(平行法で立体視ができます)
乾燥気候帯でミイラ文化がとくに発達しました。それぞれの地域に風土があり、文化があります。それぞれに死生観があります。
特別展「ミイラ -『永遠の命』を求めて -」が国立科学博物館で開催されています(注)。ミイラを科学する国内最大級の展覧会です。総数43体の世界各地のミイラを展示、ミイラの実像とその背景にある文化や死生観をさぐります。
第1展示室 南北アメリカのミイラ
チンチョーロ文化のミイラ
チンチョーロとは、紀元前7000年ごろに南米チリの海岸砂漠に定着した人々であり、世界最古のミイラをつくったことでしられます。彼らのミイラづくりは、内臓をとりのぞき、頭部をきりはなすことからはじまります。木や葦(アシ)をつかって骨格を復元し、灰でつくったペーストをもり、はがした皮膚をかぶせてミイラにします。頭部には、ペーストをうすくぬり、目と口のあるマスクをかぶせました。このような風習が、紀元前5000年ごろから紀元前2000ごろまでつづきました。
インカ帝国によってアンデスが統一される前、チンチョーロ文化以外にもミイラの文化があり、これらはいずれも砂漠・乾燥地帯にさかえた文化でした。ミイラのおおくは「自然ミイラ」でしたが、内臓をとりだすなどの人為的な加工もある程度おこなわれていました。
チャチャポヤのミイラ「子どものミイラ包み」(インカ文化)
ミイラ包みのなかに、非常にわかい人物の遺体のミイラがおさめられています。ミイラ包みには顔の刺繍があり、チャチャポヤの様式をしめしています。頭頂部から、木綿糸と人の髪の毛をあんだ紐がさがっています。
インカ帝国は、15世紀の前半には支配領域を拡大し、最盛期には、コロンビア南部からチリ北部にいたる広大な地域を支配しました。インカ帝国の歴代皇帝はミイラとなり、ミイラは、彼らの社会で重要な意味をミイラはもっていました。しかしスペイン人の征服とその後のキリスト教の普及によってミイラの大部分は破壊されました。
第2展示室 古代エジプトのミイラ
古代エジプトに統一王朝が誕生するまえの先王朝時代、遺体を布につつんで砂漠に埋葬していました。すると遺体は自然にミイラ化することがあり、この自然ミイラをみて、遺体を永遠にのこしたいという希望がうまれたという仮説がたてられます。
中王国時代の子どものミイラ(紀元前2010年〜前1975年ごろ)
成人男性のためにつくられたミイラマスクのなかにはいった状態で発見されました。脚のリネン包帯は、脚の長軸に対して真横にていねいにまきつけられており、これは中王国時代の典型的なまきかたです。ミイラが中王国時代のものであることは、放射性炭素年代測定でも確認されました。
「死者の書」の場面が描かれたミイラのリネン包帯(紀元前400年〜前200年ごろ)
6柱の神が、太陽の神の舟を夕暮れにこいでいる場面がえがかれています。右のほうでは、供物台のまえで死者がひざまずいて太陽神に礼拝しています。夕方の太陽神の舟と朝の太陽神の舟のあいだには、2頭のライオンの姿をした大地の神アケルがおり、背中の上には地平線(太陽神がのぼり、しずむ場所)を象徴する印があります。死者はみな、しずんではまたのぼる、再生のサイクルを永遠にくりかえす太陽神と一体になりたいとねがっていました。
腕を交差している男性のミイラ(紀元前410年〜前250年ごろ)
腕を交差する姿勢は、新王国時代には「王族のミイラ」でのみみられまましたが、第3中期以降は王族以外でも利用されました。CT スキャンによる調査により、35〜40歳の男性であり、かるい骨粗しょう症の症状が椎骨にはみとめられました。脳は、鼻からとりのぞかれ、内臓は、左脇腹を切開してとりだされ、体内には、リネンやナトロンをいれた袋などがつめられています。オシリス神の神話にもとづいてリネンでできた男性生殖器がとりつけられています。
古代エジプトの人々は、人間を構成する非物質的な部分(いわゆる霊)が死後の世界で存続しつづけるには、死者の肉体が保存されていなければならないとおもっていました。エジプトでは、キリスト教がローマの国教になってエジプト古来の宗教が異教とされたのちも、ミイラづくりがつづけられました。
▼ 注
特別展「ミイラ -『永遠の命』を求めて -」
会場:国立科学博物館
会期:2019年11月2日(土)〜2020年2月24日(月)
※ 写真撮影は許可されていません。
※ 熊本、福岡、新潟、富山に巡回予定です。
第1展示室 南北アメリカのミイラ
第2展示室 古代エジプトのミイラ
第3展示室 ヨーロッパのミイラ
第4展示室 オセアニアと東アジアのミイラフロアマップ
第1展示室 南北アメリカのミイラ
チンチョーロ文化のミイラ
チンチョーロとは、紀元前7000年ごろに南米チリの海岸砂漠に定着した人々であり、世界最古のミイラをつくったことでしられます。彼らのミイラづくりは、内臓をとりのぞき、頭部をきりはなすことからはじまります。木や葦(アシ)をつかって骨格を復元し、灰でつくったペーストをもり、はがした皮膚をかぶせてミイラにします。頭部には、ペーストをうすくぬり、目と口のあるマスクをかぶせました。このような風習が、紀元前5000年ごろから紀元前2000ごろまでつづきました。
インカ帝国によってアンデスが統一される前、チンチョーロ文化以外にもミイラの文化があり、これらはいずれも砂漠・乾燥地帯にさかえた文化でした。ミイラのおおくは「自然ミイラ」でしたが、内臓をとりだすなどの人為的な加工もある程度おこなわれていました。
チャチャポヤのミイラ「子どものミイラ包み」(インカ文化)
ミイラ包みのなかに、非常にわかい人物の遺体のミイラがおさめられています。ミイラ包みには顔の刺繍があり、チャチャポヤの様式をしめしています。頭頂部から、木綿糸と人の髪の毛をあんだ紐がさがっています。
インカ帝国は、15世紀の前半には支配領域を拡大し、最盛期には、コロンビア南部からチリ北部にいたる広大な地域を支配しました。インカ帝国の歴代皇帝はミイラとなり、ミイラは、彼らの社会で重要な意味をミイラはもっていました。しかしスペイン人の征服とその後のキリスト教の普及によってミイラの大部分は破壊されました。
第2展示室 古代エジプトのミイラ
古代エジプトに統一王朝が誕生するまえの先王朝時代、遺体を布につつんで砂漠に埋葬していました。すると遺体は自然にミイラ化することがあり、この自然ミイラをみて、遺体を永遠にのこしたいという希望がうまれたという仮説がたてられます。
中王国時代の子どものミイラ(紀元前2010年〜前1975年ごろ)
成人男性のためにつくられたミイラマスクのなかにはいった状態で発見されました。脚のリネン包帯は、脚の長軸に対して真横にていねいにまきつけられており、これは中王国時代の典型的なまきかたです。ミイラが中王国時代のものであることは、放射性炭素年代測定でも確認されました。
「死者の書」の場面が描かれたミイラのリネン包帯(紀元前400年〜前200年ごろ)
6柱の神が、太陽の神の舟を夕暮れにこいでいる場面がえがかれています。右のほうでは、供物台のまえで死者がひざまずいて太陽神に礼拝しています。夕方の太陽神の舟と朝の太陽神の舟のあいだには、2頭のライオンの姿をした大地の神アケルがおり、背中の上には地平線(太陽神がのぼり、しずむ場所)を象徴する印があります。死者はみな、しずんではまたのぼる、再生のサイクルを永遠にくりかえす太陽神と一体になりたいとねがっていました。
腕を交差している男性のミイラ(紀元前410年〜前250年ごろ)
腕を交差する姿勢は、新王国時代には「王族のミイラ」でのみみられまましたが、第3中期以降は王族以外でも利用されました。CT スキャンによる調査により、35〜40歳の男性であり、かるい骨粗しょう症の症状が椎骨にはみとめられました。脳は、鼻からとりのぞかれ、内臓は、左脇腹を切開してとりだされ、体内には、リネンやナトロンをいれた袋などがつめられています。オシリス神の神話にもとづいてリネンでできた男性生殖器がとりつけられています。
古代エジプトの人々は、人間を構成する非物質的な部分(いわゆる霊)が死後の世界で存続しつづけるには、死者の肉体が保存されていなければならないとおもっていました。エジプトでは、キリスト教がローマの国教になってエジプト古来の宗教が異教とされたのちも、ミイラづくりがつづけられました。
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▼ 注
特別展「ミイラ -『永遠の命』を求めて -」
会場:国立科学博物館
会期:2019年11月2日(土)〜2020年2月24日(月)
※ 写真撮影は許可されていません。
※ 熊本、福岡、新潟、富山に巡回予定です。