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(交差法で立体視がでます)
東北の歴史を概観できます。重層文化がみられます。縄文文化は日本の深層文化です。
東北歴史博物館の総合展示では、旧石器時代から現代までの東北地方の歴史を概観できます(注)。

ステレオ写真はいずれも交差法で立体視がでます。
立体視のやり方 - ステレオグラムとステレオ写真 -



展示構成
第1コーナー:旧石器時代
第2コーナー:縄文時代
第3コーナー:弥生時代
第4コーナー:古墳時代
第5コーナー:古 代
第6コーナー:中 世
第7コーナー:近 世
第8コーナー:近現代



旧石器時代

人間は、1万2〜3万年まえに土器を発明するまでの数百万年間、おもな道具として石器をつかい、狩りや採集をして食料をえながら、移動生活をおくっていました。この数百万年間を「旧石器時代」とよびます。

この時代は、さむい時期とあたたかい時期とがくりかえされる氷河時代であり、日本列島には、現在では絶滅したナウマンゾウやオオツノジカ・ヒョウなどの大型動物もいました。

2万年前は、旧石器時代のなかでももっともさむい時期で、平均気温が現在よりも7℃もひくく、当時の仙台は、いまの北海道東部とおなじくらいの気候でした。東北地方には、グイマツやトウヒなどの針葉樹の森がひろがっていました。

後期旧石器時代には、狩りにつかう細身の石器であるナイフ形石器がさかんにつくられました。

東北地方の日本海側には、珪質頁岩とよばれる石器づくりに適した石がおおく産出します。後期旧石器時代の東北地方では、この石をもちいて、するどい刃をもつ細ながい石片をつくる「石刃技法(せきじんぎほう)」が発達しました。この石刃を加工して、ナイフ形石器やエンド・スクレイパーや彫刻刀形石器などがつくられました。


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局部磨製石斧とナイフ形石器
(2.7万年前、福島県会津若松市笹山原No.8遺跡)



仙台市富沢遺跡からは、2万年前のキャンプ跡がみつかりました。湿地やまばらな林がところどころにひろがる平野のなかで人々はたき火をかこんで一夜をすごしたようです。まわりにはシカの糞がたくさんおちていたので、ここは、シカの越冬地ともかんがえられ、シカ狩りのキャンプ地だったのかもしれません。仙台市富沢遺跡からは、針葉樹がしめすさむい気候(自然環境)とそこでくらす人々の生活のようすがうかがえます。


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シカの糞
(仙台市富沢遺跡、2万年前)



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骨製の道具(刺突具)










縄文時代

いまから1万2〜3千年前、氷河時代がおわってしだいに気候があたたくなり、コナラやナラなどの落葉広葉樹の森が日本列島にひろがりました。「縄文時代」のはじまりです。海や川では、たくさんの魚や貝もそだち、人々は、弓矢をつかった狩りや漁・採集で食料をえながら、土器を使用した定住生活をおくりました。縄文時代は、米づくりがはじまる紀元前4世紀ごろまでつづきます。

縄文人は、めぐみのおおいゆたかな森や海・川のちかくや、日当たりのよい丘にムラをつくって生活していました。

ムラには、10軒ほどの住居があり、広場や墓地、貝塚などがありました。たとえば八戸市風張遺跡では、中央に墓地をもつ広場があり、それとむかいあって墓地に関係ある掘立柱建物や、食量を貯蔵しておく穴があります。さらにその外側に竪穴住居が円形に配置されています。



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竪穴住居のくらし
約3500年前の縄文時代後期、ある秋の午後の一家のようすを再現しています。住居は、直径4mほどの半地下式、柱はくさりにくいクリ材、屋根はカヤです。床には、石でつくった炉があります。家のなかには、家族の生活に必要なさまざまな道具がおいてあります。家族は、木の実あつめにいそがしく、また冬の狩りの準備もはじめています。

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竪穴住居の内部



ムラのなかでは墓がよく発見されます。おおくの墓があつまった共同墓地もあります。墓は、楕円形の穴をほっただけのものが普通ですが、石を上にしいたり、ほそながい石を中央にたてた例もあります。死んでうまれた子やうまれてすぐに死んだ子を土器にいれてほうむる例もよくあります。また身につけていた首飾りや腕輪などもときどき墓からみつかります。縄文人は死者を畏れ、うやまう気持ちがつよかったようで、遺体を丁寧にほうむりました。


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屈葬人骨モデル


縄文人は、身近な材料をつかってさまざまな道具をつくりました。土器はその代表例であり、炊事や食べもののもりつけ、貯蔵などのために、いろいろな形の土器をつくりました。

また石を材料として、木をきる斧、動物を解体するナイフ、木の実をすって粉にする石皿など、おおくの石器もつくりました。このほかに、木の鉢や皿、竹の籠、植物の繊維をつかってあんだ布や縄もつくりました。



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左から、浅鉢形土器、深鉢形土器、壺形土器
(浅鉢形土器と深鉢形土器:2500年前・宮城県東松原市里浜貝塚、壺形土器:2500年前・宮城県石巻市沼津貝塚)




縄文人にとって、まつり や いのりの儀式は重要でした。土偶はそのためにつくられたとかんがえられます。このほかにも、土面・土版・石版・石棒・石刀などはまつりに欠かせない道具でした。とくに土偶は、生命誕生の神秘とむすびつけられ、安産や子孫繁栄などをねがってつかわれたのでしょう。

自然環境にたよっていきていた当時の人々にとっては、人の生死は不思議なことであり、天災はおそろしく、それらはカミがひきおこし、人の力はおよばないとかんがえていたようです。そこで人々は、さまざまなまつりや まじないをおこないました。


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左から、遮光器土偶、遮光器土偶、腕組みする土偶
(それぞれ、2500年前・宮城県大崎市恵比須田遺跡、2500年前・宮城県石巻市泉沢遺跡、3500年前・福島市上岡遺跡)



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狩猟文土器(上)、イノシシ(左下)、四つ足の人面獣(右下)
(4000年前・青森県八戸市、3500年前・青森県弘前市、4000〜2300年前・宮城県石巻市)




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漆で文様を描いた土器
(2500年前・青森県つがる市亀ヶ岡遺跡)


ムラのなかや ちかくではしばしば貝塚が発見されます。たとえば宮城県東松島市宮戸島の里浜貝塚西畑地点の貝塚では、各層に、いろいろな貝殻や魚・動物・鳥の骨や不要になった土器・石器などがふくまれます。また春から夏のあいだの短期間につもったアサリだけの層やフグの層、冬につもったとおもわれる土層や炭の層などがくりかえされています。それぞれの層を分析した結果、厚さ2.5mのこの貝層は、30年あまりかかってつもったことがわかりました。


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里浜貝塚西畑地点の貝塚
(特殊な接着剤を貝塚にぬってはぎとったもの)


貝殻のカルシウム成分のおかげで、骨や角の道具もくさらずに貝塚にはのこっており、当時の人々の食料や生活を貝塚からしることができます。

貝塚に関しては2つの仮説がたてられます。

  • 縄文人が、貝殻や魚の骨などの食べかすや不要になったものをまとめてすてたゴミすて場だったのではないだろうか。
  • 人やイヌも一緒に埋葬されていることなどから「もの送りの場」だったのではないだろうか。





日本の重層文化 - 東北歴史博物館 -
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▼ 注
東北歴史博物館
総合展示室
※ 写真撮影が許可されています。