地球上での人間の往来拡大とともに感染も拡大しました。自然環境からの作用と人間の側の要因があいまって歴史的な変化がおこります。未知のウイルス・細菌と人間とはすみわけたほうがよいです。
池上彰・増田ユリヤ著『感染症対人類の世界史』(ポプラ新書)は感染症にかかわる世界史の概要を対談形式で解説しています。



目次
第一章 シルクロードが運んだ病原菌
第二章 世界史をつくった感染症 天然痘
第三章 世界を震え上がらせた感染症 ペスト
第四章 感染症が世界を変えた 日本編
第五章 世界大戦の終結を早めた「スペイン風邪」
第六章 人類の反撃始まる
第七章 今も続く感染症との闘い



一帯一路

これは現代版シルクロードと言われている「一帯一路」が関係しているのではないかと考えたんです。一帯一路は、二〇一三年、中国の習近平国家主席が打ち出した、アジアとヨーロッパの経済交流を活発化させる構想です。

中国からパンデミック(世界的な大流行)がはじまった当初、なぜ、イタリアとイランに感染者がおおかったのか?

それは、「一帯一路」で、中国とイタリア・イランとがつよくむすびついていたからです。一帯一路には陸路と海路があり、陸路の方が「一帯」、海路は「一路」で、陸路は一帯といっても六本もあります。

イタリアは、2019年に、一帯一路への参加を G7 ではじめて表明しました。またイランは、核開発をめぐってアメリカから経済制裁をうけているため、その隙をついてイランに中国がはいりこんでいました。したがってイタリア・イランへいく中国人が非常におおく、中国人から感染がひろがりました。現代版シルクロードがウイルスもはこんだといえるでしょう。



天然痘

コロンブスは一四九二年にハイチに到達しますが、五〇万人ほど住んでいた先住民たちは天然痘の免疫がないため、ヨーロッパ人たちが持ち込んだ天然痘があっという間に広がり、三分の一ほどまで人口が減り、一五〇八年には六万人、一五一〇年には三万三〇〇〇人にまで減少したというのです。

アメリカ大陸では天然痘が最初にひろがりました。まずは、カリブ海のイスパニョーラ島(現在のドミニカ共和国とハイチ)で被害がはじまり、さらにカリブ諸島をつぎつぎとおそい、アステカ王国そしてインカ帝国でも天然痘の犠牲者が数おおくでます。

南北アメリカにはそれまでは天然痘がなく、先住民には免疫が当然なかったため、ヨーロッパからもちこまれた天然痘ウイルスにひとたまりもありませんでした。



ペスト

東ローマ帝国では、ユスティニアヌス大帝の時代に黒死病、つまりペストの流行があったとあります。特にコンスタンティノープルでの五四三年の大流行は、「ユスティニアヌスのペスト」と呼ばれています。一番ひどい時期には、一日に一万人も亡くなっているんですね。

ペストの流行により、地中海地方の人口はその1/4をうしない、その結果、東ローマ帝国の勢いもうしなわれました。ローマ帝国の再興をめざして征服戦争をくりかえしたことで、財政難と国力の低下をもたらしたことも衰退の要因となりました。

東ローマ帝国におけるペストの大流行は534年、随では、610年に流行しましたから、このときは、西方から東方へ感染がひろがったようです。


「海のシルクロード」と呼ばれた中国・明の時代の鄭和(ていわ)の航海もペストの拡散に関係があるようなんです。彼はインドからアラビア半島、そしてアフリカまで航海していました。

明の鄭和の船団は、コロンブスの新大陸到達より100年も前に62隻の船団をくんで遠征をしていました。

アメリカの学術誌『ネイチャー・ジェネティクス』(2010年)によると、世界各地から収集した17株のペスト菌の遺伝子配列から、ペスト菌の祖先が中国である可能性がたかいという論文が発表され、海のシルクロードによりペストが世界にひろまった可能性がしめされました。

感染症のひろがりを理解するためには、人間が往来するコースとその歴史をしらなければなりません。

ヨーロッパにおける1679年のペスト大流行では15万人もの人々がなくなりました。ウィーンのシュテファン大聖堂の地下にあるカタコンベ(地下墓地)には約2000人の遺骨が埋葬されています。シュテファン大聖堂のちかくには「ペスト記念柱」があります。



日本の天然痘

奈良時代に、日本でも天然痘の大流行がありました。八世紀、七三五年から七三七年にかけての出来事で、天平の大疫病と呼ばれています。

この天然痘は、遣唐使の行き来で日本にもちこまれたのではないかといわれています。

全国で、100万人〜150万人が死亡したと計算されており、この疫病によって、ときの政治の中枢にいた藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂の4兄弟も相ついでなくなります。

そこで聖武天皇は、社会の不安をとりのぞくために東大寺の大仏造立を発願、745年に制作を開始します。行基という僧は、大仏造立の意義を全国を行脚してときました。

さらに天皇は、復興政策として、「墾田永年私財法」を743年に発布、これは、自分たちがたがやした土地については私有を許可するという法律であり、これにより、おおくの人々が一生懸命 土地をたがやすようになり、農耕地がふえ、生産性もあがり、結果として徴税もふえました。

その後、農民たちは、開墾した農地を、高級官僚や寺社などの有力者にうり、うった先ではたらくという やとわれ農民になっていき、こうして広大な農地を経営する人たちがあらわれます。「荘園」の誕生です。

するとよい農地を力づくでうばいとろうとする悪人もでてきて、そういった輩(やから)から土地をまもるためにうまれたのが「武士」のはじまりです。

このように、感染症の流行から復興政策がうまれ、それが、おおきな社会変革につながりました。感染症の前と後の社会の変化に注目すると歴史のうごきがみえてきます。したがって今日の日本でもあるいは世界でも、新型コロナウイルスの流行を堺にして、おおきく社会が変化することが予想されます。



スペイン風邪

一九一四年七月二八日にオーストリア=ハンガリー帝国がセルビア王国に宣戦布告をして、世界中を巻き込み、一九一八年の一一月初旬まで約四年三か月続く、第一次世界大戦が始まります。この第一次世界大戦の終結を早めたのが実はスペイン風邪だったというんです。

1915年、イギリスの客船がドイツの潜水艦に撃沈され、1200人ちかくが死亡、そのなかに、アメリカ人128人もふくまれていました。

アメリカは、全米から若者をあつめ、軍事訓練を開始、おおきな兵舎もつくりました。その若者の1人に風邪の症状がでます。そこから1000人以上に感染、50人ちかくの人がなくなります。彼らが、ヨーロッパにわたり戦闘に参加すると、フランス兵やイギリス兵、敵のドイツ兵にも感染がひろがります。

感染は、中立国だったスペインにもひろがり、閣僚や国王も感染、スペインは大混乱におちいり、「スペイン風邪」と報道されまました。

スペイン風邪は第1波から第3波までおこり、WHO は、死者4000万人と報告していますが、5000万人、1億人という説もあります。日本では、約38万人が死亡しました(45万人という説もあります)。

このような状況のなかで、1918年11月12日、第一次世界大戦の休戦協定が締結されます。

スペイン風邪のウイルスは、鳥インフルエンザウイルスが人に感染するタイプに変異したものであるとの研究結果がでています。




コレラ菌

コッホが発見するコレラ菌ですが、元々はインドのベンガル地方の風土病でした。それがイギリスによるインド支配や交通機関の発達などによって、世界的に広がっていきます。そして一八三一年、ついにイギリスでもコレラの大流行が始まります。死者は一四万人にも達したそうです。

コレラは当初は、空気感染が原因だとされていましたが、医師のジョン=スノーは、ロンドンのテムズ川の水をのんでいる人々に集団感染がおこっていることをつきとめ、水が原因だと指摘しました。こういう調査の仕方は「疫学的調査」といいます。




マラリア

日本でも明治から昭和初期にかけては全国で流行し、太平洋戦争中には東南アジアに派兵された日本兵が多数命を落とす原因となった。現在は国内での感染による発生はないが、WHOによると世界では二〇一八年現在で二億二〇〇〇万人が感染し、四三万五〇〇〇人が死亡していると推定されている。

マラリアという名称は、「悪い空気」というイタリア語「マラ アリア」に由来します。日本では、ふるくから「おこり(瘧)」とよばれました。マラリアをひきおこす単細胞生物のマラリア原虫は、媒介するハマダラ蚊が刺すことによって人の体内にはいり、血液中に入ると肝細胞にとりついて増殖し、赤血球に侵入して破壊します。




デング熱

二〇一四年、東京の代々木公園を中心に日本国内でデング熱にかかった人が大勢出ました。

本来、デング熱は東南アジアやアフリカ、中南米などの熱帯・亜熱帯地域で蚊が媒介してかかるものであり、どうして日本で発生したのか原因はわかりません。




エボラ出血熱

コンゴ民主共和国をはじめ、アフリカ中央部で発生していたのが、二〇一三年の年末から二〇一四年にかけての大流行では、ギニアなどの西アフリカに初めて広がりました。そして二〇一九年には、またコンゴで大流行が起こり、WHO(世界保健機関)は史上五度目の緊急事態宣言を出しています。

エボラ出血熱も、アフリカの奥地の風土病だったものが、森林をきりひらき、開発がすすむなかで、ウイルスをもっているサルやコウモリと人間とが接触するようになったことで感染がひろがったのではないかといわれています。










感染症に関係するおもな歴史的事件はつぎのとおりです。

  • 前14世紀:ツタンカーメン死亡(マラリア)
  • 前5世紀:アテネ疫病(天然痘または麻疹)
  • 8世紀:奈良の大仏造立(天然痘)
  • 12世紀:平清盛死亡(マラリア)
  • 14世紀:ペスト流行(第一波)、ユダヤ人虐殺(ペスト)
  • 1492:コロンブスが新大陸到達
  • 1515:カリブ海イスパニョーラ島に天然痘がはいる
  • 1521:スペイン人がアステカ王国を征服(天然痘)
  • 1533:インカ帝国滅亡(天然痘)
  • 1665:ペスト流行(第二波)
  • 1885:ペスト流行(第三波)
  • 1914-18:第一次世界大戦(スペイン風邪)
  • 2002:SARS
  • 2012:MERS
  • 2014:エボラ出血熱
  • 2015:MERSがふたたびひろがる
  • 2019:新型コロナウイルス

感染症の歴史をしると、人間の往来が拡大してきた歴史がわかります。グローバル化がすすめば感染症は流行しやすくなります。

また感染流行の前と後の社会的変化に注目すると、あらたな観点から歴史のうごきがみえてきます。感染症の流行から復興政策がうまれ、おおきな社会変革がおこります。今回の新型コロナウイルスによっても、これから、おおきく社会が変容することが予想できます。高度情報化がすすみ、わたしたちは生活様式の変更をせまられます。

一方で、感染が流行すると、差別や格差がひろがるという問題もあります。14世紀のペスト流行のときにはおおくのユダヤ人が虐殺されました。関東大震災のときには、朝鮮人差別が一挙にふきだし、朝鮮人虐殺がおきました。古代インドからつたわるカーストも、くりかえし感染症がおそってくるなかで差別・非接触・隔離がすすみ、身分制度が強化されたとかんがえられます。今日の日本でも、医療従事者の子供が保育園で差別をうけるなど、非常時には人間がみにくさを露呈します。

ワクチンと特効薬が開発されるまでには2〜3年はかかり、60〜70%の人々が感染して集団免疫がはたらくまでには数年(5〜6年?)かかるといわれています。そのあいだに世界経済もおおきく衰退し、文明の衝突もはげしくなるかもしれません。 

このように、今回の新型コロナウイルスの流行も世界史のなかでとらえなおしてみると、歴史的な重大局面になるといわざるをえません。

感染症の起源は野生動物にあるとかんがえられます。とくに、ウイルスをもつ野生動物と人間が直接的・間接的に接触すると、人間に感染する能力をもつウイルスであれば簡単に人間に感染します。ふせぎようがありません。感染しないためにはとにかく接触しないことです。しかし現代人は、ジャングルをきりひらき、自然環境を破壊し、野生動物とバンバン接触しているのが現状です。さまざまな動物・人間が地球上ですみわけてきた自然史(進化史)に はやく気がついたほうがよいです。

2002年の SARS(重症急性呼吸器症候群)、2009年の豚インフルエンザ(新型インフルエンザ)、2014年のエボラ出血熱、2012年と2015年の MARS(中東呼吸器症候群)など、あたらしい種類の感染症が断続的に世界で流行しています。これからもくりかえし、未知のウイルスがでてくる可能性があります。今まで以上に人の往来がさかんになった現在、これまで以上に、さまざまな感染症にかかるリスクがたかまっています。



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▼ 参考文献
池上彰・増田ユリヤ著『感染症対人類の世界史』(ポプラ新書)ポプラ社、2020年
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