南大門からはいるとよいです。鎮護国家の官寺と真言密教の総本山としての二面性があります。春と秋に特別公開があります。
『東寺』(小学館101ビジュアル新書)は東寺のみどころをふかくしる、わかりやすいガイドブックです。
東寺が、平安京の遺風をつたえる唯一の空間であることをしって境内をあるくと、みえてくるものがちってきます。
東寺は、京都市南区九条町にある真言宗総本山、正式には教王護国寺といいます。桓武天皇による平安京遷都の2年後、796年(延暦15)に、都の南端に西寺ともに官寺として創建されました。その後823年(弘仁14)に嵯峨天皇から弘法大師空海に下賜され、空海のつたえた密教の根本道場となりました。密教は、インドの大乗仏教の最終段階にあらわれた教えであり、空海は、それを日本につたえて真言宗として体系化しました。
本尊は、仏法そのものをしめす法身仏の大日如来であり、宇宙の生命の根源とされます。依拠する経典は、『大日経』『金剛頂経』をはじめとする五部秘経です。
東寺の境内にある50余棟もの堂塔伽藍は、この寺が、鎮護国家をいのる官寺であった一方、真言密教の寺院でもあったという二面的な歴史をかたりかけてきます。
たとえば金堂は、空海が東寺を下賜されたときにはすでに完成していました。金堂に、密教の本尊ではない薬師三尊像が安置されているのはそのためです。
しかし空海は、密教の根本道場をつくために密教形式の伽藍や仏像をつぎつぎにつくりました。その際に、もっとも力をいれたのが講堂であり、その内部に、大日如来を中心とした21体の仏像を安置した「羯磨曼荼羅」(かつままんだら:立体曼荼羅)を構想しました。
また空海は、826年(天長3)に塔の建立をねがいでましたが、創建は、空海の入定から50年ちかくをへた883年(元慶7)ごろとみられています。塔は、インドでは「ストゥーパ」とよばれ、仏像と金堂(本堂)がうまれるまえから存在する信仰のシンボルであり、密教ではとくに重視されます。五重塔のたかさは約55メートル、木造の塔としてはわが国最高であり、初重の内部には須弥壇がもうけられ、中央には、礎石のうえにたつ方形の心柱がとおり、この心柱自体が大日如来をあらわし、さらには、五重塔そのものが大日如来の表象になっています。そして心柱を背にして、「阿弥陀如来」(あみだにょらい)、「宝生如来」(ほうしょうにょらい)、「阿閦如来」(あしゅくにょらい)、「不空成就如来」(ふくうじょうじゅにょらい)が四方に安置され、また諸菩薩立像がそれらをとりかこみます。
御影堂のある西院は空海がすんだ故地であり、御影堂にははじめは不動明王が安置され、ついで鎌倉前期には空海の木造がまつられるようになり、御影堂は大師堂と以後よばれています。つねに庶民にひらかれ、大師の縁日(毎月21日)には参拝する人々がおおいです。靴をぬぎ、外陣に正座できる堂舎は東寺ではここだけです。毎朝6時からの生身供(しょうじんく)は北側の前堂内でおこなわれ、だれでも拝することができます。
境内から北大門をぬけるといくつかの子院がたちならび、観智院はそのひとつで、1359年(延文4)に建立されました。五大虚空蔵菩薩像や宮本武蔵のえがいた「鷲図」がみられます。通常は非公開ですが春と秋に特別公開されます。
1965年(昭和40)に、境内北側に宝物館が開館しました。テーマをきめて春・秋に2ヵ月ずつ公開されます。国宝両界曼荼羅図をはじめ、密教にかかわる絵画・工芸品・書跡、兜跋毘沙門天立像(とばつびしゃもんてんりつぞう)、千手観音立像などがみられます。
『性霊集』は空海の詩文・碑銘・願文・書簡などをあつめたものです。
本書は、心にのこる空海の言葉や空海の生涯についても紹介しており、写真も豊富で、地図もついていて、ガイドブックとして最適です。
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特別展「国宝 東寺 - 空海と仏像曼荼羅 -」(東京国立博物館)をみる
▼ 参考文献
「古寺をゆく」編集部編『東寺』(古寺をゆく 3)小学館101ビジュアル新書、小学館、2010年
▼ 関連書籍
1章 東寺はどんなお寺か
2章 金堂と五重塔
3章 講堂の立体曼荼羅
4章 法灯のことば — 理知不二の教え
5章 宝物館の名法
6章 両界曼荼羅図
7章 名僧物語
8章 国宝の伽藍
9章 四季と行事
10章 周辺散策
お勧めしたい順路は、近鉄東寺駅を降りて南大門から入るコースである。五重塔が空を制し、堀に沿って掘割が東西に延びる。まさに大寺の風格満点。南大門を入ると正面に金堂、その中心線上講堂、食堂が建ち並ぶ。いずれも重量感あふれる建物だ。そして、東西に五重塔と灌頂院が建っている。
東寺が、平安京の遺風をつたえる唯一の空間であることをしって境内をあるくと、みえてくるものがちってきます。
東寺は、京都市南区九条町にある真言宗総本山、正式には教王護国寺といいます。桓武天皇による平安京遷都の2年後、796年(延暦15)に、都の南端に西寺ともに官寺として創建されました。その後823年(弘仁14)に嵯峨天皇から弘法大師空海に下賜され、空海のつたえた密教の根本道場となりました。密教は、インドの大乗仏教の最終段階にあらわれた教えであり、空海は、それを日本につたえて真言宗として体系化しました。
本尊は、仏法そのものをしめす法身仏の大日如来であり、宇宙の生命の根源とされます。依拠する経典は、『大日経』『金剛頂経』をはじめとする五部秘経です。
東寺の境内にある50余棟もの堂塔伽藍は、この寺が、鎮護国家をいのる官寺であった一方、真言密教の寺院でもあったという二面的な歴史をかたりかけてきます。
たとえば金堂は、空海が東寺を下賜されたときにはすでに完成していました。金堂に、密教の本尊ではない薬師三尊像が安置されているのはそのためです。
しかし空海は、密教の根本道場をつくために密教形式の伽藍や仏像をつぎつぎにつくりました。その際に、もっとも力をいれたのが講堂であり、その内部に、大日如来を中心とした21体の仏像を安置した「羯磨曼荼羅」(かつままんだら:立体曼荼羅)を構想しました。
また空海は、826年(天長3)に塔の建立をねがいでましたが、創建は、空海の入定から50年ちかくをへた883年(元慶7)ごろとみられています。塔は、インドでは「ストゥーパ」とよばれ、仏像と金堂(本堂)がうまれるまえから存在する信仰のシンボルであり、密教ではとくに重視されます。五重塔のたかさは約55メートル、木造の塔としてはわが国最高であり、初重の内部には須弥壇がもうけられ、中央には、礎石のうえにたつ方形の心柱がとおり、この心柱自体が大日如来をあらわし、さらには、五重塔そのものが大日如来の表象になっています。そして心柱を背にして、「阿弥陀如来」(あみだにょらい)、「宝生如来」(ほうしょうにょらい)、「阿閦如来」(あしゅくにょらい)、「不空成就如来」(ふくうじょうじゅにょらい)が四方に安置され、また諸菩薩立像がそれらをとりかこみます。
御影堂のある西院は空海がすんだ故地であり、御影堂にははじめは不動明王が安置され、ついで鎌倉前期には空海の木造がまつられるようになり、御影堂は大師堂と以後よばれています。つねに庶民にひらかれ、大師の縁日(毎月21日)には参拝する人々がおおいです。靴をぬぎ、外陣に正座できる堂舎は東寺ではここだけです。毎朝6時からの生身供(しょうじんく)は北側の前堂内でおこなわれ、だれでも拝することができます。
境内から北大門をぬけるといくつかの子院がたちならび、観智院はそのひとつで、1359年(延文4)に建立されました。五大虚空蔵菩薩像や宮本武蔵のえがいた「鷲図」がみられます。通常は非公開ですが春と秋に特別公開されます。
1965年(昭和40)に、境内北側に宝物館が開館しました。テーマをきめて春・秋に2ヵ月ずつ公開されます。国宝両界曼荼羅図をはじめ、密教にかかわる絵画・工芸品・書跡、兜跋毘沙門天立像(とばつびしゃもんてんりつぞう)、千手観音立像などがみられます。
若し自心を知るは即ち仏心を知るなり。
仏心を知るは即ち衆生の心を知るなり。
(『性霊集』巻9)
自分の本心を見極め、仏の慈悲を知れば、衆生の本心もわかり、仏・自分・衆生の3つの心が一つになるということです。
人間は、どうしても他人よりも優位に立ちたいと思ってしまいます。それが私利私欲の始まりです。そんな狭い世界にいて、どれほどの価値があるのでしょうか。
とかく人間は何か悪事をたくらんでいたり、過ぎ去ったことに心を奪われていると、何も見えなくなります。そんな人の目には花も咲いていないし、鳥のさえずりも届きません。砂漠を歩いているのと同じです。心が清らかであれば、まわりのものがよく見えてきます。仏さんの声も聞こえてくるでしょう。
『性霊集』は空海の詩文・碑銘・願文・書簡などをあつめたものです。
本書は、心にのこる空海の言葉や空海の生涯についても紹介しており、写真も豊富で、地図もついていて、ガイドブックとして最適です。
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▼ 参考文献
「古寺をゆく」編集部編『東寺』(古寺をゆく 3)小学館101ビジュアル新書、小学館、2010年
▼ 関連書籍