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関羽(かんう)像
(平行法で立体視ができます)
「リアル三国志」が体験できます。展示品(遺物)を物語のなかに位置づけて理解し記憶できます。すべての断片的情報に意味が生じます。
特別展「三国志」が東京国立博物館で開催されています(注)。曹操高陵(そうそうこうりょう)が発掘されました。実物ならではの説得力、書物をしのぐ迫力。歴史がせまってきます。

2世紀末、漢王朝がかげりをみせるなか、有力武将たちが歴史の表舞台へおどりでます。魏・蜀・呉の三国が天下をわかち、あらたな時代へむかうおおきなうねりとなります。

ステレオ写真はいずれも平行法で立体視ができます。
立体視のやり方 - ステレオグラムとステレオ写真 -



プロローグ 伝説のなかの三国志
第1展示室 曹操・劉備・孫権―英傑たちのルーツ
第2展示室 漢王朝の光と影
第3展示室 魏・蜀・呉―三国の鼎立
第4展示室 三国歴訪
第5展示室 曹操高陵と三国大墓
エピローグ 三国の終焉―天下は誰の手に

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フロアマップ



プロローグ 伝説のなかの三国志

関羽(かんう:生年不明〜219)は、蜀(しょく)の劉備(りゅうび)につかえ、「一万人の兵に匹敵する」と『三国志』に評されます。200年、魏(ぎ)の曹操(そうそう)は蜀の劉備を攻撃し、劉備とはぐれた関羽をくだしました。魏の曹操は関羽を厚遇しましたが、関羽は、劉備の所在をしると劉備のもとに帰参しました。劉備のもとにもどる関羽を曹操はとめず、「義である」とむしろ称賛しました。

宿敵・曹操にさえみとめられた関羽は、卓越したつよさ以上に、中国の人々の心をとらえてはなしません。日本でも、横浜や神戸などの中華街に「関帝廟」(かんていびょう)があり、関帝とは、神格化された三国志の英雄・関羽のことです。




第1展示室 曹操・劉備・孫権 ― 英傑たちのルーツ

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三国の勢力図


後漢の献帝(けんてい)が、魏(ぎ)の曹丕(そうひ)に帝位をゆずった220年から、西晋(せいしん)が天下を統一した280年のあいだを「三国時代」といいます。正史『三国志』では、魏の曹操の誕生(155)から叙述がはじまります。本展では、これより西晋の天下統一までを「三国志の時代」とよんでいます。

曹操は、父祖伝来の勢力基盤をうけつぎつつ漢王朝の中枢で実権をにぎり、動乱の時代に覇をとなえ、魏の基盤をつくりました。蜀の劉備は、漢皇室の血統を自認し、漢王朝の復興をかかげました。呉の孫権は、海洋ネットワークを駆使して勢力をのばすなど、独自の路線をあゆみました。

  • 魏:曹操
  • 蜀:劉備
  • 呉:孫権


曹操と魏
魏の基礎をきずいた曹操(155〜220)の先祖は、漢王朝創立の巧臣である曹参(そうしん)であるとつたえられています。後漢時代末期の戦乱の時代、曹操は、有力武将として中国北部に勢力を拡大し、魏を創立して魏王となりました。220年に66歳で没すると、子の曹丕が、漢の献帝から帝位を譲られ、魏の初代皇帝(文帝)に即位しました。魏王朝は5代つづきましたが、265年に西晋に皇位をうばわれて滅亡しました。

なお『三国志』のなかの魏に関して記述した部分を『魏志』といい、『蜀志』『呉志』とあわせて『三国志』と称されます。この『魏志』のうちの「東夷伝」中にみえる倭人に関する記事を「魏志倭人伝」と通称します。これは、3世紀前半ごろの倭(日本)に関する中国側文献としてしられ、当時の日本には、邪馬台国という国があって、女王・卑弥呼がその国をおさめ、30ばかりの国をしたがえていたことや、倭国の地理・政治・外交・社会・風俗・産物などがくわしくしるされています。


劉備と蜀
劉備(161〜223)の先祖は、前漢の武帝の異母兄弟である中山靖王劉勝(ちゅうざんせいおうりゅうしょう)とつたえられています。後漢時代末期、有力武将と劉備はなり、諸葛亮(しょかつりょう)を軍師にくわえて中国西南部に勢力を拡大しました。220年に曹丕が魏の皇帝になると、劉備は、自分こそが漢王朝の正当な後継者であると主張して皇帝に即位しました。劉備の国は漢と自称していましたが『三国志』は蜀を採用し、この名が今日までもちいられています。劉備の死後、子の劉禅が皇位をつぎましたが、263年に魏に降伏し、蜀は滅亡しました。

なお劉備の軍師・諸葛亮は、諸葛孔明あるいは孔明としてむしろしられています。諸葛とは姓であり、亮は名(な)、孔明は字(あざな)です。中国では、名と字という二種類の名前をつかいわけ、名は、親や君主のような絶対的な上位者が目下をよぶときにもちい、字は、子供が成人になるときにきめる名前であり、敬意をこめて友人がよびかけるときにつかいます。劉備は、孔明を軍師にむかえようとして、その庵(いおり)を三度おとずれました。「三顧の礼」です。


孫権と呉
孫権(182〜252)の先祖は、戦国時代の有名な軍略家である孫子(そんし)とつたえられています。孫権の父・孫堅(そんけん)は海賊退治で名をあげて勢力をひろげました。孫一族は、現在の広東省や北ベトナムとの海上交易を掌握して富をきずき、勢力を拡大しました。呉は、魏・蜀・呉の三国のなかでもっともながくつづきましたが、280年、西晋にほろぼされ、同時に、三国時代はおわりをつげました。

なお日本では「呉服」がよくしられています。


赤壁の戦い
208年頃には、曹操は華北を手中にほぼおさめ、中国中央部に兵をすすめると、劉備は南へのがれます。余勢をかって曹操は、孫権の支配する中国東南部の支配ももくろみます。

すると孫権は、荊州(けいしゅう:現在の河南省南部と湖北省・湖南省)に水軍を派遣、赤壁において、曹操の水軍を火攻めにして壊滅させ、曹操軍は撤退を余儀なくされます。「赤壁の戦い」です。戦場の場所についてはいくつかの伝承地があり、現在の赤壁市にある赤壁山一帯が有力な候補地です。





第2展示室 漢王朝の光と影

漢王朝は、前206年に成立、はじめは長安に都をおき、25年に洛陽へ遷都、巨大帝国へと成長し、前後400年にわたって平和と繁栄を天下にもたらしました。

しかし2世紀末には、王朝内部の政争が表面化し、皇帝の求心力はうしなわれていきました。

184年、原始道教の太平道(たいへいどう)は、政争や凶作にあえぐ民衆の心をとらえ、「蒼天すでに死す、黄天まさにたつべし」を合言葉にたちあがりました。「黄巾の乱」です。

後漢最後の皇帝・献帝は曹操の庇護下にはいり、220年に曹操が死去すると、その子の曹丕にせまられて皇帝の位をゆずり、漢王朝は滅亡しました。献帝は、魏の貴族として山陽(河南省焦作市)の地で余生をすごしました。


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獅子(後漢時代・2世紀)





第3展示室 魏・蜀・呉 ― 三国の鼎立

220年、後漢から曹丕が皇位をうばうと、蜀の劉備、呉の孫権はこれに反発し、おのおの正当性を主張してあいついで建国を宣言します。

魏・蜀・呉が鼎立し、それぞれの境界で熾烈な戦争がくりかえされます。当時の主要な武器は、剣・刀・槍・弓矢です。なかでも、柄に弓をとりつけ引き金をひいて矢を発射する弩(ど)は殺傷力がつよく、重要な役割をはたしました。

また城の攻防戦では、石をとばして敵の櫓を破壊する投石機もしばしばもちいられました。


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弩(三国時代・222年)





第4展示室 三国歴訪

現在の中国広東省からベトナム北部にかけての一帯は、漢時代には交州、また山越ともよばれ、中央政権にしたがわない周辺民族が群居する地域でした。この地は、南シナ海〜インド洋にひろがる交易網「海のシルクロード」とつながっていたため、真珠・象牙・犀角・ガラス・貴石などの南海や西方の産物が集積していました。

後漢時代末期、この地を支配していたのが士燮(ししょう:137〜226)です。210年、交州の富に目をつけた孫権は、配下の将を派遣、士燮は、力関係をみきわめて孫権の将を丁重にうけいれました。

しかし士燮が死亡すると、孫権は交州を直接支配し、海洋交易の利を独占しました。海のシルクロードをとおして、諸国の産物は呉にもたらされ、呉もまた青磁を世界におくりだしました。





第5展示室 曹操高陵と三国大墓

2008年から2009年にかけて、河南省安陽市で墓が発掘され、「西高穴二号墓」と命名されました。

  • 出土品は、後漢から三国時代の過渡的な様相を呈する。
  • 墓の規模と構造は諸侯王に匹敵する。
  • 墓がきずかれた場所は古記録にみる曹操高陵の所在地とおなじである。
  • 副葬品に、「魏武王」としるした石牌がある。魏武王とは曹操をさす。

このようなデータから、西高穴二号墓は曹操高陵であるという仮説がたてられました。

史書によると曹操は、220年正月になくなり、同年2月に魏の武王としてほうむられました。

曹操は遺言を布告しました。

情勢が不安定であるゆえ、しきたりに従うことはできない。よって埋葬後は喪に服す必要もない。将兵らは持ち場を離れず、官吏は職務を遂行せよ。遺体を飾ってはならぬ。金玉珍宝のごとき宝飾品も墓に入れてはならぬ。

出土品をみると、曹操の遺言は実行されたことがわかります。


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罐(かん:曹操高陵から出土した白磁)





エピローグ 三国の終焉 ― 天下は誰の手に

最後に天下をおさめたのは、魏でもなく蜀でもなく呉でもありませんでした。

魏の武将・司馬炎(しばえん)がたてた西晋王朝でした。

1985年に出土した磚(煉瓦)に、「晋が呉を平らげ、天下太平となった」としるされています。三国時代の終結をつたえる希有の考古資料です。


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「晋平呉天下大平」磚(西晋時代・280年) 






以上のように、遺物をとおして『三国志』をあらためてとらえなおしてみると、そのスケールのおおきさにおそれいります。日本史では味わえない中国史のダイナミクスをたのしむことができます。『三国志』ファンが日本にもたくさんいる理由がよくわかりました。

今回の特別展のひとつのおおきな特徴はわかりやすさにありました。これほどわかりやすい特別展はすくないです。それは、あらゆる遺物が、『三国志』という物語のなかに位置づけられて展示されていたからです。よくわかるとおもしろいと感じてきます。理解できると興味がわいていきます。

博物館の展示にかぎらず、わかりやすく表現する(アウトプットする)ことはとても重要です。その逆に、簡単なことをむずかしく説明する先生がいかにおおいことか。

博物館の展示にも、わかりやすい展示とわかりにくい展示があります。遺物をただならべただけの展示だと何だかよくわかりません。しかし物語のなかに位置づけられるとそれぞれの遺物の意味がわかります。断片的情報に意味が発生します。

意味とは単独で生じるものではなく、物語のなかに位置づけられることによってうまれます。「そういうことか!」断片的情報は物語を必要とします。

物語があれば断片的情報が直列的につながります。情報がつながるとリズムがうまれます。このように、物語のなかに断片的情報を位置づけて理解し記憶していく方法を「物語法」あるいは「線形法」といいます。

物語法はそれほどむずかしい方法ではありません。誰にでもできます。しかしそれをしっているかどうかで差がつきます。試験勉強でくるしんでいる人と勉強・学問をたのしんでいる人とのちがいがそこにあります。あるいは教育効果をあげられる先生とあげられない先生との相違がそこにあります。



▼ 注
日中文化交流協定締結40周年記念 特別展「三国志」
特設サイト
会場:東京国立博物館・平成館(上野公園)
会期:2019年7月9日(火)~9月16日(月・祝)
※ 写真撮影が許可されています。


会場:九州国立博物館
会期:2019年10月1日(火)〜2020年1月5日(日)