垂直構造がみられます。多様な自然環境のなかでさまざまな民族がすみわけています。〈主体-文化-自然環境〉系が機能しています。
山本紀夫・稲村哲也編著『ヒマラヤの環境誌 -山岳地域の自然とシェルパの世界-』(八坂書房)は、ネパール・ヒマラヤの自然環境とそこでくらすさまざまな民族、とくにシェルパの世界について、フィールドワークの成果にもとずいて解説しています。
1章 ヒマラヤ山脈 -地形と自然環境-
ヒマラヤ山脈は世界最高の山脈、チベット高原は世界最大の高原であり、まとめて、ヒマラヤ・チベット山塊とよぶのがふさわしいひろがりとたかさをもっています。
ヒマラヤの気候を特徴づけるのが「モンスーン」です。モンスーンとは広義では季節風を意味しますが、南アジアでは、夏の雨季あるいは降雨のことをさすのが普通です。基本的には海陸風であり、夏には、あたためられた大陸で上昇気流が形成され、それにすいこまれて海から陸への大気のながれが生じ、反対に冬には、ひやされた大陸にできる冷気団から海にむかってふきだす気流が生じます。ヒマラヤ・チベット山塊の存在によりこのような海陸風の効果がいちじるしくたかめられ、はっきりした雨季と乾季が生じます(ヒマラヤをみるなら乾季が好機です)。
またヒマラヤ山脈には無数の氷河が分布しています。おおきな谷氷河のいくつかは、ヒマラヤ山脈の主脈の峠をおおって南北両側に流下しています。ネパール北東部のクンブ地域(エベレストをふくむ地域)のナンパ=ラ(「ラ」は峠の意味)の氷河はその代表的なものであり、そこは、ヤクの隊商が通過でき、チベットとネパールのあいだの交易ルートにふるくからなっていました。ヒマラヤ南面に現在はすんでいるシェルパとよばれる民族はこのような峠をこえてチベットから移住してきた人々です。
ネパールでは、標高がもっともひくいタライ低地(標高200メートル前後)の年平均気温が25℃の年に、シェルパの人達がくらす標高4000メートルの高地では7.4℃であり、ネパールを南北に縦断すると、亜熱帯から温帯、冷温帯、寒帯までの環境をみることができます。
ネパール南部の低地・タライは、現在は森林が伐採されて広大な農地(水田と畑地)になっていますが、亜熱帯林がかつてはひろがっていました。それをしめす植物としてフタバガキ科の樹木、サラソウジュの名で日本では しられる樹木があります。サラソウジュはタライを代表する植物です。
標高1300メートルぐらいまでのぼっていくと現地の人々が「チョータラ」とよぶ休憩所が多数あります。すずしい木陰をあたえてくれる木は「ピパル」および「バル」と現地ではよばれ、これらはともにクワ科のイチジクの仲間の高木であり、日本では、前者はインドボダイジュ、後者はベンガルボダイジュとしてしられます。チョータラでは、ピパルとバルがそれぞれ1本ずつ、ペアでみられることがおおいです。
さらにのぼっていくと水田はみられなくなり、トウモロコシやシコクビエなどの畑地ばかりがひろがります。標高1800メートルあたりでは温帯的な植物が分布し、日本と共通する雰囲気があります。ここでは、シイやカシなど、いわゆるドングリをつける照葉樹がよくみられます。照葉樹林は熱帯降雨林につづくおおきな樹林であり、ヒマラヤのこのあたりから日本にまで分布しています。農学者・中尾佐助は、この照葉樹林帯に共通する文化をみいだして「照葉樹林文化論」を発表しました。ネパールの首都があるカトマンズ盆地も照葉樹林でかつてはおおわれていたことがわかっています。
さらにのぼっていくと、畑の作物では、シコクビエが姿をけし、トウモロコシ、やがて、さむさにつよいジャガイモやオオムギなどが目立ちます。またモミの木などが出現します。
標高3000メートルあたりからはモミの林でおおわれ、これは3800メートルあたりで消え、樹木限界に達します。それより上は灌木林となり、やがて高山草原になり、これは5000メートルちかくまでつづきます。高山草原は放牧地として利用され、ヤクやゾム(ヤクとウシの交雑種)やヒツジなどが放牧されます。さらにその上は氷河が分布します。
2章 ヒマラヤの民族誌 -共生する民族-
タライ低地の人々
タルー族・ダスワール族・マジ族・ラジバンシ族などの一部の先住民をのぞくと、北インド系の人々がおおくすんでいます。近世になって、タライの開拓がはじまると、北インド(とくにビハール州)の農民が大量に移入してきました。彼らの生活様式は北インドのものと現在でもほとんどおなじであり、大多数が敬虔なヒンドゥー教徒です。
中間山地 -インド・ヨーロッパ語系の人々-
10世紀頃から、イスラム教徒がインドに波状的に侵攻してヒンドゥー教の王国をほろぼしました。この戦乱のなかで、ヒンドゥー教の高位カーストの一部はヒマラヤ山脈にのがれました。彼らはその後、しだいに勢力を拡大し、土侯国をつくり、18世紀なかばには、ゴルカ地方出身のプリティヴィ=ナラヤン国王がカトマンズを征服、統一国家(領土国家)・ネパール王国をきずきました。中間山地の高位カーストの人々は「パルバテ・ヒンドゥー」とよばれ、ネパールの政治・経済・社会で主導権をにぎり、ネパールの国語であるネパール語も彼らの母語です。
パルバテ・ヒンドゥーのもっとも高位のカーストは「ブラーマン」(「バフン」ともよばれる)であり、つぎは、「クシャトリヤ」のネパール語なまりである「チェトリ」です。彼らは、清浄な生まれを表象する「聖なる紐」を肩にかけ、浄化儀礼をたえずおこない、肉や酒のような宗教的に「穢れた」食物を口にすることは禁忌とします。また「タクリー」はチェトリの一種ですが王族・武将とむすびついて優位性をほこっています。
彼らの社会では「職業カースト」は、カースト制度のもっとも最下層に位置し、一種の「不可触民」となっています。「カミ」(鉄鍛冶)、「サルキ」(皮革)、「ダマイ」(仕立て・楽士)などがおり、彼らは、上位カーストの家にあがることはできず、上位カーストと接触しないように注意しなければなりません。しかし肉をたべたり酒をのんだりできるなど、高位カーストにはないたのしみがたくさんあるといいます。
中間山地 -チベット・ビルマ語系の人々-
東ネパールにすむリンブー族・ライ族、カトマンズ盆地の外輪山周辺に分布するタマン族、カトマンズに都市文明をきずいたネワール族、中西部を中心に分布するグルン族・マガール族などがチベット・ビルマ語系民族に属します。彼らの先祖はかなりふるい時代に現ネパールの北や東から移住してきたといわれ、12世紀ごろまでにはネパール中部まで分布をひろげました。
彼らは、ヒンドゥー教とは無関係な民族でしたが、ブラーマンたちは彼らを、ブラーマンほど清浄ではないが、不可触民ほどは穢れていないということで、カースト制度の「バイシャ」(第3の身分)相当としました。
チベット・ビルマ語系のなかにあって、カトマンズ盆地を拠点とするネワールとよばれる人々は特異な存在です。ネワールとは、ひとつの起源から生じた民族ではなく、ネワール語をはなし、ネワール文化を維持している人々のことであり、彼らの身体的特徴は、インド系からモンゴロイド系までさまざまであり、さまざまな人々が流入した交易都市・カトマンズで混血がすすんだことがわかります。カトマンズ盆地では、13世紀初頭にマッラ王朝が成立、その王族はインド・ヨーロッパ語族系だったといわれますが、王朝は、ネワール文化を保護し、カトマンズ、パタン、バクタプールにみられる都市文明を発展させました。ネワールは、ヒンドゥー教徒と仏教徒にわかれ、独自のカースト体系をもっています。
山岳地帯の人々
エベレストのあるソル・クンブ地方、カトマンズの北側のヘランブー地方からゴサインクンドやランタン谷、アンナプルナ山群の北側のマナン地方、カリガンダキ川上流のムスタン地方などには、チベット語にきわめてちかい言語を母語としている人々がすんでいます。1959の「チベット動乱」以前は、カトマンズよりもチベットの首都ラサとつよいつながりをもっていました。
ソル・クンブ地方にすむシェルパは、15世紀ないし16世紀以降にチベットから移動してきたといわれ、今では、ネパールを代表する民族のひとつになっています。彼らを有名にしたのは、イギリス登山隊が1920年代初頭に、ダージリンに出稼ぎにきていたシェルパの人々を山岳ガイドや高所ポーターとして雇用したことにはじまります。1950年代にはいると、ソル・クンブ地方のシェルパもヒマラヤ登山に参加するようになり、イギリス隊のヒラリー卿をエベレスト初登頂にみちびいたテンジン=シェルパは英雄となりました。その後、1970年代にはいると、ヒマラヤ・トレッキングがさかんになり、おおくのシェルパが観光産業に参入し、経済的な力をつける者が多数あらわれました。
目 次
1章 ヒマラヤ山脈
2章 ヒマラヤの民族誌
3章 ヒマラヤの環境史Ⅰ 人と植物をめぐって
4章 ヒマラヤの環境史Ⅱ 人と家畜をめぐって
5章 変わりゆくヒマラヤとシェルパの世界
1章 ヒマラヤ山脈 -地形と自然環境-
ヒマラヤ山脈は、平均高度5000メートルのチベット高原の南の縁に、7000〜8000メートルの高さでそびえている屏風のような山脈である。東端のナムチャバルワ(7756メートル)から西端のナンガパルバット(8126メートル)まで、長さは2200キロメートルに達し、南東から北西の延び南側にふくらむ弧を描いて続いている。
ヒマラヤ山脈は世界最高の山脈、チベット高原は世界最大の高原であり、まとめて、ヒマラヤ・チベット山塊とよぶのがふさわしいひろがりとたかさをもっています。
ヒマラヤの気候を特徴づけるのが「モンスーン」です。モンスーンとは広義では季節風を意味しますが、南アジアでは、夏の雨季あるいは降雨のことをさすのが普通です。基本的には海陸風であり、夏には、あたためられた大陸で上昇気流が形成され、それにすいこまれて海から陸への大気のながれが生じ、反対に冬には、ひやされた大陸にできる冷気団から海にむかってふきだす気流が生じます。ヒマラヤ・チベット山塊の存在によりこのような海陸風の効果がいちじるしくたかめられ、はっきりした雨季と乾季が生じます(ヒマラヤをみるなら乾季が好機です)。
またヒマラヤ山脈には無数の氷河が分布しています。おおきな谷氷河のいくつかは、ヒマラヤ山脈の主脈の峠をおおって南北両側に流下しています。ネパール北東部のクンブ地域(エベレストをふくむ地域)のナンパ=ラ(「ラ」は峠の意味)の氷河はその代表的なものであり、そこは、ヤクの隊商が通過でき、チベットとネパールのあいだの交易ルートにふるくからなっていました。ヒマラヤ南面に現在はすんでいるシェルパとよばれる民族はこのような峠をこえてチベットから移住してきた人々です。
ネパールでは、標高がもっともひくいタライ低地(標高200メートル前後)の年平均気温が25℃の年に、シェルパの人達がくらす標高4000メートルの高地では7.4℃であり、ネパールを南北に縦断すると、亜熱帯から温帯、冷温帯、寒帯までの環境をみることができます。
ネパール南部の低地・タライは、現在は森林が伐採されて広大な農地(水田と畑地)になっていますが、亜熱帯林がかつてはひろがっていました。それをしめす植物としてフタバガキ科の樹木、サラソウジュの名で日本では しられる樹木があります。サラソウジュはタライを代表する植物です。
標高1300メートルぐらいまでのぼっていくと現地の人々が「チョータラ」とよぶ休憩所が多数あります。すずしい木陰をあたえてくれる木は「ピパル」および「バル」と現地ではよばれ、これらはともにクワ科のイチジクの仲間の高木であり、日本では、前者はインドボダイジュ、後者はベンガルボダイジュとしてしられます。チョータラでは、ピパルとバルがそれぞれ1本ずつ、ペアでみられることがおおいです。
さらにのぼっていくと水田はみられなくなり、トウモロコシやシコクビエなどの畑地ばかりがひろがります。標高1800メートルあたりでは温帯的な植物が分布し、日本と共通する雰囲気があります。ここでは、シイやカシなど、いわゆるドングリをつける照葉樹がよくみられます。照葉樹林は熱帯降雨林につづくおおきな樹林であり、ヒマラヤのこのあたりから日本にまで分布しています。農学者・中尾佐助は、この照葉樹林帯に共通する文化をみいだして「照葉樹林文化論」を発表しました。ネパールの首都があるカトマンズ盆地も照葉樹林でかつてはおおわれていたことがわかっています。
さらにのぼっていくと、畑の作物では、シコクビエが姿をけし、トウモロコシ、やがて、さむさにつよいジャガイモやオオムギなどが目立ちます。またモミの木などが出現します。
標高3000メートルあたりからはモミの林でおおわれ、これは3800メートルあたりで消え、樹木限界に達します。それより上は灌木林となり、やがて高山草原になり、これは5000メートルちかくまでつづきます。高山草原は放牧地として利用され、ヤクやゾム(ヤクとウシの交雑種)やヒツジなどが放牧されます。さらにその上は氷河が分布します。
2章 ヒマラヤの民族誌 -共生する民族-
ヒマラヤ山脈の南斜面に位置する国土には、さまざまな顔立ち、異なった言語、多様な文化があふれている。首都カトマンズの中心街で行き交う人びとを眺めていると、そのことはすぐにわかる。目鼻立ちがはっきりし褐色の肌をもつ人もいれば、一重瞼で日本人とよく似た人にも出会う。
女性の衣装はインド風サリーもあれば、チベット服(どてらのように前合わせにし横線模様の前掛けをつける)、パンジャビー・ドレス(スリットの入ったスモック風ワンピースにスラックス)もある。(中略)このように多種多様な顔つき、肌の色、服装をみかけるのは、ネパールが多民族国家であるからである。
タライ低地の人々
タルー族・ダスワール族・マジ族・ラジバンシ族などの一部の先住民をのぞくと、北インド系の人々がおおくすんでいます。近世になって、タライの開拓がはじまると、北インド(とくにビハール州)の農民が大量に移入してきました。彼らの生活様式は北インドのものと現在でもほとんどおなじであり、大多数が敬虔なヒンドゥー教徒です。
中間山地 -インド・ヨーロッパ語系の人々-
10世紀頃から、イスラム教徒がインドに波状的に侵攻してヒンドゥー教の王国をほろぼしました。この戦乱のなかで、ヒンドゥー教の高位カーストの一部はヒマラヤ山脈にのがれました。彼らはその後、しだいに勢力を拡大し、土侯国をつくり、18世紀なかばには、ゴルカ地方出身のプリティヴィ=ナラヤン国王がカトマンズを征服、統一国家(領土国家)・ネパール王国をきずきました。中間山地の高位カーストの人々は「パルバテ・ヒンドゥー」とよばれ、ネパールの政治・経済・社会で主導権をにぎり、ネパールの国語であるネパール語も彼らの母語です。
パルバテ・ヒンドゥーのもっとも高位のカーストは「ブラーマン」(「バフン」ともよばれる)であり、つぎは、「クシャトリヤ」のネパール語なまりである「チェトリ」です。彼らは、清浄な生まれを表象する「聖なる紐」を肩にかけ、浄化儀礼をたえずおこない、肉や酒のような宗教的に「穢れた」食物を口にすることは禁忌とします。また「タクリー」はチェトリの一種ですが王族・武将とむすびついて優位性をほこっています。
彼らの社会では「職業カースト」は、カースト制度のもっとも最下層に位置し、一種の「不可触民」となっています。「カミ」(鉄鍛冶)、「サルキ」(皮革)、「ダマイ」(仕立て・楽士)などがおり、彼らは、上位カーストの家にあがることはできず、上位カーストと接触しないように注意しなければなりません。しかし肉をたべたり酒をのんだりできるなど、高位カーストにはないたのしみがたくさんあるといいます。
中間山地 -チベット・ビルマ語系の人々-
東ネパールにすむリンブー族・ライ族、カトマンズ盆地の外輪山周辺に分布するタマン族、カトマンズに都市文明をきずいたネワール族、中西部を中心に分布するグルン族・マガール族などがチベット・ビルマ語系民族に属します。彼らの先祖はかなりふるい時代に現ネパールの北や東から移住してきたといわれ、12世紀ごろまでにはネパール中部まで分布をひろげました。
彼らは、ヒンドゥー教とは無関係な民族でしたが、ブラーマンたちは彼らを、ブラーマンほど清浄ではないが、不可触民ほどは穢れていないということで、カースト制度の「バイシャ」(第3の身分)相当としました。
チベット・ビルマ語系のなかにあって、カトマンズ盆地を拠点とするネワールとよばれる人々は特異な存在です。ネワールとは、ひとつの起源から生じた民族ではなく、ネワール語をはなし、ネワール文化を維持している人々のことであり、彼らの身体的特徴は、インド系からモンゴロイド系までさまざまであり、さまざまな人々が流入した交易都市・カトマンズで混血がすすんだことがわかります。カトマンズ盆地では、13世紀初頭にマッラ王朝が成立、その王族はインド・ヨーロッパ語族系だったといわれますが、王朝は、ネワール文化を保護し、カトマンズ、パタン、バクタプールにみられる都市文明を発展させました。ネワールは、ヒンドゥー教徒と仏教徒にわかれ、独自のカースト体系をもっています。
山岳地帯の人々
エベレストのあるソル・クンブ地方、カトマンズの北側のヘランブー地方からゴサインクンドやランタン谷、アンナプルナ山群の北側のマナン地方、カリガンダキ川上流のムスタン地方などには、チベット語にきわめてちかい言語を母語としている人々がすんでいます。1959の「チベット動乱」以前は、カトマンズよりもチベットの首都ラサとつよいつながりをもっていました。
ソル・クンブ地方にすむシェルパは、15世紀ないし16世紀以降にチベットから移動してきたといわれ、今では、ネパールを代表する民族のひとつになっています。彼らを有名にしたのは、イギリス登山隊が1920年代初頭に、ダージリンに出稼ぎにきていたシェルパの人々を山岳ガイドや高所ポーターとして雇用したことにはじまります。1950年代にはいると、ソル・クンブ地方のシェルパもヒマラヤ登山に参加するようになり、イギリス隊のヒラリー卿をエベレスト初登頂にみちびいたテンジン=シェルパは英雄となりました。その後、1970年代にはいると、ヒマラヤ・トレッキングがさかんになり、おおくのシェルパが観光産業に参入し、経済的な力をつける者が多数あらわれました。
ソル・クンブの位置