうか? 広瀬川の水面と段丘面の高低差は約20mもあります。
広瀬川を5km さかのぼり、たどりついたのが「四ツ谷堰」です。堰のうえにはふるい石組みがのこり、歴史を感じさせます。広瀬川をななめにあさくせきとめ、「四ツ谷用水」がここからはじまります。
取水口から約2km のところ、聖沢までおりてきます。目の前には水道橋のようなものがみえます。
「用水があの中を通って、川を渡るのか?」(タモリ)
城下町に到達するまでに4本の谷をこえます。それで「四ツ谷用水」といいます。総延長は、本流・支流あわせて40km以上にもなり、城下町をくまなくうるおしたといいます。
用水の痕跡をもとめて市内にもどります。
「道幅に対して片方に異常に広い歩道がある場合、だいたいが川の跡なんです」(タモリ)
あやしい道を発見、すこしあるくと、「四ツ谷用水本流跡」という看板がありました。やはり用水の暗渠です。
さらに繁華街までいくと、井戸水をつかっているというウナギ店があります。このあたりには現役の井戸がいくつもあります。四ツ谷用水をながしたおかげで大量の水が地下にたまり、仙台の市街地では5mもほれば水がわきでるようになりました。明治時代には、5000以上の井戸が市内にあったのだとか。
杜の都
仙台といえば「杜の都」です。明治時代の観光案内書『仙台 松島 塩釜 遊覧の栞(しおり)』の一節に「森の都」と仙台を紹介する一文が掲載されています。「森」と「杜」、文字はちがいますが仙台は「杜の都」でした。
片平丁にやってきました。仙台では、町人のまちは「町」、武士のまちは「丁」とあらわしました。石垣がのこっています。ここは、武家屋敷がならんでいたエリアです。裁判所にいまはなっているところには、幹のふとい立派な樹木が何本もならんでおり、説明書きをみれば、樹齢350年のシラカシ、250年のエドヒガンザクラ、300年のコウヤマキ・・・。ほとんどが江戸時代にうえられたものです。
政宗は、経済的な窮地を打破するために植林を奨励しました。武家屋敷の庭に、リンゴ・クリ・カキ・ザクロなどの果樹、燃料や建材となるスギやマツなどをうえさせました。こうした庭の木々がやがて仙台をおおいつくし「杜の都」となりました。この様子は、「仙台城下絵図」でも確認できます。
第2の城下町
不自然なY字路にやってきました。仙台市の地図をみると、仙台駅の東側に、西側の道とは角度が30度ほどずれたエリアがあります。この不自然なずれは何を意味するのでしょうか?
若林城跡にたどりつきました。政宗は、隠居用の屋敷をつくると幕府に申請して許可をえましたが、その規模たるや、東西約245m、南北約200mもあり、また たかさ6m前後の土塁と幅25mほどの堀にかこまれており、隠居所というにはあまりにもおおきく、第2の城といったほうがよいでしょう。周囲には、重臣の屋敷や町人の町も配置し、若林町奉行もおきました。いわば副都心です。
仙台城跡
青葉山の高台にきずかれた仙台城跡からフィールドワークがはじまります。なぜ、伊達政宗はここに城をきずいたのでしょうか?
仙台城の周辺をみわたすと、東は広瀬川をのぞむ断崖、西は「御裏林(おうらばやし)」とよばれる自然林、南は竜ノ口渓谷のふかい谷間という要害の地であり、あとは北側に石垣をきずけば鉄壁のまもりが完成します。
政宗は、それまでは、岩出山城(宮城県大崎市)を居城にしていましたが、関ヶ原の戦い(1600年)ののち、1603年に仙台に移住しました。当時はまだ不安定な時代であり、臨戦態勢を意識して堅固な城をすばやくつくったのだとかんがえられます。
城下町
城下町におりていくと、そこは河岸段丘のうえにつくられた町でした。広瀬川にちかいほうから、「下町段丘」「中町段丘」「上町段丘」という3つの段丘があり、高低差をいまでもはっきりみることができます。
しかしさらに東(海の方角)には広大な仙台平野がひろがっています。なぜ、仙台平野を利用しなかったのでしょうか?
海岸線から4km ほどのところにやってきます。のどかな田園風景がひろがります。松本秀明さんが地層の調査をしています。採取した土の層をみると、上のほうには灰色の砂、下のほうにはカフェオレ色の土がありました。
「あ、粘土だね、これ」(タモリ)
下のほうの土は、約2500年前に堆積した洪水の土でした。そして上のほうの砂は海砂、つまり津波の証拠でした。
仙台平野は、洪水と津波が何度となくおそってくる危険な地帯でした。町は、高台(微高地)につくらざるをえなかったのです。
四ツ谷用水
高台に町をつくるとなると、水はどう確保したのでしょうか? 広瀬川の水面と段丘面の高低差は約20mもあります。
広瀬川を5km さかのぼり、たどりついたのが「四ツ谷堰」です。堰のうえにはふるい石組みがのこり、歴史を感じさせます。広瀬川をななめにあさくせきとめ、「四ツ谷用水」がここからはじまります。
取水口から約2km のところ、聖沢までおりてきます。目の前には水道橋のようなものがみえます。
「用水があの中を通って、川を渡るのか?」(タモリ)
城下町に到達するまでに4本の谷をこえます。それで「四ツ谷用水」といいます。総延長は、本流・支流あわせて40km以上にもなり、城下町をくまなくうるおしたといいます。
用水の痕跡をもとめて市内にもどります。
「道幅に対して片方に異常に広い歩道がある場合、だいたいが川の跡なんです」(タモリ)
あやしい道を発見、すこしあるくと、「四ツ谷用水本流跡」という看板がありました。やはり用水の暗渠です。
さらに繁華街までいくと、井戸水をつかっているというウナギ店があります。このあたりには現役の井戸がいくつもあります。四ツ谷用水をながしたおかげで大量の水が地下にたまり、仙台の市街地では5mもほれば水がわきでるようになりました。明治時代には、5000以上の井戸が市内にあったのだとか。
杜の都
仙台といえば「杜の都」です。明治時代の観光案内書『仙台 松島 塩釜 遊覧の栞(しおり)』の一節に「森の都」と仙台を紹介する一文が掲載されています。「森」と「杜」、文字はちがいますが仙台は「杜の都」でした。
片平丁にやってきました。仙台では、町人のまちは「町」、武士のまちは「丁」とあらわしました。石垣がのこっています。ここは、武家屋敷がならんでいたエリアです。裁判所にいまはなっているところには、幹のふとい立派な樹木が何本もならんでおり、説明書きをみれば、樹齢350年のシラカシ、250年のエドヒガンザクラ、300年のコウヤマキ・・・。ほとんどが江戸時代にうえられたものです。
政宗は、経済的な窮地を打破するために植林を奨励しました。武家屋敷の庭に、リンゴ・クリ・カキ・ザクロなどの果樹、燃料や建材となるスギやマツなどをうえさせました。こうした庭の木々がやがて仙台をおおいつくし「杜の都」となりました。この様子は、「仙台城下絵図」でも確認できます。
第2の城下町
不自然なY字路にやってきました。仙台市の地図をみると、仙台駅の東側に、西側の道とは角度が30度ほどずれたエリアがあります。この不自然なずれは何を意味するのでしょうか?
若林城跡にたどりつきました。政宗は、隠居用の屋敷をつくると幕府に申請して許可をえましたが、その規模たるや、東西約245m、南北約200mもあり、また たかさ6m前後の土塁と幅25mほどの堀にかこまれており、隠居所というにはあまりにもおおきく、第2の城といったほうがよいでしょう。周囲には、重臣の屋敷や町人の町も配置し、若林町奉行もおきました。いわば副都心です。
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わたしはかつて仙台市にすんでいたことがあり、その中心的なエリアは段丘や斜面のうえにひろがっていて高低差が非常におおきく、移動には自転車は不向きであり、バイクをつかっていました。普通の城下町にくらべて窮屈な感じがして、なんだか無理がある土地だとおもっていました。
今回、ブラタモリ「仙台」により、仙台の地形・歴史・由来がよくわかりました。仙台は、“歴史的” な城下町ではなく、伊達政宗があらたにいそいでつくった新興都市でした。政宗は米沢出身でしたが、岩出山(宮城県大崎市)に豊臣秀吉によって転封させられ、秀吉なきあと仙台に移住したのでした。当初は、臨戦を意識して山城をつくりましたが、その後、平和な時代になると山城は非常に不便であり、城下町建設にもむいておらず、そこで第2の城をつくったのではないでしょうか。
ブラタモリでは、まず、地形と地質をしらべます。そして斜面に注目します。斜面をあるけば高台や谷間・段差がわかります。すると土地利用がわかります。
その土地の地形はすでにきまっており、そこでくらす以上、それをうけいれなければなりません。地形は運命のようなものです。しかしただ受け身でいるだけでなく、工夫します。改善します。環境から一方的に作用をうけるだけでなく、環境に作用をあたえます。
このような人間と環境のやりとりが、やがて歴史になります。城下町ができ、発展します。
ブラタモリのように、フィールドワークをしながら、まず、空間的にとらえて、つぎに、歴史的な考察をするとその地域の理解がスムーズにすすみます。なるべくしてなるという、その土地の必然がみえてきます。自然史から人間史まで連続していることに気づくことが大事であり、そのような歴史のなかで人間も生かされています。
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▼ 参考文献
NHK ブラタモリ制作班監修『ブラタモリ 3』(KADOKAWA) 2016年
▼ 関連サイト
仙台(Amazon)
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▼ 参考文献
NHK ブラタモリ制作班監修『ブラタモリ 3』(KADOKAWA) 2016年
▼ 関連サイト
仙台(Amazon)