大和政権が東北地方を侵略しました。西日本の文化が東北地方にももたらされました。平安時代後期には平泉文化が花ひらきました。
日本の重層文化 - 東北歴史博物館 -
古 代
7世紀後半、大和政権は、律令にもとづいて、中央に権力を集中させる国づくりをすすめました。そして東北地方にまで支配をひろげようとしたとき、政権と東北の対立がはじまりました。かつてない戦乱の時代が東北におとずれました。
政権は、野蛮な民族という意味をこめて「エミシ(蝦夷)」と東北の人々をよびました。東北各地に城柵をおき、ちかくに農民を移住させ、服従したエミシは保護し、あらたな郡をたてました。最初の城柵は、7世紀末〜8世紀はじめに陸奥国につくられた仙台市郡山遺跡です。8世紀前半には、それにかわって多賀城が造営され、現在の宮城県北部には、新田柵(にいだのさく)など、いくつかの城柵が配置されました。出羽国では、8世紀はじめまでに現在の山形県に出羽柵がおかれ、733年に、これは秋田にうつされます。多賀城は、陸奥国と出羽国の両国の城柵の中心として機能しました。
多賀城(第II期)の政庁模型
多賀城の遺跡は、塩釜方面から南西にのびるひくい丘の先端にあり、仙台平野を一望できる場所であり、塩釜の港にちかく、交通の要所でした。 多賀城の外まわりは、たかさ4〜5mの築地(ついじ)という塀でかこまれ、全体は、一辺900m前後のゆがんだ方形をしており、南・西・東には門がもうけられ、塀に櫓がつくこともありました。城内のほぼ中央には、さらに築地でかこまれた政庁があり、そのまわりには行政実務をおこなう建物が役割ごとにおかれていました。
多賀城の平面図
多賀城は、陸奥国(現福島県〜岩手県)をおさめる国府としての役割のほか、按察使(あぜち)がいて、陸奥・出羽両国の行政を監督する役割ももっていました。東北各地におかれた城柵の中心として、エミシを支配下にくみこむ任務があり、奈良時代には、兵士を管轄する鎮守府もおかれていました。
8世紀後半、政権は、陸奥国の海岸部に、桃生城(ものうじょう)、内陸部には伊治城(これはりじょう)、出羽国の内陸部には雄勝城(おがちじょう)をつぎつぎにつくり、エミシ支配を強化・拡大しようとしました。それに対してエミシははげしく抵抗、戦いがくりかえされました。
そこで政権は、坂上田村麻呂を派遣、ついに戦いを収拾させ、9世紀の初めには、胆沢城(いさわじょう、現奥州市)、志波城(しわじょう、現盛岡市)をきずき、支配域を拡大しました。
そしてその後、平安時代中期頃になると、有力な豪族として安倍氏・清原氏があらわれ、平安時代後期からは、奥州藤原氏が、現岩手県平泉町を本拠地として約100間にわたって勢力をふるいます。
藤原清衡(ふじわらのきよひら)は、土着した貴族と地元の豪族・安倍氏とのあいだにうまれ、清原氏のもとで成長しました。清衡からの4代を奥州藤原氏といいます。彼らは、都と東北地方とのとりつぎの役目をにない、米などの収穫物や金・馬・アザラシの皮に代表される東北地方や北方の特産物の支配や流通につよい影響力をもち、また他地域との交易・交流をおこないました。
交易・交流をとおして、さまざまな品々や技術・文化が西日本から東北地方にはこばれ、中国製の白磁といった高級品、東海地方の国内産陶器、漆や金属をつかった工芸品、仏教経典ももたらされました。
奥州藤原氏は多大な財力をきずき、中尊寺や毛越寺などの仏教寺院、白山社などの神社をたてました。なかには、工芸技術の粋をつくした中尊寺金色堂や、紺色の用紙に金字と銀字でかきうつした一切経など、都にもみられない高度な作品もありました。
金銅釈迦如来像御正躰
(12世紀、中尊寺蔵)
(12世紀、中尊寺蔵)
金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅図
(12世紀、中尊寺蔵)
藤原清衡は、国家の平安をいのって中尊寺を建立し、そのなかの金色堂は、彼自身の極楽往生のためにたてた約5m四方の阿弥陀堂です。阿弥陀堂とは、極楽浄土つまり阿弥陀如来のいる世界をあらわした仏堂であり、3つの仏壇を堂内にもち、代々の遺体(ミイラ)が安置されています。堂のほぼ全体が金箔でおおわれ、堂内は、漆工芸や金属工芸による飾りがなされています。
金色堂内陣柱(復元模型)
(1124年、中尊寺蔵)
内陣柱とは、阿弥陀堂内ある4本の柱であり、極楽浄土である内陣と僧侶が礼拝をおこなう外陣とを区別するものです。仏や、極楽浄土を象徴する文様によってうめつくされ、これらは、漆のうえにこまかい金粉をまいてえがいた蒔絵や、南海産の夜光貝をきってうめこんだ螺鈿などの技法によるもので、そのたかい技術から平安工芸の至宝とたたえられています。
奥州藤原氏の影響は東北各地におよびました。宮城県石巻市の水沼窯、宮城県田束山(たつかねさん)の経塚群、宮城県角田市の阿弥陀堂、福島県いわき市の阿弥陀堂、宮城県栗原市や秋田県大館市の阿弥陀堂跡などが、藤原氏の影響を今につたえます。
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