香りは脳がつくりだします。感覚器官と脳がセットになった感覚系(インプット+プロセシング)がはたらきます。情報処理をすすめることが肝要です。
焼肉、バラ、石鹸・・・。わたしたちは香りにかこまれて生活しています。香りの正体とは何でしょうか? 香りをあやつるにはどんな技術をつかえばよいでしょうか?



香りが鼻の中に入るとどうなる?
鼻の奥にある「嗅上皮」には、香りを感じる「嗅神経細胞」が集まっている。それぞれの神経細胞の先端には、香りのセンサーとしてはたらく約400種類のタンパク質がある。そのタンパク質が鼻から入ってきた香り成分を受け取ると、脳に信号を送る。信号は「嗅皮質」をへて、記憶をつかさどる「海馬」や情動などにかかわる「扁桃体」、においの質を判断する「前頭野」に送られる。


香り成分は数十万種類あるといわれており、いずれも、分子の重さが分子量で300以下とかるく、気体になりやすい性質(揮発性)をもっています。

また人の嗅覚は複雑であり、香りのセンサーとしてはたらくタンパク質「嗅覚受容体」は396種類あり、そのうちおおくは、ひとつの受容体で複数の香り成分をうけとることができます。

そして人の脳は、ひとつひとつの香りを、受容体の反応の仕方の「パターン」として認識しており、途方もないパターンを区別し、豊富な種類の香りをとらえています。

ある2つの香りが似ているかどうかもパターンの認識によってきめられます。似たパターンをしめす香りどうしは、成分はちがった場合でも似た香りとして感じられます。


ソムリエも一般人も、嗅覚の物理的な能力自体にはほとんど差がない。嗅神経細胞の数は数百万個、嗅覚受容体の種類は396種類と同じだ。それではいったい何がちがうのか。ソムリエのほうが「記憶している香りの数」が圧倒的に多いのだ。


視覚でとらえる光には赤・緑・青の「光の三原色」があり、味覚には、甘味・旨味・塩味・酸味・苦味の「五基本味」がありますが、香りには、「原臭」のようなものがないので、香りを区別するためには、その香りが何から香っているかや、香りからおもいだされる記憶の情報がとても重要です。

ソムリエは、「カシスの芽」や「猫の尿」の香りなど、ワインにふくまれるさまざまな香りを単体で記憶する訓練をつんでおり、記憶している香りは1000から2000種類ともいわれています。

脳のなかで記憶や感情をつかさどるのは「海馬」や「扁桃体」であり、香りの効果は記憶なしにはなりたちません。目の前のたべものがたべられるかどうかを判断したり、花の香りをかいでリラックスしたり、周囲の環境が安全かどうかを判断したり、香りと記憶は密接にかかわっています。

香りのつかいかたにはいろいろな工夫があり、たとえばさまざまな香り成分をまぜたものを香料といい、香水は香料が活躍する製品のひとつです。体につけた香水の香りは、柑橘系の刺激的な香りから、やわらかな花の香りをへて、ひかえめな残り香へというように時間とともに変化します。香りののこりやすさにちがいがあるのは、気体になったときの圧力(蒸気圧)がことなるためであり、香り成分は、蒸気圧が大気圧(1気圧)よりもたかくなると気体になることができ、空中にとびだしていきやすくなりますが、比較的短時間で香りがきえてしまいます。

他方で、いやな匂いをけす方法もあります。一つ目は、匂い成分を化学物質と反応させて、匂いの成分にかえてしまう「化学消臭」であり、たとえば部屋や衣服の消臭スプレーがこのタイプです。二つ目は、匂い成分を吸着することでにおいをけす「物理的消臭」であり、活性炭などがあります。三つ目は、いやな匂い成分に別の香り成分をくわえて、まったく別のよい香りに感じるように変化させる「感覚的消臭」であり、たとえば足の裏の匂いとバニラの香りをまぜるとチョコレートの香りのように感じさせる例があります。

  • 化学消臭
  • 物理的消臭
  • 感覚的消臭


東京工業大学の中本高道教授は、香りをデータ化して、インターネットを通じて送信し、送られてきたデータから香りをその場で再現するシステムを開発している。


香りのデータ化には「匂いセンサー」という装置をつかい、送られてきたデータを再現するときには「嗅覚ディスプレイ」という装置をつかいます。

今日の情報産業社会においては、言語・映像・音は、インターネットで送信することができますが、香り(匂い)はおくることができません。インターネットで香りをおくるためには香りをデータ化しなければなりません。

香りは脳で生じるという仕組みをふまえると、香りのデータ化とは、香りそのものをデータ化するのではなく、香りのもとになる物質(香り成分)をデータ化するということになります。

VR(バーチャルリアリティ)が急速に進歩するなかで、香りのデータ化と送信・再現は一般的にいずれなっていくでしょう。






わたしたちは香りは鼻でかぐものだとおもっていましたが、生命科学の進歩により香りは脳で生じることがあきらかになりました。

空中にただよう香り成分(ほとんどが有機化合物)が鼻にとどくと信号が発生し、それが脳におくられ、信号を脳が処理すると香りが認知されます。そのときには記憶とも照合されます。これは、嗅覚系の情報処理といえます。そしてその処理結果にもとづいて、わたしたちは筋肉などをうごかして、声を発したり、文字をかいたり、行動(運動)したりします。

香り成分が鼻にとどくのはインプット、信号を脳が処理するのはプロセシング、声を発したり、文字をかいたり、行動したりすることはアウトプットといってもよいでしょう。このように情報処理の観点から香りをとらえなおすことが重要です(図1)。

190515 嗅覚
図1 嗅覚のモデル


嗅覚とはかぎらず、そもそも感覚とは、感覚器官だけでなりたつのではなく、感覚器官と脳がセットになってはたらいて生じるのであり、そのときに、脳にたくわえられている記憶もおおきな役割をはたします。このようなことは、匂いをデータ化する実験でも証明されており、こうした感覚によって、わたしたちは環境を認識し、判断し、そして行動しているわけです。

このようなことからいうと、いやな匂いがしたからといって、何でもかんでも匂いをけせばよいということにはなりません。くさった匂いがすれば、みた目は問題がなくてもたべてはいけないという判断ができ、いやな匂いがすれば何かの問題がそこにはあるという認識ができます。匂いも情報のひとつです。

しかしわたしたち現代人は、視覚や聴覚にくらべて、あるいはほかの動物たちにくらべて、嗅覚はおとっているか十分につかっていないのではないでしょうか。

たとえばある動物園で、トラが、赤ちゃんを産みました。飼育員が、母親がねているあいだに身体検査のために赤ちゃんをとりだし、検査をして母親にかえしたところ、なんと、母親は、その子をたべてしまいました。

飼育員らが考察をしたところ、赤ちゃんを素手でもったのがわるかったのではないか、人間の匂いがついてトラの匂いがけされてしまった(人間が餌をくれたとトラはおもった)ためだとかんがえました。トラの嗅覚は想像以上に強力でした。その後、母トラの尿を人間の手につけてから身体検査をするようにしたら、そのような事故はなくなりました。

大昔は人間も嗅覚をもっとつかっていたにちがいありません。しかし文明が発達して、言語をおもにつかうようになってから嗅覚あるいは動物的な感覚がおとろえたのではないかとかんがえられます。

しかし訓練によって嗅覚をきたえたソムリエの例があります。わたしたちも、ソムリエとまではいかなくても、嗅覚をもっとつかい、香りに心をくばれば情報処理がさらにすすみます。アロマオイル(エッセンシャルオイル)をつかったり、植物園を利用したりして嗅覚をとりもどすのがよいでしょう。



▼ 関連記事
感覚器をつかって情報をインプットする 〜 岩堀修明著『図解・感覚器の進化』〜
情報処理をすすめて世界を認知する -『感覚 - 驚異のしくみ』(ニュートン別冊)まとめ -
臭覚系の情報処理の仕組みを知る -『Newton』2016年1月号 -
香りを感じとる - シンガポール植物園(7)「フレグラント園」-
神戸布引ハーブ園(まとめ)
エッセンシャルオイル(アロマオイル)で香りをとりいれる
嗅覚をつかって生活の質をたかめる -「匂わずにいられない!~奥深き嗅覚の世界~」(日本科学未来館)-

データの送受信を体験する - インターネット物理モデル(日本科学未来館)-

▼ 参考文献
『Newton』2019年6月号、ニュートンプレス、2019年

▼ 関連書籍