科学的に死を追究します。死がわかると生がわかります。死があるのが生命です。
『Newton』2020年7月号が、「死を科学する」と題して死とは何かについて特集・解説しています。
PART 1 「死ぬ」とはどういうことか
「死の三徴候」は、「その後に目を覚ますことがない」という経験則であり、確固たる科学的な死の定義ではありません。日本の法律では、死後に蘇生する可能性がまったくないことを確認する意味で、死の判定後、24時間以内に埋葬や火葬をしてはいけないとさだめられています(ただし感染症予防法でさだめられたケースはのぞきます)。
脳幹は「命の座」ともよばれ、脳幹の機能がうしなわれると呼吸も心臓の活動も維持できなくなります。つまり、生命を維持することができなくなります。ペンライトなどで目に光をあてても瞳孔反応がおきないということは、脳幹の機能がうしなわれていることを意味し、こうして、「瞳孔反応の消失」は、死の判定基準のひとつとしてつかわれます。
現代では「脳死」が、死の三徴候にくわえてもうひとつの「死の定義」として存在します。脳死の判断基準は国によってすこしちがいますが、脳幹の機能が停止していることが重要視されます。そのために、瞳孔反応の消失だけでなく、痛みに反応しない、のどの奥を刺激しても嘔吐しないなど、さまざまな検査がおこなわれます。
医療技術の進歩により、脳は死んでも、それ以外の臓器は機能しつづけるため、他者の命をすくえるようになりました。それとともに、生と死の境界はあいまいになりました。
日本では1997年に、臓器移植法が成立し(2009年に改正)、脳死を、人の死としてみとめることになりました。脳死した人は、個体としての死をむかえても、臓器はすぐに死ぬわけではないため、臓器移植によって他者をすくうことができます。
日本臓器移植ネットワークによれば、臓器移植を希望する人の数は2020年3月31日現在1万4505人であり、ふえつづけていますが、臓器移植が実際におこなわれたケースは年間480件(2019年)です。
PART 2 死にゆく体では何がおきるのか
日本では、心臓病でなくなる人の数は年間で20万人におよび、死因の第2位となっています。なかでも、心臓病によって「突然死」する人の数は年間7万人をこえるといわれ、その代表的な原因が「心筋梗塞」です。突然死をまねく心臓病としては「心室細動」もあります。
心臓がとまり、脳への血流が10秒間とだえるだけで、脳機能は低下し意識をうしない、数分たつと、神経細胞(ニューロン)は死んでしまうといわれます。
死ぬ間際に、人は、どのような体験をするのでしょうか?
一時的に心臓が停止し、意識を喪失したのちに、奇跡的に蘇生をはたした人が「臨死体験」をかたる例があります。
欧米では、臨死体験の学術的研究がおこなわれています。
PART 3 死と向かい合う心理
誰もがいつか死をむかえます。死がいつおとずれるかを具体的に予測できれば、終末期の医療や介護をどのようにおこなうか、周囲の人々とはなしあい、家族に対しても、死をうけいれる準備をしてもらうことができます。
死期の推定方法としては、体格をしめす指標である BMI(体重÷身長)と水分摂取量の変化に注目したものもあります。
アメリカの精神科医キューブラー=ロス(1926〜2004)は人が死をうけいれるまでの心の変化について研究した先駆者です。「否認」「怒り」につづいて、「よい行いをするので延命してください」というように運命や神に対して「取引」をはじめ、その後、病気を否定できなくなると「抑うつ」状態となり、やがて苦悩をこえてしずかに死を「受容」するようになるといいます。ただしこのプロセスは順序がいれかわることもあり、かならずしもすべてがあらわれるわけではありません。
しかし死の「受容」に誰もが到達できるわけではなく、せまりつつある死を前にして精神的な苦痛や動揺を感じる人もいます。こうした心身の苦痛をやわらげる「緩和ケア」が近年はおこなわれています。
オランダやカナダなどでは「積極的安楽死」が合法化されています。2018年には、イタリアで「尊厳死」を認める法律が施行されました。
「安楽死」には、人工呼吸器などをつかった延命措置を患者の意思にもつづいて終了する「消極的安楽死」と致死薬を医師が注射するなどする「積極的安楽死」とがあります。「尊厳死」とは、人間としての尊厳をたもちながら命をまっとうすることであり、日本などでは、消極的安楽死とほぼ同様にあつかわれることがあります。
日本では、安楽死や尊厳死を明確にみとめる法律はまだなく、「みずから死を選ぶ権利」について議論がつづいており、人生の最終段階をむかえる前にどのような準備をしておけばよいか、そしてどのように死んでいけばよいかなどについてかんがえる人がふえています。死に方の選択は誰にとってもおおきな問題です。
PART 4 死は克服できるか
「テロメア」は、細胞のなかにあって、寿命のかぎをにぎる要素であり、ここに、ヒトが永遠に生きることはできない生物学的なしくみがあります。
しかし一方で、誰もが死にたくありません。不老不死は人間の夢です。
「長寿遺伝子」はおそらく存在するだろうといわれます。長生きする人の家系には長生きする人がおおい傾向があり、がんのなりやすさも、遺伝の影響をうけるといわれています。最近、110歳以上の超長寿者を「スーパーセンチナリアン」とよび、その人たちに共通する遺伝子や環境をさぐる研究がすすんでいます。不老不死の可能性がたかまることが期待されます。
平均寿命をのばした要因のひとつに、新生児や子供の死亡率がさがったことがあげられます。世界の平均寿命はさらにのびつづける傾向にあります。
公衆衛生や医療が進歩し、近年は、iPS 細胞(人工多能性幹細胞)や ES 細胞(胚性幹細胞)などをもちいた「再生医療」も実現しつつあり、より老いにくく、より死ににくい体をわたしたちは手にしつつあります。
また機能をうしなった体の一部をロボットや機械におきかえる研究もすすんでおり、人間は、人工物と一体化することで生物学的な寿命をはるかにこえて長生きできるようになります。老化した脳を人工知能におきかえて生きつづけるというアイデアもだされています。
こうして、人類が、死の克服にちかづくほど個体(個人)は世界から退場しなくなります。
このようにして人間が寿命をのばし、死の克服にちかづけばちかづくほど、ふるい個体(個人)がふえます。不老不死は、ひとりひとりの身体の問題にとどまらず、社会をかえ、文明をかえます。
人間の死をかんがえるとき、個体(個人)の問題としてだけでなく、文明や種といった、もっと高次元の問題としてもとらえなければならず、個体(個人)にとらわれていると判断をあやまります。
テクノロジーをつかえば死の克服にちかづけるでしょうが、不老不死を夢みることが本当によいことなのかどうか、いまいちどかんがえなおさなければなりません。歴史上も、不老不死を夢みた人は数多くいましたがみな失敗しました。不老不死は個人の欲望の究極であり、人間は欲望でくるしみます。
『Newton』の今回の特集記事をよんで死とは何かと問うたことは、けっきょく、生命とは何かと問うことになりました。死について理解がふかまると生についての理解もふかまります。生命はつねに死ととなりあわせであり、生きていく以上、死とむきあわざるをえないのが生命です。生があるから死があり、死があるから生があるといってもよいでしょう。
このような観点からは、将来 出現する機械人間や人工知能によって行動する人間は、もはや、生命ではないのかもしれません。むしろ、機械ととらえたほうがよいでしょう。機械でしたら、こわれたら部品を交換すればよいだけのことであり、いつまでもうごきつづけます。死ぬことはありません。ここに、生命論的世界観とはことなる機械論的世界観の具現化があります。
しかし生命は機械ではなく、機械とはことなる生きた存在であるとかんがえるならば、生命にはかならず死があるのであり、死とむきあい、死を受容することになります。それが生命です。死をかんがえ、死を準備します。死に方もえらびます。
▼ 関連記事
主体的に死を設定する -「死とは何か」(Newton 2018.10号)-
死に方を選択する -「死」と「生」の境界線(Newton 2017.9号)-
多様性をみとめる -「死」と「生」の境界線(Newton 2017.9号)-
誰もがほっとしてかえっていく - 特別展「地獄絵ワンダーランド」(三井記念美術館)-
▼ 参考文献
『Newton』(2020年7月号)ニュートンプレス、2020年
PART 1 「死ぬ」とはどういうことか
PART 2 死にゆく体では何がおきるのか
PART 3 死と向き合う心理
PART 4 死は克服できるか
PART 1 「死ぬ」とはどういうことか
医師が死亡判定をするときには、「心拍の停止」「呼吸の停止」に加え、「瞳孔反応の消失」という三点がそろっていることを確認します。この三点を「死の三徴候」といいます。そして、この死の三徴候が一定時間つづくことが確認されたとき、医師は死と判定するのです。
「死の三徴候」は、「その後に目を覚ますことがない」という経験則であり、確固たる科学的な死の定義ではありません。日本の法律では、死後に蘇生する可能性がまったくないことを確認する意味で、死の判定後、24時間以内に埋葬や火葬をしてはいけないとさだめられています(ただし感染症予防法でさだめられたケースはのぞきます)。
脳幹は、瞳孔反応だけでなく、呼吸や心臓の稼働の維持など、生きる上で必須の、無意識に行われているさまざまな機能を支配する重要な器官です。
脳幹は「命の座」ともよばれ、脳幹の機能がうしなわれると呼吸も心臓の活動も維持できなくなります。つまり、生命を維持することができなくなります。ペンライトなどで目に光をあてても瞳孔反応がおきないということは、脳幹の機能がうしなわれていることを意味し、こうして、「瞳孔反応の消失」は、死の判定基準のひとつとしてつかわれます。
脳死とは、自発的な呼吸や意識がなく、脳の機能が失われて回復の見こみがない状態のことをいいます。脳死は、交通事故や転倒などで頭部に強い衝撃を受けたり、くも膜下出血などで脳が急激に機能を失ったりすることで生じます。
現代では「脳死」が、死の三徴候にくわえてもうひとつの「死の定義」として存在します。脳死の判断基準は国によってすこしちがいますが、脳幹の機能が停止していることが重要視されます。そのために、瞳孔反応の消失だけでなく、痛みに反応しない、のどの奥を刺激しても嘔吐しないなど、さまざまな検査がおこなわれます。
医療技術の進歩により、脳は死んでも、それ以外の臓器は機能しつづけるため、他者の命をすくえるようになりました。それとともに、生と死の境界はあいまいになりました。
日本では1997年に、臓器移植法が成立し(2009年に改正)、脳死を、人の死としてみとめることになりました。脳死した人は、個体としての死をむかえても、臓器はすぐに死ぬわけではないため、臓器移植によって他者をすくうことができます。
日本臓器移植ネットワークによれば、臓器移植を希望する人の数は2020年3月31日現在1万4505人であり、ふえつづけていますが、臓器移植が実際におこなわれたケースは年間480件(2019年)です。
PART 2 死にゆく体では何がおきるのか
心筋梗塞とは、心臓の外側を囲うようにのびている「冠動脈」とよばれる血管がつまることでおきる心臓病です。
日本では、心臓病でなくなる人の数は年間で20万人におよび、死因の第2位となっています。なかでも、心臓病によって「突然死」する人の数は年間7万人をこえるといわれ、その代表的な原因が「心筋梗塞」です。突然死をまねく心臓病としては「心室細動」もあります。
心臓がとまり、脳への血流が10秒間とだえるだけで、脳機能は低下し意識をうしない、数分たつと、神経細胞(ニューロン)は死んでしまうといわれます。
1991年、34歳のレイノルズは、脳動脈瘤の治療のために、体温を15℃程度にさげて、一時的に心拍と呼吸を停止させて行う脳手術を受けました。手術の間、彼女の脳波は平たんになりました。このとき彼女は、身体から離脱して手術のようすを客観的にながめ、トンネルを通って光と遭遇し、死んだ家族と再開するなどの臨死体験を経験したと言います。
死ぬ間際に、人は、どのような体験をするのでしょうか?
一時的に心臓が停止し、意識を喪失したのちに、奇跡的に蘇生をはたした人が「臨死体験」をかたる例があります。
光に包まれて、おむかえがきたように感じる
過去の出来事が走馬灯のように頭をかけめぐる
死んでいるという感覚
幸福感
身体からの離脱
トンネルの通過
光との交信
さまざまな色の観察
死者との出会い・・・
欧米では、臨死体験の学術的研究がおこなわれています。
PART 3 死と向かい合う心理
介護や看護の現場では、死期が近づいていることのサインとして、死の1か月前には「目力のなさ」「顔色の悪さ」「活気のなさ」などがみられ、死の約2日前には、「呼吸状態の変化」「たんの増加」などがあるということが経験的に知られています。
誰もがいつか死をむかえます。死がいつおとずれるかを具体的に予測できれば、終末期の医療や介護をどのようにおこなうか、周囲の人々とはなしあい、家族に対しても、死をうけいれる準備をしてもらうことができます。
死期の推定方法としては、体格をしめす指標である BMI(体重÷身長)と水分摂取量の変化に注目したものもあります。
キューブラー=ロスによれば、末期がんなど、死の訪れを知らされた患者はまず、「何かのまちがいだ」などと、事実を「否認」するといいます。その後、否認しつづけることがむずかしくなると、次に「どうして私なのか」といった「怒り」の感情に変わっていきます。
アメリカの精神科医キューブラー=ロス(1926〜2004)は人が死をうけいれるまでの心の変化について研究した先駆者です。「否認」「怒り」につづいて、「よい行いをするので延命してください」というように運命や神に対して「取引」をはじめ、その後、病気を否定できなくなると「抑うつ」状態となり、やがて苦悩をこえてしずかに死を「受容」するようになるといいます。ただしこのプロセスは順序がいれかわることもあり、かならずしもすべてがあらわれるわけではありません。
しかし死の「受容」に誰もが到達できるわけではなく、せまりつつある死を前にして精神的な苦痛や動揺を感じる人もいます。こうした心身の苦痛をやわらげる「緩和ケア」が近年はおこなわれています。
2006年に富山県の病院でおきた人工呼吸器取りはずし事件が契機となって、2007年に厚生労働省が「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」を取りまとめました。
オランダやカナダなどでは「積極的安楽死」が合法化されています。2018年には、イタリアで「尊厳死」を認める法律が施行されました。
「安楽死」には、人工呼吸器などをつかった延命措置を患者の意思にもつづいて終了する「消極的安楽死」と致死薬を医師が注射するなどする「積極的安楽死」とがあります。「尊厳死」とは、人間としての尊厳をたもちながら命をまっとうすることであり、日本などでは、消極的安楽死とほぼ同様にあつかわれることがあります。
日本では、安楽死や尊厳死を明確にみとめる法律はまだなく、「みずから死を選ぶ権利」について議論がつづいており、人生の最終段階をむかえる前にどのような準備をしておけばよいか、そしてどのように死んでいけばよいかなどについてかんがえる人がふえています。死に方の選択は誰にとってもおおきな問題です。
PART 4 死は克服できるか
ヒトの細胞が分裂するときには、DNA が折りたたまれてできる「染色体」が46本あらわれます。これらの染色体の末端にある領域がテロメアです。(中略)テロメアは、「細胞分裂の上限回数」を決めているのです。
「テロメア」は、細胞のなかにあって、寿命のかぎをにぎる要素であり、ここに、ヒトが永遠に生きることはできない生物学的なしくみがあります。
しかし一方で、誰もが死にたくありません。不老不死は人間の夢です。
DNA の傷についての研究からも、寿命の長さに大きく関わる長寿遺伝子の候補がいくつかわかっています。その代表的なものが「サーチュイン遺伝子」です。
「長寿遺伝子」はおそらく存在するだろうといわれます。長生きする人の家系には長生きする人がおおい傾向があり、がんのなりやすさも、遺伝の影響をうけるといわれています。最近、110歳以上の超長寿者を「スーパーセンチナリアン」とよび、その人たちに共通する遺伝子や環境をさぐる研究がすすんでいます。不老不死の可能性がたかまることが期待されます。
1800年の人類の平均寿命は約30歳で、どの国も40歳に満たなかったのです。
人類の寿命は、この200年で劇的にのびました。国連の統計によれば、2019年の世界の平均寿命は72.6歳です。人類は200年で、平均寿命を2倍以上にのばしたことになります。
平均寿命をのばした要因のひとつに、新生児や子供の死亡率がさがったことがあげられます。世界の平均寿命はさらにのびつづける傾向にあります。
公衆衛生や医療が進歩し、近年は、iPS 細胞(人工多能性幹細胞)や ES 細胞(胚性幹細胞)などをもちいた「再生医療」も実現しつつあり、より老いにくく、より死ににくい体をわたしたちは手にしつつあります。
また機能をうしなった体の一部をロボットや機械におきかえる研究もすすんでおり、人間は、人工物と一体化することで生物学的な寿命をはるかにこえて長生きできるようになります。老化した脳を人工知能におきかえて生きつづけるというアイデアもだされています。
こうして、人類が、死の克服にちかづくほど個体(個人)は世界から退場しなくなります。
*
このようにして人間が寿命をのばし、死の克服にちかづけばちかづくほど、ふるい個体(個人)がふえます。不老不死は、ひとりひとりの身体の問題にとどまらず、社会をかえ、文明をかえます。
人間の死をかんがえるとき、個体(個人)の問題としてだけでなく、文明や種といった、もっと高次元の問題としてもとらえなければならず、個体(個人)にとらわれていると判断をあやまります。
テクノロジーをつかえば死の克服にちかづけるでしょうが、不老不死を夢みることが本当によいことなのかどうか、いまいちどかんがえなおさなければなりません。歴史上も、不老不死を夢みた人は数多くいましたがみな失敗しました。不老不死は個人の欲望の究極であり、人間は欲望でくるしみます。
『Newton』の今回の特集記事をよんで死とは何かと問うたことは、けっきょく、生命とは何かと問うことになりました。死について理解がふかまると生についての理解もふかまります。生命はつねに死ととなりあわせであり、生きていく以上、死とむきあわざるをえないのが生命です。生があるから死があり、死があるから生があるといってもよいでしょう。
このような観点からは、将来 出現する機械人間や人工知能によって行動する人間は、もはや、生命ではないのかもしれません。むしろ、機械ととらえたほうがよいでしょう。機械でしたら、こわれたら部品を交換すればよいだけのことであり、いつまでもうごきつづけます。死ぬことはありません。ここに、生命論的世界観とはことなる機械論的世界観の具現化があります。
しかし生命は機械ではなく、機械とはことなる生きた存在であるとかんがえるならば、生命にはかならず死があるのであり、死とむきあい、死を受容することになります。それが生命です。死をかんがえ、死を準備します。死に方もえらびます。
▼ 関連記事
主体的に死を設定する -「死とは何か」(Newton 2018.10号)-
死に方を選択する -「死」と「生」の境界線(Newton 2017.9号)-
多様性をみとめる -「死」と「生」の境界線(Newton 2017.9号)-
誰もがほっとしてかえっていく - 特別展「地獄絵ワンダーランド」(三井記念美術館)-
▼ 参考文献
『Newton』(2020年7月号)ニュートンプレス、2020年