〜についていえばという心持ちで題目を提示します。単語と文法、記号とルールを駆使して、心のなかに生じたことをアウトプットします。
川本茂雄著『ことばとイメージ』(岩波新書)は記号学の立場から言語について解説しています。言語学者・三上章が提唱した日本文法(日本語法)(注1)を検証してみました。




日本語では、「雨が降る」とか「雪が降る」というふうに、「雨」とか「雪」とかいう物象、もしくは現象があって、それが降る、という姿であらわれてくるというようなあらわし方をしています。


「雨が降る」は英語では「It rains」といいます。英語の文法では、動詞があると、それに対する主語がなくてはならず、rain という動詞では、「雨が降る」という観念がそのなかにすでにはいっているので、主語に相当するところに「It」というものをおき、「It rains」という形にする規則(ルール)があります。英語は、どうしても主語を必要とする言語です。

このように日本語と英語では文法がことなり、「It rains」ときいて「It」を、「それは」と訳すことはできず、単語をおきかえるだけでは意味は通じません。


これは金田一春彦さんの出された例ですが、「うちの妹は男だ」というのがあります。この文は、じつは、(中略)「ぼくのところでは女の子が生まれたよ」と言ったら、「ああ、うちの妹は男だ」という答えが出てきた場合、つまり、うちの妹の生んだのは男の子だったよ、という意味の場合です。


この例では、「うちの妹は男だ」とは、うちの妹は非常に男性的で、ふつうの男なら手玉にとってしまうような妹であるという意味ではなく、うちの妹は男を生んだという意味でつかわれています。

「うちの妹は」は、うちの妹についていえばという心持ちで題目を提示しているのであって、いわゆる主語ではなく、「うちの妹=男」ということではありません。


ベートーヴェンも初版の原稿に、絵画であるというよりも、感情の表現であるという意味のことを書いています。田園を写したものではなくて、田園に着いたときのわれわれの心の状態を写し出したものであるということです。(レナード・バーンスタイン『答えのない質問』(みすず書房))


本書『ことばとイメージ』の著者・川本茂雄(1913年〜1983年)は、一般言語学を中心に、フランス語学、日本語学、外国語教育にとりくみ、最終的には、記号学と詩学へ関心を収斂させました。

言葉とは、その人の心のなかに生じたイメージや感情などを外面にあらわした記号です。普通の人は、心のなかに生じたことを言葉でしめしますが、作曲家は楽譜としてあらわします。言葉と楽譜はみかけはちがいますがどちらも記号であり、そこには、表現するという共通の本質があります。






たとえば「雨が降ります」という文によって雨が降るという現象をしめすことができます。この文は、雨が降るという現象をあらわしているだけであって、「雨が」はいわゆる主語ではありません。

また「今日は雨が降ります」といった場合は、「今日は」もいわゆる主語ではなく、今日についていえばという心持ちで題目を提示しているのであり、今日についていえば、雨が降るという現象をあらわします。

あるいは天気予報で、「今日は雨、明日は曇り、明後日は晴れるでしょう」といういいかたをよくします。この文は、今日についていえば「雨」、明日についていえば「曇り」、明後日についていえば「晴れ」ということを予報しているのであって、「今日は」「明日は」「明後日は」はいずれも題目語であって主語ではありません。

同様に、「うちの妹は男だ」とのべたとき、「うちの妹は」は題目語であって主語ではなく、うちの妹についていえばということをしめします。「は」は「=」(イコール)ではありません。

あるいはペットショップでつぎような会話がありました。

Aさん「わたしは犬がすき」
Bさん「おれは猫だ」

そこにいた外国人のために、「わたしは犬がすき」を「I like dogs」と英訳した人が、「わたしは犬すき」のほうがただしい日本語だといいましたが「わたしは犬すき」でただしい日本語です。「わたしは犬すき」といえないこともありませんが「わたしは犬すき」のほうが一般的であることはあきらかです。「わたしは犬がすき」といったとき、わたしについていえばという心持ちで「犬がすき」とのべたのであり、「わたしは」は主語ではなく題目をしめします(注2)。

また「おれは猫だ」は「I am a cat」と英訳し、日本語はまったく神秘的な言葉だとその通訳はいいましたが、そうではなく、おれについていえばという心持ちで「猫だ」とのべたのであり、「おれは」は主語ではなく、題目を提示したのです。日本語が神秘的だったのではなく、その人ご自身が軽薄だったわけです。

つぎの例もみてください。CさんがDさんにたずねました。

Cさん「出身はどちらですか?」
Dさん「福岡です」

日本語としてまったく問題ありません。この会話では出身が話題になっており、出身が題目であることはあきらかなので、「出身は福岡です」というように「出身は」とあらためて題目を提示する必要はありません。題目は省略できます。

今度は、Cさんが3人に質問しました。

Cさん「出身はどちらですか?」
Eさん「わたしは鹿児島です」
Fさん「ぼくは名古屋です」
Gさん「わたしは金沢ですが育ちは札幌です」

Eさんが、「わたしは鹿児島です」とこたえた場合、わたしについていえばという心持ちで「わたしは」と題目を提示し、「鹿児島です」とこたえました。日本語としてまったく問題ありません。Fさん、Gさんについても同様です。「わたしは鹿児島です」は「I am a Kagoshima」ということではなく、「わたしは」は主語ではなく、題目語です。このことがわからずに日本語は非論理的だといった人がいましたがあきらかな誤解であり、その人ご自身が非論理的だったわけです。

なおGさんは、接続詞「が」をはさんで「育ちは札幌です」とのべています。いま話題になっていることは出身(題目は出身)であるので、育ちについていうならばと題目を転換しています。別のことについてのべるときには「○○は」とあらたな題目を提示します。

このように、日本語と英語では文法がことなることに注意してください(注3)。

わたしたちは、心のなかに生じたことを一般的には言語で表現します。つまりアウトプットします。そのとき、どのような言語をつかうにせよ、その言語の単語と文法を理解し記憶していなければ、単語をくみあわせて文をつくることはできません。

しかしたくさんの単語をおぼえていて、文法(ルール)もわかっていれば、どんな文でもつくることができます。心のなかに生じたことを適切にアウトプットできます。

このようなアウトプットの本質は作文も作曲も、あるいは数学でもおなじであり、作曲家は、一定のルールにしたがって音符をくみあわせて楽譜をかき、数学者は、一定のルールにしたがって数字や記号をくみあわせて数式をつくります。言語も、人間がつくりだした記号とルールの体系のひとつです。

よくできたアウトプットをするために記号とルールをつかいこなすことが基本的に重要です。



▼ 注1:関連記事
三上章 『象は鼻が長い - 日本文法入門 -』をよむ
日本語法を理解する - 三上章『続・現代語法序説 - 主語廃止論 -』-

▼ 関連記事
日本語の作文法(日本語の原則)
「は」と「が」をつかいわける - 川本茂雄『ことばとこころ』-
本多勝一著『日本語の作文技術』をつかいこなす - まとめ -

▼ 注2
たとえば告白するときにも、「わたしはあなたがすき」とか「おれは花子がすきだ」とかいいます。

▼ 注3
英文法については、NHK ラジオ英会話がもっとも参考になります。
前置詞をイメージする -「英単語は日本語訳では語れない」(NHK ラジオ英会話, 2019.04)-
「ハートでつかめ! 英語の極意」(NHK ラジオ英会話, 2018)

▼ 参考文献
川本茂雄著『ことばとイメージ』(岩波新書)岩波書店、1986年2月20日