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ヴィシュワナート寺院(左)とガルーダの柱(右)



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タレジュ寺院



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タレジュ寺院



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貯水池



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ガルーダの柱とクリシュナ寺院



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左から、ヨガナレンドラ王の柱、クリシュナ寺院、
ヴィシュワナート寺院



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左から、タレジュの鐘、ハリシャンカール寺院、
ヴィシュワナート寺院、旧王宮



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広場の南入口のチケット販売所(小屋)










パタンは、カトマンドゥ盆地で繁栄した都市国家のひとつです。

バクタプル(マッラ朝)から、1484年に、カトマンドゥ(カトマンドゥ・マッラ朝)が独立し、その後、1619年にまでに、パタン(パタン・マッラ朝)がカトマンドゥから独立、3つの都市国家が盆地内で共存する3王国時代になりました。

なかでもパタンは「美の都」とよばれ、建築・彫刻・工芸・絵画などにすぐれ、芸術の町としてしられました。

現在は、山村地域からの人口流入・市街地化・開発などにより、バクタプルでみられるような〈都市-耕地-自然環境〉という都市国家の大規模構造はうしなわれていますが、中心部の旧王宮と王宮広場、市内各所にある寺院などは非常によく保存されており、往時をしのぶことができます。とくに旧王宮は規模がおおきくて豪華であり、内部は、パタン博物館として公開されて誰でもみることができます。都市国家の中枢についてしりたければパタンにいくとよいでしょう。

王宮広場(ダルバール広場)へは、外国人は、チケット(1000ネパールルピー)を購入してはいります。これには、パタン博物館の入場料もふくまれます。王宮広場の南の入口にチケット販売所(小屋)があり、あるいはパタン博物館の受付でも購入できます。

広場にはいると、南北をつらぬく大通りを堺にして、東側にはおもに旧王宮が、西側にはおもに寺院がたちならびます。

旧王宮は、主要な部分は17〜18世紀にたてられたものであり、現在は、北側から、マニ・ケシャブ・ナラヤン・チョーク、ムル・チョーク、スンダリ・チョークという、3つのチョーク(中庭をかこむ建物)があり、いずれも中にはいることができます。マニ・ケシャブ・ナラヤン・チョークは、その入口の門は金の装飾で縁どられ、そのうえにある窓から国王が姿をあらわしたといいます。パタン博物館の受付はこの門をはいった右手にあります。ムル・チョークは、国王が執務をおこなったもっともふるくおおきな建物です。そのすぐ北側にたつタレジュ寺院には、王家の守り神であるタレジュがまつられます。スンダリ・チョークは王の住居であり、中庭には、国王のみごとな沐浴場があります。

王宮の西側にはいくつもの寺院がたちならびます。ヴィスワナート寺院はシヴァ神をまつり、正面にはゾウ、反対側には、シヴァの乗り物である牡牛の石像があります。クリシュナ寺院はインド様式の石造りの寺院であり、2階にクリシュナ、3階にシヴァ、4階にブッダをまつり、寺院の前には、鳥人ガルーダの像(柱)がたっています。ガルーダは、クリシュナの化身 ヴィシュヌの乗り物です。ハリシャンカール寺院は、ヴィシュヌとシヴァの両方の神性をもつハリシャンカールをまつります。タレジュの鐘は、嘆願者が不平を王にうったえるためにならしたといわれます。

王宮広場は、大通りが南北にはしるような構造になっていて、車ののりいれは禁止されており、地元の人々が北へ南へいきかいます。多数の人々のながれをみていると、今でもここが、パタンの中心としていきづいていることがわかります。ここは観光地ですが、しかし現役の都市でもあります。なんともおもしろい。

王宮広場の周辺には一戸建てはなく、3階建てや4階建ての集合住宅が連続的にたちならび、都市の景観がひろがります。道路や広場に面した1階は小売店になっていることがおおく、あらゆるものが手にはいります。工芸品店や仏具店なども各所にあります。集合住宅地のあいだには縦横無尽に路地がはりめぐらされ、あちこちに小広場があり、仏教やヒンドゥー教の祠がみられます。

ここは、現代文明国の都市とはことなり、コミュニティがのこり、顔のみえる世界であり、人々のネットワークによってなりたっています。そのようなネットワークの中心として王宮広場がいまでも機能しています。そのように広場はデザインされています。

人々は、知り合いとすれちがえば、「やぁ、やぁ」と声をかけあい、ある人たちは情報交換をし、ある人たちは石段に腰掛けて雑談をし、ある人たちは たったまま議論をたたかわせ、一方で広場は、あらたな出会いの場でもあり、やすらぎの場でもあり、祭りや舞踏・イベントの場でもあります。

このような広場は、世界各地にかつて存在した都市国家にはかならずありました。古代ギリシャの都市国家にもありました。都市国家の広場は、民衆の文化をはぐくみ、文化を発信する場でした。古代ギリシャの哲人たちもこうした広場からうまれたのではないでしょうか。

世界史をふりかえると、今日みられる領域国家の時代がはじまる前には都市国家の時代がありました。その時代の都市には、都市でありながら、人と人とのふれあい、やりとりが維持されていました。現代の機械文明とはちがい都市文明には人間性がのこっていました。都市文明は、半素朴・半文明だったといってもよいでしょう。

しかし都市国家が破壊されて領域国家の時代になると広場は必要なくなります。管理社会化・機械化がすすみ、人間疎外がおこります。

現代文明人がパタンにくると、なんだか、なつかしさを感じます。広場のもつ歴史的な意義をかんがえなおすと、わたしたちがうしなったものがみえてきます。創造には場が必要なのだということもわかります。




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▼ 注
2020年2月に撮影。


▼ 位置