歴史柱状図から重層文化がよみとれます。基層文化に外来文化をかさねて独自文化をつくります。重層文化は、地球時代をいきぬく方法としてつかえます。
日本の重層文化 - 東北歴史博物館 -
中 世
12世紀末、源平の合戦をへて鎌倉幕府がひらかれ、朝廷は実権をうしない、武家政権の時代がはじまります。時代はおおきく転換します。その後、16世紀後半の戦国の争乱がおわるまでの約400年間を「中世」とよびます。
奥州藤原氏は、1189年、4代泰衡(やすひら)が源頼朝にせめられて滅亡しました。
中世の武士のおおくは、自分が支配する村にすみ、農業経営にもたずさわりました。彼らにとってもっとも大切なことは、その支配地をまもり子孫をのこすことであり、そのために合戦にくわわりました。合戦に勝利するために、ほかの武士と同盟したり、主人と家来のむすびつきをつよめたりしました。
山の頂上や尾根上には山城がさかんにつくられました。城下町と一体となった近世の平城とはことなり、山城は、戦いのときに一時的にたてこもるための施設であり、ふだん生活するところではありませんでした。
たとえば熊野堂大館(宮城県名取市)は、14世紀〜15世紀後半にかけてつかわれた山城で、標高200m前後の山の尾根上にあり、東西150m、南北600mの範囲に3つの郭(くるわ)がつくられました。これらのうちもっとも奥まった場所にある南郭がこの山城の中心であり、もっともひくい場所にある中郭は倉庫のような役割をはたしていたようです。周囲がふかい谷でかこまれ、外部からの侵入がむずかしいところに山城はつくられました。
熊野堂大館
(宮城県名取市、再現模型)
(宮城県名取市、再現模型)
武士たちは戦いにそなえ、刀や鎧などの武器や武具の管理をし、武芸の訓練に日ごろからはげみました。屋敷は、板敷きの母屋を中心に、堀や塀を周囲にめぐらし、門のうえには矢倉をもうけるなど、防御的なつくりでした。
甲冑(縹糸威胴丸(はなだいとおどしどうまる))
(室町時代前期、屯ヶ岡八幡宮蔵)
武士をはじめ、おおくの人々が各地を移動するようになったので、技術や文化の交流も活発になりました。農産物や手工業品の種類・量はふえ、市で売買される品物もおおくなりました。
東北地方は名馬の山地としてひろくしられ、とくに、現在の青森県南東部から岩手県北部にかけての糠部(ぬかのぶ)地方の馬は京都や鎌倉でも有名でした。生産地の牧(まき)をしめす焼印が馬の尻におされ、当時の絵巻物にもその姿がえがかれています。
中世は、おおくの人々が神や仏にすくいをもとめた時代でもあります。東北地方にも、近畿地方からわきおこった熊野信仰が根づいた名取熊野三山(宮城県)や、宗教上の活動がさかんにおこなわれた松島など、宗教の拠点ができました。
また板碑(いたび)とよばれる石製の供養塔が各地に造立されました。梵字で表記した種字(しゅじ)や文面がきざまれており、宮城県内からは5千基をこえる板碑が報告されています。
板 碑
近 世
16世紀末、豊臣秀吉は全国統一をはたし、さらに徳川家康が江戸幕府を1603年にひらきました。以後、1868年に、明治政府に政権がうつるまでの時代を「近世」とよびます。
全国の大名は、領地の支配を幕府からみとめられ、藩が成立しました。士農工商の身分制が確立し、領内は武士・商人・職人のすむ城下町と、農民や漁民がすむ村とにわけられました。交易制度も整備され、藩域をこえた交易・交流もおこなわれました。
仙台藩の城下町(絵図)
仙台城大手門を大町通りよりのぞむ(再現模型)
東北の諸藩(1664年)
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東北歴史博物館の総合展示を第1コーナーから順番にみていくと、縄文時代と弥生時代の相違にまず目がとまります。縄文時代の遺物と弥生時代のそれはあきらかにことなります。両者は不連続であり、別物です。
もうひとつは、古代と中世(平安時代と鎌倉時代)の相違です。きらびやかな平泉文化とはうってかわり、鎌倉時代からは、戦闘を前提にしてつくられた物がおおくみられます。
このように、日本と東北の歴史を大観すると、縄文時代と弥生時代、古代と中世のあいだには歴史的な一線をひくことができます。いいかえると、(1)旧石器時代〜縄文時代、(2)弥生時代〜古代、(3)中世〜近世のそれぞれをひとまとまりにしてとらえることができます。これを図式にあらわすと図1のようになります。下位から地層がかさなるように、あたらしい時代ほど上位に配置しています。このような図を「柱状図」といいます。

図1 歴史柱状図
旧石器時代〜縄文時代の展示品をみると、つくられた物がしだいに高度化していくようすがわかります。しかも芸術性をおびてきます。しかし弥生時代になると芸術性はうしなわれ、機能だけをもとめているような物になります。つくった人々は別の民族であることが容易に想像できます。
以前、「縄文 -1万年の美の鼓動 -」という特別展が東京国立博物館でありました。縄文時代の土器や土偶などは美術品としてもとらえることができます。しかしこれが「弥生」だったらどうでしょうか?「弥生の美」ともしいわれても違和感があります。
縄文時代の文化は、日本列島内で発生し発展した土着文化であったのに対し、弥生時代の文化は渡来人の文化でした。つまり外来文化でした。
そして弥生時代から古墳時代さらに古代へと歴史が連続します。弥生文化はしだいに発展し、また大陸の文化をさらにとりいれて国づくりがおこなわれます。渡来人の子孫たちが大和政権をきずいたとかんがえられます。
東北地方にいた先住民族は土着文化を当初はまもっていましたが、けっきょく大和政権に敗北、律令国家にくみこまれます。それによって、西日本の文化が東北地方にも急速にながれこんできます。それは、平泉文化として頂点に達します。
このような、弥生時代〜古墳時代〜古代に発展した文化を「外来文化」とここではよんでおきます。
しかし一方で、政権内部では腐敗がすすみ、朝廷を護衛する立場にあった武士が反乱、クーデターをおこし、武家政権が誕生します。武士は、先住民族の子孫、縄文系の人々だったのかもしれません。先住民族を兵隊として侵略者がつかった例は世界各地でみられます。潜在していた「縄文」のエネルギーが古代末期に爆発したのかもしれません。
武家政権は、中世から近世(鎌倉時代から江戸時代)までつづきます。江戸時代には、城下町という仕組みができあがり、日本の独自文化がおおきく花ひらきました。そこで、中世〜近世に発展した文化を「独自文化」とここではよんでおきます。平安時代にも日本文化が発展したとか、鎌倉時代にも大陸の文化をとりいれていたとかいうことはありますが、細部にはとらわれずにここでは大局をみます。
このように、日本と東北の歴史を大局的にみると、「土着文化」「外来文化」「独自文化」という3段階を文化史的にはよみとることができ、これは、「重層文化」とよぶことができます(図2)。

図2 重層文化のモデル
東北歴史博物館の展示は、西日本の博物館では古墳時代の展示が充実している例がおおいのに対し、縄文時代の展示がとても充実しています。東北地方には、縄文時代の遺跡が非常におおいことを反映しています。当時の人口も、東北地方のほうがおおかったようです。
縄文時代には、日本列島の全域にすでに人間がくらしていましたから、日本列島全体に縄文文化がひろがっていました。しかしその後は、西日本では、外来文化の影響がつよくなったのに対し、東北地方では縄文文化が比較的よくのこったとかんがえられます。したがって東北の文化を調査・研究することは日本の深層文化をしるための重要な方法であるといえます。
縄文文化に由来するとおもわれる風習として、「村におけるワラの神々」の展示が東北歴史博物館にはあります。ワラは、草履や靴・帽子などの日用品の材料となりますが、しめ縄や人形など、信仰に関わる用具の素材としてもふるくからつかわれてきました。東北地方ではとくに、ワラ製の神々を祀る行事がおおくつたえられ、おおきな神像をつくったり、ナマハゲなど、ワラ製の衣装をまとった神が村をおとずれる行事がおこなわれたりしています。各地でつくられているワラの神々をとおして、人々が神に託したねがいをうかがうしることができます。
村におけるワラの神々
(東北歴史博物館)
(東北歴史博物館)
さて実は、東北歴史博物館には「近現代」の展示もあります。明治維新から今日までの時代を近現代といいます。
近世から近現代へ(江戸時代から明治へ)の移行も歴史的な転換でした。明治政府は、欧米の文化をとりいれます。あらたな「外来文化」です。外来文化という観点では弥生時代のはじまりに似ています。
日本は、それまでの日本文化を基層として、あらたな重層文化をつくりはじめます。日本人はもともと重層文化の民族でしたから、外来文化に対して抵抗はありません。たとえば現代でも、キリスト教徒でもないのにクリスマスをいわったりしています。大陸の “文明人” からみたらかなり奇異なことですが、日本人にとってはどうってことありません。
ただし日本人は、それまでの伝統文化をすべてきりすてて、あたらしくはじめるということはせず、伝統文化をふまえて外来文化を発展させ、新旧を融合させていきます。近代化も、江戸時代にある程度すすんでいた技術をいかしながら外来文化をかさねることによってなしえたのであり、ひたすら勤勉に欧米にまなんで、努力だけによって欧米においついたのではありません。実際、物づくの伝統は江戸時代にすでにできあがっていました。日本人は、外来文化を要領よくとりいれながら(インプット)、それを消化し(プロセシング)、創造(アウトプット)していく能力にたけています。それが重層文化の民族です。
このような日本人の柔軟性は、グローバル社会(全球社会)をいきていくうえで有利だといえます。「重層文化」方式は、地球時代をいきぬく方法としてつかえます。
ところで、このような重層文化はグローバルにみると、中国文明など、いわゆる大文明の縁辺(辺境)で顕著にみられるようです。それでは、たとえばヒンドゥー文明の縁辺はどうでしょうか? 今後、検証します。
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