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第Ⅳ部 ヒマラヤの宗教
ヒンズー教の宗教的伝統が伝播する以前には、コミュニティ・レベルの文化とよく調和した別の宗教伝統が存在していた。この伝統は、一般に西ネパール(ジュムラ盆地)に起源するといわれるものであり、この影響を受けてもうひとつの宗教伝統が派生し、その中心地となったのがパンチ・ガオン地区である。この伝統には、ブラーマンやラマのような職業的祭司は存在しない。かわりに、儀礼においてシャーマンが祭司の役目を果たすのである。
ヒマラヤ山岳諸民族の人々は、さまざまな悪霊の襲来にたえず恐怖をいだいており、悪霊よけの呪術や呪物はとても重要な役割をはたしています。なかでも、死穢(しえ)に対する恐怖心はとくにつよいです。
その一方で、宗教儀礼をとおして、よい霊的力や生命の本質を善良な精霊から享受することには熱心です。しかし儀礼における浄化と信仰心なしには生命の本質を吸収することはできません。
人々は、人が死亡して2〜3日たつと人の霊魂はきえうせますが生命の本質はいきのこり、死者の霊は天界へ昇天するとかんがえています。生命の本質は、天界とくに月にとどまります。月にやどる祖先霊は、生命の本質を人々や子孫にさずけ祝福します。もし、霊魂が昇天に失敗すると、魂は、地上を彷徨して、いきている人間をおびやかします。
人々は、霊的世界との交信をシャーマンに託します。天界の聖霊が憑依する依代として、イトスギ樹や岩・石のようなシンボルがたいへん重要です。
このようなヒマラヤ山岳諸民族の古代伝統は、ヒンズー教やチベット仏教と重層的に現在もいきつづけています。したがって古代の伝統を無視して、ネパールのヒンズー教やチベット仏教をかたることはできません。ヒマラヤの中間山岳地帯の人々は、土着文化のうえにヒンズー文明あるいはチベット文明をかさねた重層文化の民族であることが宗教からもよくわかります。
第Ⅴ部 ヒマラヤ・チベット・日本
マガール族というのは、今は山腹に数十戸ぐらいの家が密集して暮らしている。その集落を中心に、かなりの半径で畑のある範囲がある。それは段々畑で、実際よく見ると、等高線の段々畑ではない。どこかで上下の階段がくっついていのだ。
マガールの人々がつくる段々畑は、ヒンズー教徒の人々がつくる水田とはことなり、等高線にそっておらず、上下の畑が畑の端でくっついていて、全体的にみると網目状に斜面にひろがっています。1段目の畑を、牛の2頭曳きでたがやしおわると、エスカレーターのように1段上の畑にそのままいける「スイッチバック耕地」になっています。
このような耕作地の外側に、「パカ」とよばれる牧草地があり、草地に灌木がしげったりしています。その外側には森林地帯がひろがっており、森林のことを「ジャンガル」と昔からよびます(これがのちに、英語の jungle になりました)。このようにヒマラヤ各地には、「集落-農牧地-森林」という同心円状の構造がみられます。
段々になった斜面をみて、天までつづく棚田だとおもう外国人がいますが、実は、下部は水田ですが、上部は畑であることがよくみればわかります。基本的には、水田まではヒンズー教徒、そのうえの畑地はマガールその他の山岳諸民族の領域です。
チベット人誰しもが携行しているのが、木のお椀である。ちょうど抹茶茶碗のある種のごとく、ぺしゃんとした浅い器で、凝る人によれば材はバラの根がよいという。服装は日本人の和服と同じで前開きで右前にし、その腰に巻いた帯の上に着物をたくしあげ、木のお椀をそのダブダブになった懐にいれる。
この茶碗にもチベット文明が凝縮されています。この茶碗は、いつでも旅にでられるチベット人の生活スタイルを物語っています。キャンプの昼食時は、焚き火をしてお茶をわかし、麦コガシ(ツァンパ)をとりだし、このお椀にバターをたしてお茶とまぜてそそげばバター茶がすぐにのめます。麦コガシはすでに炒ってあるため、お湯をかけるだけで食事になり、旅には都合がよいです。このときに活躍するのが、平べったい木のお椀です。ぺしゃんとした形は腹にいれてもゴロゴロせず、すわりがよいので岩や砂地においてもころびません。チベット人の集落をおとずれたら陶器の食器も家庭にはありますが、旅では、この木のお椀にかなうものはありません。
このように茶碗1個をみても、チベット人が旅の生活、移動ということを本質的にかかえている人々だということがわかります。
チベット人の基本的生業は半農半牧半商業であり、ひとりひとりが、農耕民でありかつ牧畜民であり商人にもなります。しかし農民層・牧民層・商業民といった階層別に機能分化した社会集団はなく、分化がまったくみられません(カースト制はありません)。チベット人の場合は、これらをわけない点が重要であり、何でも屋に誰もがなりえます。
このことは、つねに移動するということと関係があり、チベット人が、定住を基本とする農耕民ではなく、移動を基本とする遊牧民の要素をもつことをしめしています。
チベット社会は、かなり大昔は狩猟・採集をやっていましたが、のちに、西アジアから農牧型の農業がはいってきました。ただしチベット高原は標高がたかすぎたので羊や山羊ははいりましたが牛ははいれませんでした。そのかわりにヤクを家畜化しました。一方で、高地に適した小形馬の出現によって騎馬民族化もおこりました。ヤクと馬をつかえるようになったことにより輸送の効率があがり、遠距離移動が可能になりました。
ヒマラヤ山岳諸民族のなかでは、商売人・事業家としてしられるタカリーの人々が、このようなチベット文明におおきな影響をうけています。
ベンガル湾に騎馬民族的な文化が押し出してくる可能性をもっと考えないといけないと思う。それは、雲南、東チベットあたりの文化ではないか。その時期は、騎馬民族が北アジアに広がった西暦紀元前数世紀ではなくて、一波遅れて第二次騎馬民族化として起こったときである。それは、山岳地帯であるために、中形馬が使えなくて、小形馬しか使えなかったからであろう。小形馬が雲南、東チベットあたりの牧民的な連中に駆使されるようになって、小型の騎馬民族化を引き起こした。
西暦紀元前後、青銅器の全盛期から鉄器へのうつりかけの時期、騎馬民族化がチベットでおこり、チベットの領域が膨張したようです。膨張したチベット人たちは雲南〜ビルマの方へおしだしました。北の方、東の方、インドの方には、すでに強国があったので、比較的よわい地域、地形的にもでやすい地域に進出しました。後世に、チベット帝国がおこったときにも同様に領域を拡大しました。このことは、「チベット=ビルマ語族」という言語からもいえます。言語学的にみても、同系統の言葉をつかう人々がチベット〜ビルマにいたのであり、チベットとビルマが非常にちかい関係にあることがわかります。
ところで近年の農学的研究によると、稲作は、雲南からアッサムにかけての地域に起源があるようです。すると雲南・ビルマ・アッサムあたりでは、かつては、稲作民とともにチベット人(騎馬民族)もいたのであり、両者は共存していた、あるいは融合していました。
このような人々が、ベンガル湾からマレー半島、東南アジアへ稲作をつたえ、さらに、中国の広東・福建沿岸をとおって、南朝鮮・西日本に稲作がつたわったという、海(および海岸)のルートがあったのではないかという仮説をたてることができます。雲南の文化と日本のそれがよく似ているということはしばしば指摘されます。それは南海のルートを想定すれば説明できます。
もしそうだとすると、このルートによって、チベットの騎馬民族的なものも日本までたどりついているということになります。
騎馬民族の文化というと、北から、朝鮮半島を経由して南下して日本列島に流入したという仮説が一般的にしられていますが、南海ルートの可能性もみのがしてはなりません。意外にも、チベットと日本はつながっています。
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ヒマラヤの村々をみると、中心に集落があり、その周囲に農牧地があり、その外側に、森林などの自然環境がひろがる同心円状の構造をもつことがわかります。ヒマラヤの村々は民族をとわず基本的にこの構造をもっています(図1)。
図1 〈集落-農牧地-自然環境〉の同心円構造
農牧地は、集落でくらす人々が独自の自然環境をたくみに利用してつくりだしたものであり、自然環境に適応するための重要な手段です。そして人々が環境に適応するためには、農牧地以外にも、住居・衣服・道具・制度・祭りなど、さまざまな生活様式をうみだしています。農牧地以外の生活様式もふくめたこのようなものは総称して文化とよんでもよいでしょう。すると〈集落-農牧地-自然環境〉の同心円構造は〈集落-文化-自然環境〉系と一般化できます。農業は文化のひとつです。英語では文化は culture といい、その語源は、ラテン語の「colere(耕す)」にあります。
ところで、ネワールがくらすカトマンズ盆地では集落は都市になっています。ネワールは集落を都市に発展させました。あるいは集落は、人々とか民族とかにおきかえてかんがえることもできます。そこで集落・都市・人々・民族などをここではまとめて主体とよぶことにします。すると〈集落-文化-自然環境〉系は〈主体-文化-自然環境〉系と抽象化できます(図2)。集落とは主体の一種です。
図2 〈主体-文化-自然環境〉系
このモデルにおいて、自然環境からの恵みを主体はうけとり、他方で主体は、農牧地などをつくったりして自然環境を改良します。自然環境は主体に作用し、自然環境に主体は作用をあたえます。自然環境から主体への作用は「インプット」、主体から自然環境への作用は「アウトプット」といってもよいでしょう。主体は、「プロセシング」をおこなう存在です。このような〈主体-文化-自然環境〉系が地域のモデルです。
図2をみればあきらかなように、主体だけをみていても、自然環境だけをみていても地域のことはわかりません。両方を同等にみる必要があり、しかしそれでも不十分であり、地域でおこっている〈インプット→プロセシング→アウトプット〉をとらえなければなりません。地域全体の体系(システム)をしることが重要です。
さて、ヒマラヤには垂直構造がみられました。表にまとめるとつぎのようになります(表1)。
表1 ヒマラヤの垂直構造
主体(人間)、農業と宗教、自然環境のあいだにみごとな対応関係があり、これは、〈主体-文化-環境〉系(図2)のモデルで説明できます。
そして標高に注目すると、ヒンズー教徒が下位に、チベット人が上位に、両者の中間に、マガール・ライ・リンブー・グルン・タカリー・タマンといった山岳諸民族が位置づけられます。ここでいうヒンズー教徒は、現ネパール領内にインドから大昔に移住してきた純粋なヒンズー教徒であり、チベット人は、現ネパール領内にチベットから移住してきたチベット仏教徒であり、シェルパをふくみます。
山岳諸民族は、土着文化に外来文化をくわえた重層文化をもっており、おおきな文明の縁辺(辺境)では重層文化が顕著に発達することがわかります。ただしマガール・ライ・リンブーは外来文化としてヒンズー教をとりいれたのに対し、グルン・タカリー・タマンはチベット仏教をとりいれました。中間山地内では、標高がややひくいところではヒンズー文明の影響がつよく、ややたかいところではチベット文明の影響がつよかったというわけです。
ネパールにいってみると、マガール・ライ・リンブーは「わたしたちはヒンズー教徒だ」といい、グルン・タカリー・タマンは「わたしたちは仏教徒だ」といいますが、実際には彼らは重層文化の民族であり、山岳諸民族同士で共感しあい仲がよく、ヒンズー文明人やチベット文明人とは性格があわない現実があります。
また重層文化は、神仏混淆や和洋折衷をおこなった日本人にもみられ、ヒマラヤ山岳諸民族は、顔や身体が似ているだけでなく文化も似ているので、日本人は、山岳諸民族の方に したしみを感じることがおおいです。
こうしてヒマラヤの垂直構造は、ヒンズー文明・重層文化・チベット文明に区分でき、3層にモデル化できます(図3)。
図3 ヒマラヤの垂直モデル
ただし表1や図3にうまくおさまらない人々がおり、それがネワールです。ネワールは、ヒマラヤ独自の都市国家文明(亜文明)をきずきました。カトマンズ盆地は、ヒンズー教と仏教が共存あるいは融合した、ヒマラヤでもっとも発展した地域であり、ヒマラヤのヘソとして機能しつづけています。
したがってヒマラヤあるいはネパールを理解するためには、垂直モデルとともにヘソが重要です。
ヒマラヤと日本との関係という観点では、重層文化の類似性がまずありますが、ヒンズー文明との関係としては、弁財天・毘沙門天・大黒天・吉祥天・韋駄天など、ヒンズー教の神々が日本にもつたわってきています。またヒンズー教は、空海が日本にもたらした密教にもおおきな影響をあたえています。チベット文明との関係としては、ともに仏教国であることもありますが、チベットはかつては、中国地域やインド地域の大国に拮抗する、広大な領域をもった独立国であったのであり、雲南・ビルマ・ベンガル湾からの南海ルートをとおして日本ともつながっていたのではないかとかんがえられます。
以上みてきたように、ヒマラヤは、ヒンズー文明圏が南に、チベット文明圏が北に位置し、両者にはさまれているという地理的特徴があり、このことが話をやや複雑にしていますが、モデル(仮説)をつかって多様な情報を整理すれば、南北にひろがる広大な文明圏が理解できます。
一方で、ヒマラヤの東方には中国文明圏が、西方には、イスラム文明圏がひろがっています。したがってヒマラヤにたってみれば、東西南北にひろがる広大な文明圏が視野にはいってきます。たかい視点から広域をみわたすことができます。ヒマラヤは、このようなことができる地球上のすぐれた「ポイント」です。
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▼ 参考文献
川喜田二郎著『ヒマラヤの文化生態学』(川喜田二郎著作集 10)中央公論社、1997年
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