5章 変わりゆくヒマラヤとシェルパの世界
1970年には日本山岳会も、大規模な登山隊をヒマラヤにおくりこみました。ガイドおよびポーターとしてのシェルパたちもふくめると1000人にもおよぶ大部隊でした。
その後も、先進各国の登山隊は切れ目なくつづき、またトレッキング目当ての観光客も多数やってきました。こうして、ネパールの首都カトマンズからエベレストのベースキャンプへむかう道は「エベレスト街道」とよばれ、登山家やトレッカーでおおいににぎわい、ジュンベシもその中継地点となり、外国人が多数おとずれるようになりました。
エベレスト・ベースキャンプの位置
そしてシェルパの人々は、山岳ガイドやポーターとしてはたらくことにより現金収入をえられるようになりました。彼らはまずウシを購入し、生活に余裕がでてくると、それまでは売っていた仔ウシを自分の家で飼育するようになり、その結果、家畜の頭数が急にふえました。
その後も、登山家やトレッカーは増加の一途をたどり、外国人の影響はますますおおきくなり、シェルパのなかには、トレッカー相手のロッジを経営して財をなす者、カトマンズにうつりすんで観光業をいとなむ者もあらわれました。
一方で、外国人の流入とソル・クンブ地方の観光地化により、環境破壊がおこりはじめました。たとえば調理や暖房のためには大量の薪が必要です。つぎつぎに森林が伐採されます。近年は、植林がおこなわれていますが、高地での森林育成が非常に困難であることがしめされました。また伝統的な移牧との関係もむずかしくなっています。
シェルパはこうして、少数民族(マイノリティー)であるにもかかわらず、観光業のにない手となって破格の社会上昇をはたし、いまでは、ネパールの重要な「顔」として位置づけられています。ネパール観光の目玉はヒマラヤの自然そのものですが、ヤクをおいながら自然とともに生きる、敬虔な仏教徒である山岳民族シェルパは、ネパールの文化資本として欠かせないものとなりました。シェルパ女性の伝統衣装が、ロイヤル・ネパール航空の制服として採用され、ブラーマンやチェトリの乗務員さえもがそれを着用したことは、かつては差別の対象でもあった「シェルパ」が経済価値のあるブランドになったことをしめす象徴的なできごとでした。いまでは、シェルパ以外の人々のなかにも「シェルパ」と名のる者がふえています。
垂直構造
以上のように、ヒマラヤは世界最大・最高の山脈であり、これは、北へ移動するインド・プレートがユーラシア・プレートに衝突してユーラシア・プレートの下にもぐりこんだ結果、地殻が上昇して形成されたものです。このプレート運動は現在もつづいており、したがってヒマラヤでは大地震がときどきおこります。
ヒマラヤ山脈は高度差がおおきいため、南から北へのぼっていくとしだいに気温がさがり、亜熱帯から温帯・高山帯・寒帯までの多様な自然環境を順次みることができます。
ネパール南部の低地・タライは亜熱帯であり、サラソウジュがはえ、水田がひろがります。タルー・ダスワール・マジ・ラジバンシなどの一部の先住民をのぞくと、北インドから移住してきたインド系の住民がおおいです。
その北部の中間山地はおもに温帯であり、ボダイジュが特徴的で、また照葉樹林がひろがり、水田から畑作(トウモロコシなど)への変化がみられます。中間山地の下部には、パルバテ・ヒンドゥーとよばれるヒンドゥー教徒が、中間山地の上部には、マガール・ライ・リンブー・グルン・タカリー・タマンなどの山岳民族が、またカトマンズ盆地には都市文明をきずいたネワールがくらしています。
さらに高地は亜高山帯〜高山帯であり、標高3000メートルあたりからはモミ林でおおわれ、その上は高山草原になります。ソル・クンブ地方では、ヤクやゾムなどの移牧が特徴的であり、シェルパがくらしています。
これらを模式的にしめすと図1のようになります。
すみわけ
ネパールの首都カトマンズにいってみると、半袖のTシャツをきている人がいるかとおもうと、ダウンジャケットをきている人がそのすぐそばをあるいています。暑い地方からきた人、寒い地方からきた人、さまざまです。顔をみても、インド人みたいな人から日本人にそっくりな人までおり、ネパールが多民族国家であることがすぐにわかります。
ネパール・ヒマラヤでは、高度差が気温差をうみだし、山や谷がつくりだす複雑な地形とあいまって多様な自然環境がつくられました。人々は、それぞれの自然環境に適応するために独自の生活様式をうみだしていきています。環境の多様性とともに生活様式の多様性と民族の多様性が生じています。
それぞれの民族は、ことなる時代に、ことなるルートからヒマラヤにはいってきて、それぞれの地域に適応しました。現在は、さまざまな民族が、ネパールの国土(空間)を すみわけることによって共存しています。すむ場所を、ネパール国内でわけあって生存しています。すみわけは、ことなる民族が共存するために必要であり、多民族の共存には すみわけの原理がはたらいているといえます。
今日みられる地理的(空間的)な民族の分布は、歴史的(時間的)な民族の移動と適応の結果 生じたのであり、すみわけは、歴史的・時間的なるものと地理的・空間的なるものとをむすびつける原理として重要です。いいかえると、すみわけに注目することによってさまざまな民族の歴史が想像できます。
文化
ヒマラヤ高地にいくと寒さを感じます。これは皮膚感覚であり、皮膚をとおして気温の情報を内面にとりこむ(インプットする)ことです。すると厚着をします。衣服を工夫します。衣服をつくりだす(アウトプットする)ことは環境に適応するためのもっとも基本的な手段です。
シェルパの人々は、衣服や住居を工夫して寒さに適応しました。またオオムギやコムギなどを栽培し、ヤクやゾムを飼育して、寒冷地に適応した農耕・牧畜をおこないます。
衣服や住居・農耕・牧畜あるいは収穫祭など、シェルパがうみだした生活様式はまとめて文化とよんでもよいでしょう。シェルパは、独自の文化を発展させて、文化を介して自然環境に適応しました。
そこには、自然環境と人間の相互作用があり、物質・エネルギー・情報のながれが生じています。自然環境から人間への作用は「インプット」、その逆の、人間から自然環境への作用は「アウトプット」といってもよいでしょう。地域とは、このような〈人間-文化-自然環境〉の体系(システム)です。
このように文化とは、自然環境と人間とを媒介するものであり、文化に注目することによって自然環境と人間の理解がすすみます。
文化の発展のために、植物の栽培化と動物の家畜化は非常におおきな役割をはたしました。これは「農耕・牧畜革命」といってもよく、文化がその後、高度化・広域化して文明に発展するための基礎となりました。
ニーズをつかむ
ネパールは、1816年から鎖国をしていましたが1950年に開国、ネパール側からのヒマラヤ登山がはじまります。1953年には、イギリス隊のエドモンド=ヒラリーとテンジン=ノルゲイが世界最高峰エベレストの初登頂に成功します。
ネパール政府は、1965年から4年間にわたり登山を禁止しますが、1969年にふたたび解禁、その後、登山あるいはトレッキングのためにネパールに外国人が際限なくやってくるようになりす。ネパールにはほかにも山がたくさんありますが、世界最高峰エベレストは何といっても一番人気であり、世界中の登山家・トレッカーがエベレストをめざして、あるいはエベレストをみるためにエベレスト街道をのぼります。当初は、欧米人と日本人がほとんどでしたが、近年は、中国人・韓国人・インド人なども多数やってきます。
ヒマラヤ登山・トレッキングのために、高所に適応したシェルパによるサポートは欠かせないものでした。「シェルパ」とは、現地語でポーターの意味だと誤解していた人がいましたが、それは、シェルパが最初は、ヒマラヤ登山のガイドとポーターとしてしられたからです。
しかしシェルパとは、チベット語で「東の人」という意味であり、16世紀ごろに、東チベットのカム地方からヒマラヤ主稜をこえて移動してきたチベット人の一派です。
ソル・クンブ地方、エベレスト街道の周辺にすむシェルパにとって、1950年以降の登山とトレッキングは非常におおきな影響がありました。登山家やトレッカーなど、外国人を相手にすれば効率的に現金収入がえられます。最初期は、ガイドやポーターをやっていましたが、しだいにロッジ経営をする者があらわれ、そしてカトマンズにでて観光会社を経営する者もあらわれます。
一方で、観光産業のなかでトレッキングは特殊なものです。シェルパのサポートをうけながら1週間から数週間ものあいだトレッキングルートをあるいていると、観光客とガイドという関係をこえて親密な人間関係がうまれます。雄大なヒマラヤのもとで朝の目覚めにだされるミルクティーの1杯に感動します。テントやロッジであたたかい食事をだされると友情が芽ばえます。先進国からやってきた外国人には、何事にもかえがたい一生の思い出になります。
「シェルパの人達のために何か役にたちたい」
そうおもう外国人があらわれます。学校建設のために、保健衛生のために、農業振興のために、環境保全のために、資金援助(寄付金)をもうしでます。個人的にあるいはNGO(NPO)として、あらためてネパールにやってくる外国人がふえます。
あるいはヤクをおいながら自然のなかでくらすシェルパの生活をみて感激します。先進国の人々は “なつかしさ” を感じます。
「本当の幸福とは何だろう?」
スタディツアーやエコツアーがくまれます。シェルパの文化が文化資本としてあらたな意味をもちます。
このようにして、おおきな外来インパクトがシェルパの世界をかえていきます。
実は今日、このような図式は、ネパール国内のほかの地域、ランタン地域、マナスル地域、アンナプルナ地域などでも普通にみられます。したがってシェルパの世界はネパールの縮図といってもよいでしょう。
外国人がもたらす外来インパクトはネパールにとって非常におおきなものです。外国人は、オーバーユースにまず気がつかなければなりません。援助も、自分の感情や思いだけでおこなうのではなく、現地調査をおこない、地域の歴史と現状を理解し、本当のニーズをつかんだうえですすめなければなりません。そのために、ヒマラヤの垂直構造とすみわけ原理、〈人間-文化-自然環境〉系のモデル(仮説)が参考になります。
▼ 関連記事
ヒマラヤの垂直構造と重層文化 - 川喜田二郎『ヒマラヤの文化生態学』
▼ 参考文献
山本紀夫・稲村哲也編著『ヒマラヤの環境誌 -山岳地域の自然とシェルパの世界-』2000年4月4日、八坂書房
ネパール政府は1969年にそれまでの登山禁止の政策を変え、登山を解禁した。その結果、堰を切ったように登山隊がヒマラヤに押し寄せたのである。なかでももっとも多くの人が押し寄せたのが世界最高峰のエベレスト(現地名ではサガルマータ)のあるソル・クンブ地方であった。
1970年には日本山岳会も、大規模な登山隊をヒマラヤにおくりこみました。ガイドおよびポーターとしてのシェルパたちもふくめると1000人にもおよぶ大部隊でした。
その後も、先進各国の登山隊は切れ目なくつづき、またトレッキング目当ての観光客も多数やってきました。こうして、ネパールの首都カトマンズからエベレストのベースキャンプへむかう道は「エベレスト街道」とよばれ、登山家やトレッカーでおおいににぎわい、ジュンベシもその中継地点となり、外国人が多数おとずれるようになりました。
エベレスト・ベースキャンプの位置
そしてシェルパの人々は、山岳ガイドやポーターとしてはたらくことにより現金収入をえられるようになりました。彼らはまずウシを購入し、生活に余裕がでてくると、それまでは売っていた仔ウシを自分の家で飼育するようになり、その結果、家畜の頭数が急にふえました。
その後も、登山家やトレッカーは増加の一途をたどり、外国人の影響はますますおおきくなり、シェルパのなかには、トレッカー相手のロッジを経営して財をなす者、カトマンズにうつりすんで観光業をいとなむ者もあらわれました。
一方で、外国人の流入とソル・クンブ地方の観光地化により、環境破壊がおこりはじめました。たとえば調理や暖房のためには大量の薪が必要です。つぎつぎに森林が伐採されます。近年は、植林がおこなわれていますが、高地での森林育成が非常に困難であることがしめされました。また伝統的な移牧との関係もむずかしくなっています。
シェルパはこうして、少数民族(マイノリティー)であるにもかかわらず、観光業のにない手となって破格の社会上昇をはたし、いまでは、ネパールの重要な「顔」として位置づけられています。ネパール観光の目玉はヒマラヤの自然そのものですが、ヤクをおいながら自然とともに生きる、敬虔な仏教徒である山岳民族シェルパは、ネパールの文化資本として欠かせないものとなりました。シェルパ女性の伝統衣装が、ロイヤル・ネパール航空の制服として採用され、ブラーマンやチェトリの乗務員さえもがそれを着用したことは、かつては差別の対象でもあった「シェルパ」が経済価値のあるブランドになったことをしめす象徴的なできごとでした。いまでは、シェルパ以外の人々のなかにも「シェルパ」と名のる者がふえています。
*
垂直構造
以上のように、ヒマラヤは世界最大・最高の山脈であり、これは、北へ移動するインド・プレートがユーラシア・プレートに衝突してユーラシア・プレートの下にもぐりこんだ結果、地殻が上昇して形成されたものです。このプレート運動は現在もつづいており、したがってヒマラヤでは大地震がときどきおこります。
ヒマラヤ山脈は高度差がおおきいため、南から北へのぼっていくとしだいに気温がさがり、亜熱帯から温帯・高山帯・寒帯までの多様な自然環境を順次みることができます。
ネパール南部の低地・タライは亜熱帯であり、サラソウジュがはえ、水田がひろがります。タルー・ダスワール・マジ・ラジバンシなどの一部の先住民をのぞくと、北インドから移住してきたインド系の住民がおおいです。
その北部の中間山地はおもに温帯であり、ボダイジュが特徴的で、また照葉樹林がひろがり、水田から畑作(トウモロコシなど)への変化がみられます。中間山地の下部には、パルバテ・ヒンドゥーとよばれるヒンドゥー教徒が、中間山地の上部には、マガール・ライ・リンブー・グルン・タカリー・タマンなどの山岳民族が、またカトマンズ盆地には都市文明をきずいたネワールがくらしています。
さらに高地は亜高山帯〜高山帯であり、標高3000メートルあたりからはモミ林でおおわれ、その上は高山草原になります。ソル・クンブ地方では、ヤクやゾムなどの移牧が特徴的であり、シェルパがくらしています。
これらを模式的にしめすと図1のようになります。
図1 ヒマラヤの垂直構造
すみわけ
ネパールの首都カトマンズにいってみると、半袖のTシャツをきている人がいるかとおもうと、ダウンジャケットをきている人がそのすぐそばをあるいています。暑い地方からきた人、寒い地方からきた人、さまざまです。顔をみても、インド人みたいな人から日本人にそっくりな人までおり、ネパールが多民族国家であることがすぐにわかります。
ネパール・ヒマラヤでは、高度差が気温差をうみだし、山や谷がつくりだす複雑な地形とあいまって多様な自然環境がつくられました。人々は、それぞれの自然環境に適応するために独自の生活様式をうみだしていきています。環境の多様性とともに生活様式の多様性と民族の多様性が生じています。
それぞれの民族は、ことなる時代に、ことなるルートからヒマラヤにはいってきて、それぞれの地域に適応しました。現在は、さまざまな民族が、ネパールの国土(空間)を すみわけることによって共存しています。すむ場所を、ネパール国内でわけあって生存しています。すみわけは、ことなる民族が共存するために必要であり、多民族の共存には すみわけの原理がはたらいているといえます。
今日みられる地理的(空間的)な民族の分布は、歴史的(時間的)な民族の移動と適応の結果 生じたのであり、すみわけは、歴史的・時間的なるものと地理的・空間的なるものとをむすびつける原理として重要です。いいかえると、すみわけに注目することによってさまざまな民族の歴史が想像できます。
文化
ヒマラヤ高地にいくと寒さを感じます。これは皮膚感覚であり、皮膚をとおして気温の情報を内面にとりこむ(インプットする)ことです。すると厚着をします。衣服を工夫します。衣服をつくりだす(アウトプットする)ことは環境に適応するためのもっとも基本的な手段です。
シェルパの人々は、衣服や住居を工夫して寒さに適応しました。またオオムギやコムギなどを栽培し、ヤクやゾムを飼育して、寒冷地に適応した農耕・牧畜をおこないます。
衣服や住居・農耕・牧畜あるいは収穫祭など、シェルパがうみだした生活様式はまとめて文化とよんでもよいでしょう。シェルパは、独自の文化を発展させて、文化を介して自然環境に適応しました。
そこには、自然環境と人間の相互作用があり、物質・エネルギー・情報のながれが生じています。自然環境から人間への作用は「インプット」、その逆の、人間から自然環境への作用は「アウトプット」といってもよいでしょう。地域とは、このような〈人間-文化-自然環境〉の体系(システム)です。
図2 〈人間-文化-自然環境〉系のモデル
このように文化とは、自然環境と人間とを媒介するものであり、文化に注目することによって自然環境と人間の理解がすすみます。
文化の発展のために、植物の栽培化と動物の家畜化は非常におおきな役割をはたしました。これは「農耕・牧畜革命」といってもよく、文化がその後、高度化・広域化して文明に発展するための基礎となりました。
ニーズをつかむ
ネパールは、1816年から鎖国をしていましたが1950年に開国、ネパール側からのヒマラヤ登山がはじまります。1953年には、イギリス隊のエドモンド=ヒラリーとテンジン=ノルゲイが世界最高峰エベレストの初登頂に成功します。
ネパール政府は、1965年から4年間にわたり登山を禁止しますが、1969年にふたたび解禁、その後、登山あるいはトレッキングのためにネパールに外国人が際限なくやってくるようになりす。ネパールにはほかにも山がたくさんありますが、世界最高峰エベレストは何といっても一番人気であり、世界中の登山家・トレッカーがエベレストをめざして、あるいはエベレストをみるためにエベレスト街道をのぼります。当初は、欧米人と日本人がほとんどでしたが、近年は、中国人・韓国人・インド人なども多数やってきます。
ヒマラヤ登山・トレッキングのために、高所に適応したシェルパによるサポートは欠かせないものでした。「シェルパ」とは、現地語でポーターの意味だと誤解していた人がいましたが、それは、シェルパが最初は、ヒマラヤ登山のガイドとポーターとしてしられたからです。
しかしシェルパとは、チベット語で「東の人」という意味であり、16世紀ごろに、東チベットのカム地方からヒマラヤ主稜をこえて移動してきたチベット人の一派です。
ソル・クンブ地方、エベレスト街道の周辺にすむシェルパにとって、1950年以降の登山とトレッキングは非常におおきな影響がありました。登山家やトレッカーなど、外国人を相手にすれば効率的に現金収入がえられます。最初期は、ガイドやポーターをやっていましたが、しだいにロッジ経営をする者があらわれ、そしてカトマンズにでて観光会社を経営する者もあらわれます。
一方で、観光産業のなかでトレッキングは特殊なものです。シェルパのサポートをうけながら1週間から数週間ものあいだトレッキングルートをあるいていると、観光客とガイドという関係をこえて親密な人間関係がうまれます。雄大なヒマラヤのもとで朝の目覚めにだされるミルクティーの1杯に感動します。テントやロッジであたたかい食事をだされると友情が芽ばえます。先進国からやってきた外国人には、何事にもかえがたい一生の思い出になります。
「シェルパの人達のために何か役にたちたい」
そうおもう外国人があらわれます。学校建設のために、保健衛生のために、農業振興のために、環境保全のために、資金援助(寄付金)をもうしでます。個人的にあるいはNGO(NPO)として、あらためてネパールにやってくる外国人がふえます。
あるいはヤクをおいながら自然のなかでくらすシェルパの生活をみて感激します。先進国の人々は “なつかしさ” を感じます。
「本当の幸福とは何だろう?」
スタディツアーやエコツアーがくまれます。シェルパの文化が文化資本としてあらたな意味をもちます。
このようにして、おおきな外来インパクトがシェルパの世界をかえていきます。
実は今日、このような図式は、ネパール国内のほかの地域、ランタン地域、マナスル地域、アンナプルナ地域などでも普通にみられます。したがってシェルパの世界はネパールの縮図といってもよいでしょう。
外国人がもたらす外来インパクトはネパールにとって非常におおきなものです。外国人は、オーバーユースにまず気がつかなければなりません。援助も、自分の感情や思いだけでおこなうのではなく、現地調査をおこない、地域の歴史と現状を理解し、本当のニーズをつかんだうえですすめなければなりません。そのために、ヒマラヤの垂直構造とすみわけ原理、〈人間-文化-自然環境〉系のモデル(仮説)が参考になります。
▼ 関連記事
ヒマラヤの垂直構造と重層文化 - 川喜田二郎『ヒマラヤの文化生態学』
▼ 参考文献
山本紀夫・稲村哲也編著『ヒマラヤの環境誌 -山岳地域の自然とシェルパの世界-』2000年4月4日、八坂書房