ヤマト王朝以前に、西日本をほぼ統一した出雲王朝がありました。出雲王朝をほろぼし、あらたな統一国家をつくったのがヤマト王朝です。出雲大社は、出雲の王であったオオクニヌシを鎮魂し、オオクニヌシの怨霊を封じこめるために、ヤマト王朝がたてたのではないでしょうか。
『日本書紀』編纂1300年を記念して特別展「出雲と大和」が東京国立博物館で開催されています(注1)。島根県・奈良県・東京国立博物館が協力し、出雲と大和の名品を一堂にあつめ、古代日本成立の謎にせまります。
ステレオ写真はいずれも交差法で立体視がでます。
立体視のやり方 - ステレオグラムとステレオ写真 -
日本書紀とは?
日本書紀 神代巻(乾元本)下(鎌倉時代 乾元2年(1303))
『日本書紀』は、神代(かみよ)から持統天皇11年(697)までを記した歴史書です。舎人親王(とねりしんのう、676~735)が中心となって編纂し、養老4年(720)、元正天皇(げんしょうてんのう)へ奏上されました。全30巻で、巻1・巻2は神代、巻3の神武天皇から巻30の持統天皇まで編年体でまとめられています。
写本は、古本系統(こほんけいとう)と卜部家本系統(うらべけぼんけいとう)に分類されます。和銅5年(712)編纂の歴史書『古事記』よりもたくさんの記事がおさめられ、さまざまな視点から研究がつづけられています。
神代巻の第九段一書第二には、出雲と大和を象徴する「顕露之事」(あらわにのこと)と「幽事」(「神事」)の分担についてしるされています。
第1展示室 巨大本殿 出雲大社
心御柱(しんのみはしら)と宇豆柱(うづばしら)(出雲大社境内遺跡出土、鎌倉時代)
平成12年(2000)、出雲大社境内から3本1組の柱が発見されました。本殿遺構の柱材です。杉の大木3本をたばねて1つの柱とし、大社造を構成する9ヵ所の柱のうち3ヵ所が確認され、本殿中心に位置するのが「心御柱」、前面中央に位置するのが「宇豆柱」です。それぞれの柱の直径は約1.3m、3本たばねた直径は約3mにもなります。この巨大な柱がささえていた本殿がいかに巨大で高層であったかが想像できます。
模型 出雲大社本殿(島根県出雲市、平成11年(1999))
株式会社大林組作成の古代出雲大社復元図をもとにして、島根県立松江工業高等学校の生徒14名が制作した10分の1スケールの本殿模型です。総高は16丈(約48メートル)、引橋は長さ1町(約109メートル)、出雲大社本殿がいかにおおきかったかがわかります。
赤糸威肩白鎧(あかいとおどしかたじろよろい、室町時代)
社伝によると、応仁元年(1467)の遷宮の際に、八代将軍足利義政が寄進したもので、六代将軍義教(よしのり)着用とされています。
出雲大社の位置
第2展示室 出雲 古代祭祀の源流
模型 加茂岩倉遺跡銅鐸埋納状況復元(島根県立古代出雲歴史博物館、令和元年(2019年))
加茂岩倉遺跡の銅鐸の埋納状況を復元した模型です。平成8年(1996年)10月14日、島根県雲南市加茂町岩倉の農道工事現場より、弥生時代中期から後期とおもわれる大量の銅鐸が出土しました。1ヵ所の出土としては全国最多の39個が確認され、発見された遺跡は「加茂岩倉遺跡」と命名されました。
銅剣・銅鐸・銅矛(島根県出雲市・荒神谷遺跡出土、弥生時代・前2~前1世紀)
1984年〜1985年の発掘調査により島根県出雲市・荒神谷遺跡から、おどろくべき数の青銅器(銅剣358本、銅矛16本、銅鐸6個)が出土しました。なかでも358本の銅剣は、それまでに全国で発見されていた本数を上回る量であり、考古学界・歴史学界におおきな衝撃をあたえました。弥生時代を代表する青銅器群であり、弥生時代の出雲には、高度な青銅器文化をもった王国があったことがわかります。
なお加茂岩倉遺跡と荒神谷遺跡で出土した青銅器のほとんどに「×」印がきざまれています。
四隅突出型墳丘墓(西谷2号墓)(映像展示)
弥生時代末・古墳時代前夜になると、出雲では、各地に先がけて青銅器の祭りに終止符がうたれます。墳丘墓を舞台とした、王に対する儀礼への文化的変貌がみられます。
▼ 注1
日本書紀成立1300年 特別展「出雲と大和」
会期:2020年1月15日(水)~3月8日(日)
会場:東京国立博物館・平成館
特設サイト
※ 2ヵ所をのぞき写真撮影は許可されていません。
ステレオ写真はいずれも交差法で立体視がでます。
立体視のやり方 - ステレオグラムとステレオ写真 -
日本書紀とは?
第1展示室 巨大本殿 出雲大社
第2展示室 出雲 古代祭祀の源流
第3展示室 大和 王権誕生の地
第4展示室 仏と政(まつりごと)
日本書紀とは?
日本書紀 神代巻(乾元本)下(鎌倉時代 乾元2年(1303))
『日本書紀』は、神代(かみよ)から持統天皇11年(697)までを記した歴史書です。舎人親王(とねりしんのう、676~735)が中心となって編纂し、養老4年(720)、元正天皇(げんしょうてんのう)へ奏上されました。全30巻で、巻1・巻2は神代、巻3の神武天皇から巻30の持統天皇まで編年体でまとめられています。
写本は、古本系統(こほんけいとう)と卜部家本系統(うらべけぼんけいとう)に分類されます。和銅5年(712)編纂の歴史書『古事記』よりもたくさんの記事がおさめられ、さまざまな視点から研究がつづけられています。
神代巻の第九段一書第二には、出雲と大和を象徴する「顕露之事」(あらわにのこと)と「幽事」(「神事」)の分担についてしるされています。
第1展示室 巨大本殿 出雲大社
心御柱(しんのみはしら)と宇豆柱(うづばしら)(出雲大社境内遺跡出土、鎌倉時代)
平成12年(2000)、出雲大社境内から3本1組の柱が発見されました。本殿遺構の柱材です。杉の大木3本をたばねて1つの柱とし、大社造を構成する9ヵ所の柱のうち3ヵ所が確認され、本殿中心に位置するのが「心御柱」、前面中央に位置するのが「宇豆柱」です。それぞれの柱の直径は約1.3m、3本たばねた直径は約3mにもなります。この巨大な柱がささえていた本殿がいかに巨大で高層であったかが想像できます。
模型 出雲大社本殿(島根県出雲市、平成11年(1999))
株式会社大林組作成の古代出雲大社復元図をもとにして、島根県立松江工業高等学校の生徒14名が制作した10分の1スケールの本殿模型です。総高は16丈(約48メートル)、引橋は長さ1町(約109メートル)、出雲大社本殿がいかにおおきかったかがわかります。
赤糸威肩白鎧(あかいとおどしかたじろよろい、室町時代)
社伝によると、応仁元年(1467)の遷宮の際に、八代将軍足利義政が寄進したもので、六代将軍義教(よしのり)着用とされています。
出雲大社の位置
第2展示室 出雲 古代祭祀の源流
模型 加茂岩倉遺跡銅鐸埋納状況復元(島根県立古代出雲歴史博物館、令和元年(2019年))
加茂岩倉遺跡の銅鐸の埋納状況を復元した模型です。平成8年(1996年)10月14日、島根県雲南市加茂町岩倉の農道工事現場より、弥生時代中期から後期とおもわれる大量の銅鐸が出土しました。1ヵ所の出土としては全国最多の39個が確認され、発見された遺跡は「加茂岩倉遺跡」と命名されました。
写真2 模型 加茂岩倉遺跡銅鐸銅鐸埋納状況復元
加茂岩倉遺跡の位置
銅剣・銅鐸・銅矛(島根県出雲市・荒神谷遺跡出土、弥生時代・前2~前1世紀)
1984年〜1985年の発掘調査により島根県出雲市・荒神谷遺跡から、おどろくべき数の青銅器(銅剣358本、銅矛16本、銅鐸6個)が出土しました。なかでも358本の銅剣は、それまでに全国で発見されていた本数を上回る量であり、考古学界・歴史学界におおきな衝撃をあたえました。弥生時代を代表する青銅器群であり、弥生時代の出雲には、高度な青銅器文化をもった王国があったことがわかります。
荒神谷遺跡の位置
なお加茂岩倉遺跡と荒神谷遺跡で出土した青銅器のほとんどに「×」印がきざまれています。
四隅突出型墳丘墓(西谷2号墓)(映像展示)
弥生時代末・古墳時代前夜になると、出雲では、各地に先がけて青銅器の祭りに終止符がうたれます。墳丘墓を舞台とした、王に対する儀礼への文化的変貌がみられます。
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▼ 注1
日本書紀成立1300年 特別展「出雲と大和」
会期:2020年1月15日(水)~3月8日(日)
会場:東京国立博物館・平成館
特設サイト
※ 2ヵ所をのぞき写真撮影は許可されていません。