帝釈天
(交差法で立体視ができます)
(交差法で立体視ができます)
立体曼荼羅を体験できます。東洋の精神文化が投影されています。空間配置に意味があり、部分と全体の見取図が役立ちます。
特別展「国宝 東寺 - 空海と仏像曼荼羅 -」が東京国立博物館で開催されています(注1)。東寺・講堂の立体曼荼羅から史上最大規模の15体が結集、彫刻・絵画・書跡・工芸など、密教美術の最高峰が一堂に会し、360度の視角から空海ワールドを堪能できます。
ステレオ写真はいずれも交差法で立体視ができます。
立体視のやり方 - ステレオグラムとステレオ写真 -
第4展示室「曼荼羅の世界」
注目は「立体曼荼羅」です。今回は、第4展示室から見学をはじめます。ここでは、曼荼羅をみるのではありません。曼荼羅の内部にはいりこみます。多数の仏像がつくりだす共鳴空間に身を投じたような、通常はいくことができない深層の世界におりてきたような、不思議な体験ができます。
東寺の講堂内でみられる立体曼荼羅の基本構造(全体的な空間配置、見取図)は図1のようになっています。「如来」(五智如来)、「菩薩」(五菩薩)、「明王」(五大明王)、これらをとりかこむ「天」(四天王・帝釈天・梵天)、合計21体の仏像によって構成されます(東寺での配置と第4展示室での配置はことなります、注2)。
如来
如来(にょらい)とは、サンスクリット語の「タターガタ」(真如よりきたれるもの)の意訳であり、最初は、仏教の開祖である釈迦のみをさしましたが、のちに、釈迦よりも以前の仏陀(真理をさたったもの)、未来にあらわれることが約束されている仏陀、十方世界(じっぽうせかい)の仏陀などがうみだされました。如来の像は、袈裟とよばれる長方形の僧衣1枚で身をつつむ出家者の姿で一般的にはあらわされます。
立体曼荼羅では「五智如来」がみられ、これは「金剛界五仏」ともよばれ、「大日如来」(だいにちにょらい)を中心として、「阿弥陀如来」(あみだにょらい)(西方)、「宝生如来」(ほうしょうにょらい)(南方)、「阿閦如来」(あしゅくにょらい)(東方)、「不空成就如来」(ふくうじょうじゅにょらい)(北方)が配置されています(図2a)。
空海は、曼荼羅を大陸からつたえるとともに、五智如来を中央に配置する立体曼荼羅を構想し、これを、日本においてはじめて確立しました。
菩薩
菩薩(ぼさつ)とは、みずから悟りをもとめながら、すべての衆生(しゅじょう)救済のために修行をし、人々に福徳をもたらす仏をさします。
初期の仏教では、解脱をめざす出家者(修行者)をさしていましたが、のちの大乗仏教では、在家者をふくめたすべての人々の救済をめざし、利他的行為の実践者として菩薩という概念がうまれました。
立体曼荼羅では、「金剛波羅蜜多菩薩」(こんごうはらみったぼさつ)を中心として、「金剛法菩薩」(こんごうほうぼさつ)、「金剛宝菩薩」(こんごうほうぼさつ)、「金剛薩埵菩薩」 (こんごうさったぼさつ)、「金剛業菩薩」(こんごうごうぼさつ)の「五菩薩」が配置されています。
明王
明王(みょうおう)とは、普通の姿ではおしえがたい人々や如来のおしえにしたがわないものたちを、怒りの表情(忿怒相(ふんぬそう))をしめすことによっておしえみちびく存在です。人間にはみられないおそろしい姿をしめし、武器をはじめとするさまざまなな道具をもちます。
立体曼荼羅では、「不動明王」を中心として、「軍荼利明王」(ぐんだりみょうおう)、「降三世明王」(ごうざんぜみょうおう)、「金剛夜叉明王」(こんごうやしゃみょうおう)、「大威徳明王」(だいいとくみょうおう)の「五大明王」が配置されています。
密教では、ひとつの存在が如来・菩薩・明王の3通りの姿に変化するととき、五智如来・五菩薩・五大明王は、中央と東西南北の「五方」に変化の対応が考慮されて配置されています。
天
天(あるいは天部)は、仏法を守護する護法神として仏やその教えをまもり、また福徳神として福徳や財福を人々にさずけます。インドのバラモン教・ヒンドゥー教の神々が仏教にとりいれられたもので、簡単にいえば「ガードマン」ということであり、鎧をきて武器を手にしているのはそのためです。
立体曼荼羅では、五智如来・五菩薩・五大明王をとりかこむように「四天王」(「増長天」(ぞうじょうてん)、「持国天」(じこくてん)、「多聞天」(たもんてん)、「広目天」(こうもくてん))が、そして「帝釈天」(たいしゃくてん)と「梵天」(ぼんてん)が配置されています。
五智如来
立体曼荼羅の中心に位置する五智如来についてくわしくみていきましょう。
「五智」とは、「法界体性智」(ほっかいたいしょうち)、「大円鏡智」(だいえんきょうち)、「平等性智」(びょうどうしょうち)、「妙観察智」(みょうかんさっち)、「成所作智」(じょうしょさち)の五つの智恵をいい、つぎの対応関係があります。
大日如来は、最高かつ絶対の存在であり、密教世界の真理そのものを象徴的にしめします。密教の世界観をあらわす金剛界曼荼羅・胎蔵界曼荼羅の中心に位置し、五智のなかの法界体性智をそなえ、ほかの四智を統合し、釈迦をふくむすべての仏菩薩は大日如来が姿をかえてあらわれたとされます。一般の如来とはことなり、袈裟をつけた出家者の姿ではなく、宝冠をいただき、装身具で身をかざる王者の姿をしています。金剛界の大日如来は「智拳印」(ちけんいん:胸の前でこぶしに左手をにぎって人さし指だけをたてて、それを右手でにぎる)をむすび、胎蔵界の大日如来は「法界定印」(ほっかいじょういん:右手を左の足の上におき、その上に左の手をのせて両手の親指をあわせる)をむすびます。立体曼荼羅では金剛界の大日如来がみられます。
阿弥陀如来は、十方世界のひとつである西方極楽世界の教主であり、五智のなかの妙観察智をそなえ、衆生をよく観察し、その特性をみきわめておしえをとく智恵をあらわします。来世の極楽往生をもとめる熱烈な阿弥陀信仰をうみだし、西方極楽浄土からこの世へ往生者をむかえにくる像などがよくしられます。阿弥陀仏ともいいます。
宝生如来は、五智のなかの平等性智をそなえ、すべての存在を平等にみるみる智恵をしめします。日本における彫像は、五智如来のひとつとして造像されたものが大部分であり、宝生如来単独の造像や信仰はまれです。
阿閦如来は、五智のなかの大円鏡智をそなえ、すべてのものを差別をしないでありのままにうつしだしてうけいれる智恵をあらわします。印相は、左手は衣をつかみ、右手は、手の甲を外側にむけてさげ、指先で地に触れる「触地印」(そくちいん)をむすびます。これは、釈迦が悟りをもとめて修行をしているときに悪魔の誘惑をうけたがしりぞけたという伝説に由来するもので、煩悩に屈しない堅固な決意をしめします。
不空成就如来は、五智のなかの成所作智をそなえ、なすべきことをとらわれずになしとげる智恵をしめします。不空成就とはもらさず(不空)、ねがいがかなうことであり、簡単にいえば失敗しないで成功することです。
不動明王
不動明王は、五大明王の主尊であり(不動や不動尊などと略称)、インドでうまれて中国を経由して日本に渡来しました。悪を退散させるためにおそろしい顔(忿怒相)をしてあらゆる障害をうちくだき、仏法にしたがわないものも力ずくですくう役目をもちます。
インド(サンスクリット語)では「アチャラナータ」とよばれ、ヒンドゥー教の「シバ神」(破壊・再生をつかさどる神)の異名とされます。チベットでは、「チャンダマハローシャナ」とよばれます。両眼をひらいたものと左眼を半眼にしたものとがあり、右手に利剣、左手に縄をもち、岩上に座して牙をだし、火炎につつまれた怒りの姿をみれば誰もがおののきます。非常におおくの民衆に支持される人気のたかい信仰対象です。
東寺の不動明王は、全国各地の不動明王の本家ともいうべき仏像であり、たとえば神護寺の不動明王は、将門の乱を調伏するために関東にでむいて成田の新勝寺にそのまますみつき、「成田不動」と新勝寺はよばれるようになりました。これを機に不動信仰が関東でもさかんになり、巨大な不動明王像があいついでつくられるようになりました。
帝釈天
帝釈天は、もともとは古代インドの神話『リグ・ベーダ』に登場する雷神・武神であり、ヒンドゥー教の「インドラ神」が仏教にとりいれられた仏法の守護神です。「十二天」のひとつとであり、梵天と対になって配置されます。諸天中の天帝という意味で「天帝釈」「天主帝釈」「天帝」などともいい、像形は一定でありませんが、ふるくは高髻(こうけい)で、唐時代の貴顕の服飾をつけ、また外衣の下に鎧をつけるものもありましたが、平安初期以降は、天冠をいただき、金剛杵(こんごうしょ)をもって象にのる姿が密教とともに普及しました。
東寺・講堂の帝釈天は、日本でもっともイケメンな仏像としてよくしられ、とくに女性に、絶大な人気があります。今回の特別展では写真撮影が唯一許可されています。
空間配置を確認しよう
今回の特別展では、立体曼荼羅を構成する21体の仏像のなかから15体がおでましになっています。会場の第4展示室にいったら、図1の全体図(見取図)と図2の細部図を参照して、それぞれの仏像は、東寺の講堂内ではどこに配置されているのか? 空間的な配置を確認しながらみるとよいでしょう。図1の見取図は、東寺・講堂のフロアーマップのようなものです。
曼荼羅では空間配置に意味があり、それぞれの仏像のイメージと智恵が空間的に記憶できるように工夫されています。このような「空間記憶法」にとりくんでおけば、あらためて東寺にいってこれらの仏像に「再会」したときに、今回の記憶がありありとよみがえってきます。あるいは『特別展 図録』の170-171ページの見取図がとても役立ちます。ミュージアムショップで販売していますので参照してください。この図を手にいれるだけでも図録をかう価値があります。
806年(32歳)、10月、帰国報告として「御請来目録」(ごしょうらいもくろく)を朝廷に提出します。仏像・曼荼羅・阿闍梨の肖像画・道具九種・阿闍梨の付属物十三種など、多数を唐からもちかえりました。それらはすべて日本にはないものばかりであり、空海は、唐にわたるまえに日本にあるものはすべてしりつくしていたとかんがえられます。
空海は、さまざまな修法をおこないましたが、なかでも、国家の安泰と天皇の安寧をいのって正月8日から14日に宮中の真言院でおこなわれた「後七日御修法」(ごしちにちみしほ)はもっとも重要な修法であり、また かたく秘されていました。この名称は、元日から7日まで神官によっておこなわれる「前七日節会」(ぜんしちにちせつえ)のあとにおこなわれることに由来し、金剛界と胎蔵界の両部の法を隔年交互に勤修(ごんしゅ)しました。明治維新以後は、東寺の灌頂院(かんじょういん)にておこなわれるようになりましたが、いまでも、空海請来の密教法具がつかわれ、伝統が脈々とひきつがれています。
特別展会場の第1展示室には、巨大な「両界曼荼羅」(金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅)がかかげられ、「五大尊像」や「十二天像」が壁面にかけられ、「大壇」や法具とともに、「後七日御修法」の堂内の様子がおもおもしく再現されています。
第2展示室「密教美術の至宝」
第2展示室では、現存最古の色彩両界曼荼羅である「西院曼荼羅」、空海が中国からもちかえった「色彩曼荼羅(根本曼荼羅)」の第二転写本および第四転写本などの重要作例が一堂に会し、また各種の「別尊曼荼羅」、唐で書写された、「蘇悉地儀軌契印図」(そしつじぎきげいいんず)など、東寺につたわる名品の数々をみることができます。
密教美術には名品がとてもおおく、その多彩さや質のたかさがきわだっているのは、密教が、造形物あるいはイメージをそもそも重視し、美術的(空間芸術的)におのずとなっいるからです。したがって具体的には、今日の博物館・美術館で展示できるものが非常におおいといえます。たとえば如来・菩薩・明王・天などを集合的にえがいて密教の世界観をあらわした「両界曼荼羅図」、個別の如来・菩薩・明王・天を中心にたて、その眷属(けんぞく)などで構成した「別尊曼荼羅」、如来・菩薩などの姿形や手でむすぶ印の形などを図示した図像などに注目してみれば、視覚系の情報処理を密教がとくに重視しているのはあきらかです。
両界曼荼羅は、金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅から構成され、それぞれ、密教の根本経典である『金剛頂経』と『大日経』を典拠としています。空海は、恵果からさずかった縦横4メートルにもおよぶ両界曼荼羅をもちかえって儀式などにもちいていましたが、損傷がすすむとその模写を制作しました。「甲本」とよばれる両界曼荼羅はそれをさらにうつしたものであり、「元禄本」は4代目の模写です。空海がもちかえった両界曼荼羅を源流とする曼荼羅は「現図曼荼羅」(げんずまんだら)と称され、とくに重視されています。
インドで密教がさかんになっていた7世紀前半ごろに成立したのが『大日経』であり、これを典拠とする胎蔵界曼荼羅は、宮殿のなかで大日如来が説法をおこなうという設定になっており、その宮殿を真上からみおろした構図になっています。画面の中心には「中台八葉院」があり、万物の根源である大日如来と、その周囲に、東西南北の四方を代表する如来などが配置されています。中台八葉院の周囲には、蓮華部院、金剛手院、文殊院、地蔵院、虚空蔵院、除蓋障院(じょがいしょういん)、釈迦院、外金剛部院(げこんごうぶいん)、遍知院、持明院、蘇悉地院(そしつじいん)が配置され、典拠の『大日経』とはことなる要素もあり、胎蔵界曼荼羅はしだいに独自に発展していったとのだとかんがえられます。
『大日経』からややおくれ、7世紀後半に成立した『金剛頂経』の世界観をあらわしたのが金剛界曼荼羅です。これも、大日如来の宮殿をあらわしますが、「久会曼荼羅」(くえまんだら)ともよばれるように、その画面は縦横に九等分され、『金剛頂経』にとかれる28種の曼荼羅のうち「金剛会品」の曼荼羅6種、「降三世品」の曼荼羅2種に、『理趣経』の曼荼羅をくわえて「九会」(くえ)とされました。
基本となるのは中心の「成身会」であり、大日如来などの五仏を、その眷属(けんぞく)とともに5つの部族に整理し、区画の中央と四方にあらわします。これがモデルになり、ほかの区画のほとんどは同一パターンの反復となります。
なお空海以前にも日本に密教は若干はいってきており、それは「雑密」(あるいは「古密教」)とよばれ、空海がもたらした密教は「純密」とよんで区別します。またインドでは、あらたな密教経典が11世紀なかばまでうみだされつづけ、チベットやネパールに伝播していきましたが、日本には普及しませんでした。チベットでは、金剛界曼荼羅といえば成身会のみをさします。歴史的にみると、雑密は初期密教、純密は中期密教、チベット・ネパールの密教は後期密教といえるでしょう。
第3展示室「東寺の信仰と歴史」
奈良時代末、平城京において仏教勢力は肥大化し、権力をもつ僧侶によって政治が左右される状況になっていました。そのため桓武天皇(737〜806)は、794年、平安京への遷都を敢行、新都への、ふるい寺院の移転はみとめず、そのかわりに都の南方に東寺と西寺を建立し、鎮護国家のあらたな拠点をつくりました。これらのうち西寺ははやくに衰退しましたが、東寺は、嵯峨天皇より空海が管理をまかされて以来、真言密教の道場として整備され、その法灯は今日までうけつがれています。
したがって東寺には、およそ1200年におよぶ歴史があり、東寺は、平安京がひらかれたときの様子をつたえる唯一の “遺構” といってもよいでしょう。たとえば「聖僧坐像」(しょうそうざぞう)は、真言寺院となるまえの数少ない遺品とみられます。『東宝記』は、東寺の歴史をしるうえでもっとも重要な資料であり、創建以来の文書や記録類が引用されています。
東寺講堂の立体曼荼羅は空海の構想によるもので、そのうちの15体は創建当時の像です。5体の如来像と金剛波羅蜜多菩薩の6体はうしなわれたためにあらたにつくられましたが、「獅子」は台座に付属していた当初のものがのこった可能性がたかいと指摘されています。
また「兜跋毘沙門天」(とばつびしゃもんてんりつぞう)は、もともとは羅城門の楼上に安置されていたものが門が転倒したために東寺にうつされたとつたえられ、「地蔵菩薩立像」は、東寺とともに創建された西寺にまつられていたものだといいます。
現在、東寺の五重塔は、新幹線の車窓からもみえる京都のランドマークになっており、世界から人々をひきつけています。
東寺は、平安京(京都)の歴史をひもとくうえで欠かすことはできません。
以上のように、今回の特別展をみれば空海と曼荼羅について理解をふかめることができます。
空海は、子供のころより漢字(漢学)の指導をうけ、のちに大学にはいって学問にはげみ、将来の立身出世が約束されていましたが、そのコースからやがてドロップアウトしていくことになりす。
おおきな転機は、797年(空海 満23歳)、密教経典の『大日経』を大和国・久米寺で発見し、感得したときにありました。「これだ!」と、このとき空海は、本格的に密教をまなぶ決心をしたにちがいありません。著名な『三教指帰』は実際にはそのことを宣言するための書でした。大成する人は誰もが、このような決断をしています。久米寺に『大日経』があったということは、唐から日本に誰かがすでにもちかえってきていたということですが、それを理解できたのは空海が最初でした。
その後 798〜804年(24歳〜30歳)は謎の期間となりますが、おそらく、『大日経』や唐語など、唐への留学をめざして、日本でまなべることはすべてまなびつくしていたのではないでしょうか。実際、留学後に唐からもちかえったものをみると日本にはなかったものばかりであり、空海が、唐にわたるまえに日本にあるものはすべてしりつくしていたことがわかります。
そして805年(31歳)、恵果和尚との運命的な出会いがおとずれます。歴史的にみると、仏教は釈迦が創始し、そのご大乗仏教が発展し、そして仏教発展の最終段階が密教ということになり、この仏教のながれの最先端にいたのが恵果であり、その最期に遭遇したのが空海でした。したがって空海は、ぎりぎりのところで恵果から密教を伝授されたのであり、それは歴史の奇跡であったといってもよいでしょう。一方で、日本史上最大の天才 空海にしても師にめぐまれていたこと、“自己流” ではなかったということにも注意しなければなりません。どの分野でも「師匠と人材」が重要です。
帰国後 空海は、嵯峨天皇から、816年に高野山をたまわり、823年に東寺を下賜されます。また834年、空海の上奏により、平安京の大内裏に修法道場として真言院がもうけられ、後七日御修法が翌年からおこなわれるようになります。こうして空海は、高野山・東寺・真言院という3つの本拠地をもち、唐でまなんできた密教を、独自のビジョンにしたがってさらに発展させ、「真言宗」としてあらたに体系化、その千年にわたる発展の礎をきずいたのでした。もし、都からはなれた山奥の高野山だけが本山であったならば、僧侶の修行はできても人々は救済できません。また国家の安泰があってこそ人々が幸福になれます。空海は、高野山・東寺・真言院のバランスをとても重視したのであり、バランスをたもちながらさまざまな実践をしました。空海は、人並みでないたくさんの多様なことをおこないましたが、そこには、バランスと体系化があったことをみのがしてはなりません。
そして東寺の建造においてもっとも力をいれたのが講堂と立体曼荼羅です。空海が東寺を下賜されたときには金堂がすでにあり、薬師如来が安置されていました。そこで密教の表現の場として講堂をいわば第二の金堂として整備し、その内部で曼荼羅を立体的に表現しました。これはインドや中国にもない空海の独創でした。
このように空海は、わかいときに『大日経』をみいだして留学を決断、その準備をし、長安では奇跡的に恵果と出会い、帰国後はおしえを実践して真言宗を確立しました。日本での準備、唐での出会い、帰国後の実践というそれぞれのチャンスをすべていかしきったといえるでしょう。
さて空海の立体曼荼羅は、大局的にみれば、宇宙の真理をあらわす如来、悟りをもとめながら人々を救済する菩薩、悪をうちくだいて力づくでも人々をすくう明王、そしてそれらのすべてをまもる天という、如来・菩薩・明王・天の4つのグループ(世界)からなりたっています。
これらをこまかくみると、五智如来、五菩薩、五大明王、四天王と帝釈天・梵天というのべ21体の仏像から構成され、五智如来の中心すなわち曼荼羅の中心には宇宙の根本を象徴する大日如来が安置され、ほかの仏たちはその周囲に空間配置され、それらは、智恵と役割はそれぞれことなりますがすべてが大日如来が変化してあらわれたものです。
このようなことを理解するためには言葉をよむよりも、見取図(空間配置図)をみて視覚的にとらえたほうがはやいです。見取図とは、世界をうえからみおろした図といってもよいでしょう。
それぞれの仏像には、特定の智恵とともに特定の位置があって役割分担(職責)がはっきりしており、いわば「ポジション」があたえられています。たとえば野球では、ピッチャーを中心に、キャッチャー、ファースト、セカンド、サード、ライト・・・というようにポジションがあり、ピッチャーにはピッチャーの役割が、キャッチャーにはキャッチャーの役割が、サードにはサードの役割があり、場所と役割分担が明確ですが、しかし一方で、全体としてはひとつの組織になっています。立体曼荼羅をみるときにも、仏像をみると同時に配置をみること、要素をみるとともに全体をみることが大事です。智恵を追究するヒントは個々の仏像だけでなく、それらの空間配置のなかにも暗示されています。
たとえば情報を整理するためにポストイットをつかう人がいるとおもいます。ポストイットに情報を記入したら、何枚ものポストイットをホワイトボードなどに空間配置するかもしれません。そのときに、もっとも すわりのよい配置がみつかれば全体的な認識ができ、あらたなアイデアもうまれやすくなります。これは、視覚空間をつかって、断片的にだけではなく体系的にも情報をとらえなおし、理解をふかめまた記憶をしていく方法です。人間(あるいはほかの動物も)、場所(位置)で認識し記憶するように基本的にはできています。空間配置は認識の方法としてとても有用です。
このように空海は、空間的な配置によって物事の意味がきまることをおしえており、経典などにしめされている膨大な情報をそれぞれの仏像に圧縮表現し、立体曼荼羅に統合してしめしました。抽象的な概念であっても仏像という具象物にむすびつけ、視覚的・体系的にとらえればわかりやすくなり、それをみることによって心の改善もしやすくなります。
曼荼羅では、中央に、宇宙の根本(万物の根源)が位置し、周辺には、それが変化してあらわれたものが配置されます。この思想は、今日的にみても重要です。
歴史的にみると仏教は、初期は釈迦の教えでしたが、そのご釈迦信仰がうまれ、そして密教になると、歴史的な釈迦をこえて、宇宙全体を統御する、超越的な存在・大日如来が創造されました。大日如来は宇宙の根本をあらわす象徴であり、現代の用語でいえば宇宙の法則を象徴しているといってもよいでしょう。宇宙の根本には法則があり、わたしたち人間が観察できるあらゆる物質は、その法則がもたらしたみかけの現象であり、あるのは法則のみで物質や現象には「実体」がなく、物質や現象はたえず変化し、うまれてはきえていく幻像にすぎません。
空海は、このような原理にもとづいて曼荼羅で世界を表現しました。空海がえらんだ高野山も、実は、曼荼羅になっており、平坦な土地のまわりの八方向に峰がならび、胎蔵界曼荼羅の図像に対応していたので、山上の「曼荼羅世界」としてこの地を修行道場としたのでした。高野山も「立体曼荼羅」です。
このような立体曼荼羅は空海の曼荼羅の到達点であり、そこには、東洋の精神文化が投影されています。空海がまなんだ当時の長安は、ペルシャ・ソグド・インド・スリランカ・ジャワ・東南アジア・東アジアなどから多様な人々があつまった国際都市で、文化の一大集積地でした。世界の情報が集積し、多様な表現がうまれるだけでなく、おのずと、多様な情報を融合し圧縮して表現することがはやりました。長安は世界の縮図であったのであり、縮図としての性質をもつ曼荼羅が発展する素地がありました。
また空海は、インドの梵語(サンスクリット語)もやすむ間もおしんでまなび、インドその地から伝来した仏像なども日本にもちかえったことを「御請来目録」のなかにしるしています。あるいは中国よりもちかえったのは「真言五祖」でしたが、インド僧の龍猛と龍智をくわえて「真言七祖」としました。さらにインドの「ストゥーパ」(インド式仏塔)にならって「根本大塔」の建立に着手もしました。
これらのことから空海は、インドも重視し、インドでうまれた純粋な密教を日本につたえようとしていたことがわかります。したがって空海の立体曼荼羅には、数千年にわたる東洋の精神文化が投影されているのであり、インドから中国そして日本へとつらなる東洋史の壮大なながれがあり、インドから日本にいたる東洋の一大文明圏を空海をとおしてみわたすことができます。このような東洋のダイナミズムは日本史だけをみていたのでは決してわかりません。世界には、地理的・空間的な構造があり、物事は、歴史的・時間的にうごいていきます。わたしたちが、このような空間的・時間的な認識をもったときに東洋文明があらためてとらえなおされるのであり、欧米中心ではない公平な本当の世界史が創造されます。
東京国立博物館の今回の特別展では、史上最大規模の15体もの仏像が東寺からおでましになっています。今回の最大の特典は、曼荼羅の内部をあるけるところにあります。ここでは曼荼羅を「体験」します。東寺の講堂にいけば立体曼荼羅をみることはできますが、その内部にのこのこはいっていくことはできません。
おおくの仏像が360度の視角からちかづいてみられるだけでなく、仏像群がうみだす共鳴空間をじっくり味わうことができます。まるで、交響曲がつくりだす音響空間のなかにつつみこまれるようです。ここは、人気歌手の「ソロ」をきくところではありません。さまざまな情報が重層的に交じりあり響きあう「交響空間」です。
またとない機会になっています。是非、会場に足をはこんでみてください。
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対数らせんがうみだすフラクタル(Newton 2018.8号)
宇宙の階層構造をイメージする - 国立科学博物館(2)「宇宙を探る」-
▼ 東京国立博物館
東京国立博物館 − 歴史をフィールドワークする − (記事リンク集)
▼ 注1
特別展「国宝 東寺 - 空海と仏像曼荼羅 -」
東京国立博物館のサイト
特設サイト
会期:2019年3月26日 ~6月2日
会場:東京国立博物館・平成館
※ 帝釈天のみ写真撮影が許可されています。
▼ 注2:特別展会場・第4展示室での仏像の配置はつぎのとおりです。
▼ 参考文献
東京国立博物館・真言宗総本山教王護国寺(東寺)・読売新聞社・NHK・NHKプロモーション編集『国宝 東寺 - 空海と仏像曼荼羅 -』(図録)、読売新聞社・NHK・NHKプロモーション発行、2019年3月26日
ステレオ写真はいずれも交差法で立体視ができます。
立体視のやり方 - ステレオグラムとステレオ写真 -
第1展示室 空海と後七日御修法(ごしちにちみしほ)
第2展示室 密教美術の至宝
第3展示室 東寺の信仰と歴史
第4展示室 曼荼羅の世界
会場フロアーマップ
第4展示室「曼荼羅の世界」
注目は「立体曼荼羅」です。今回は、第4展示室から見学をはじめます。ここでは、曼荼羅をみるのではありません。曼荼羅の内部にはいりこみます。多数の仏像がつくりだす共鳴空間に身を投じたような、通常はいくことができない深層の世界におりてきたような、不思議な体験ができます。
東寺の講堂内でみられる立体曼荼羅の基本構造(全体的な空間配置、見取図)は図1のようになっています。「如来」(五智如来)、「菩薩」(五菩薩)、「明王」(五大明王)、これらをとりかこむ「天」(四天王・帝釈天・梵天)、合計21体の仏像によって構成されます(東寺での配置と第4展示室での配置はことなります、注2)。
図1 立体曼荼羅の基本構造
如来
如来(にょらい)とは、サンスクリット語の「タターガタ」(真如よりきたれるもの)の意訳であり、最初は、仏教の開祖である釈迦のみをさしましたが、のちに、釈迦よりも以前の仏陀(真理をさたったもの)、未来にあらわれることが約束されている仏陀、十方世界(じっぽうせかい)の仏陀などがうみだされました。如来の像は、袈裟とよばれる長方形の僧衣1枚で身をつつむ出家者の姿で一般的にはあらわされます。
立体曼荼羅では「五智如来」がみられ、これは「金剛界五仏」ともよばれ、「大日如来」(だいにちにょらい)を中心として、「阿弥陀如来」(あみだにょらい)(西方)、「宝生如来」(ほうしょうにょらい)(南方)、「阿閦如来」(あしゅくにょらい)(東方)、「不空成就如来」(ふくうじょうじゅにょらい)(北方)が配置されています(図2a)。
空海は、曼荼羅を大陸からつたえるとともに、五智如来を中央に配置する立体曼荼羅を構想し、これを、日本においてはじめて確立しました。
図2a 五智如来の空間配置
菩薩
菩薩(ぼさつ)とは、みずから悟りをもとめながら、すべての衆生(しゅじょう)救済のために修行をし、人々に福徳をもたらす仏をさします。
初期の仏教では、解脱をめざす出家者(修行者)をさしていましたが、のちの大乗仏教では、在家者をふくめたすべての人々の救済をめざし、利他的行為の実践者として菩薩という概念がうまれました。
立体曼荼羅では、「金剛波羅蜜多菩薩」(こんごうはらみったぼさつ)を中心として、「金剛法菩薩」(こんごうほうぼさつ)、「金剛宝菩薩」(こんごうほうぼさつ)、「金剛薩埵菩薩」 (こんごうさったぼさつ)、「金剛業菩薩」(こんごうごうぼさつ)の「五菩薩」が配置されています。
図2b 五菩薩の空間配置
明王
明王(みょうおう)とは、普通の姿ではおしえがたい人々や如来のおしえにしたがわないものたちを、怒りの表情(忿怒相(ふんぬそう))をしめすことによっておしえみちびく存在です。人間にはみられないおそろしい姿をしめし、武器をはじめとするさまざまなな道具をもちます。
立体曼荼羅では、「不動明王」を中心として、「軍荼利明王」(ぐんだりみょうおう)、「降三世明王」(ごうざんぜみょうおう)、「金剛夜叉明王」(こんごうやしゃみょうおう)、「大威徳明王」(だいいとくみょうおう)の「五大明王」が配置されています。
密教では、ひとつの存在が如来・菩薩・明王の3通りの姿に変化するととき、五智如来・五菩薩・五大明王は、中央と東西南北の「五方」に変化の対応が考慮されて配置されています。
図2c 五大明王の空間配置
天
天(あるいは天部)は、仏法を守護する護法神として仏やその教えをまもり、また福徳神として福徳や財福を人々にさずけます。インドのバラモン教・ヒンドゥー教の神々が仏教にとりいれられたもので、簡単にいえば「ガードマン」ということであり、鎧をきて武器を手にしているのはそのためです。
立体曼荼羅では、五智如来・五菩薩・五大明王をとりかこむように「四天王」(「増長天」(ぞうじょうてん)、「持国天」(じこくてん)、「多聞天」(たもんてん)、「広目天」(こうもくてん))が、そして「帝釈天」(たいしゃくてん)と「梵天」(ぼんてん)が配置されています。
図2d 天の空間配置
五智如来
立体曼荼羅の中心に位置する五智如来についてくわしくみていきましょう。
「五智」とは、「法界体性智」(ほっかいたいしょうち)、「大円鏡智」(だいえんきょうち)、「平等性智」(びょうどうしょうち)、「妙観察智」(みょうかんさっち)、「成所作智」(じょうしょさち)の五つの智恵をいい、つぎの対応関係があります。
- 大日如来(中心):法界体性智(永遠普遍の絶対智)
- 阿弥陀如来(西方):妙観察智(あらゆるあり方を沈思熟慮する智)
- 宝生如来(南方):平等性智(自他の平等を体現する智)
- 阿閦如来(東方):大円鏡智(鏡のようにあらゆる姿をてらしだす智)
- 不空成就如来(北方):成所作智(なすべきことをなしとげる智)
大日如来は、最高かつ絶対の存在であり、密教世界の真理そのものを象徴的にしめします。密教の世界観をあらわす金剛界曼荼羅・胎蔵界曼荼羅の中心に位置し、五智のなかの法界体性智をそなえ、ほかの四智を統合し、釈迦をふくむすべての仏菩薩は大日如来が姿をかえてあらわれたとされます。一般の如来とはことなり、袈裟をつけた出家者の姿ではなく、宝冠をいただき、装身具で身をかざる王者の姿をしています。金剛界の大日如来は「智拳印」(ちけんいん:胸の前でこぶしに左手をにぎって人さし指だけをたてて、それを右手でにぎる)をむすび、胎蔵界の大日如来は「法界定印」(ほっかいじょういん:右手を左の足の上におき、その上に左の手をのせて両手の親指をあわせる)をむすびます。立体曼荼羅では金剛界の大日如来がみられます。
阿弥陀如来は、十方世界のひとつである西方極楽世界の教主であり、五智のなかの妙観察智をそなえ、衆生をよく観察し、その特性をみきわめておしえをとく智恵をあらわします。来世の極楽往生をもとめる熱烈な阿弥陀信仰をうみだし、西方極楽浄土からこの世へ往生者をむかえにくる像などがよくしられます。阿弥陀仏ともいいます。
宝生如来は、五智のなかの平等性智をそなえ、すべての存在を平等にみるみる智恵をしめします。日本における彫像は、五智如来のひとつとして造像されたものが大部分であり、宝生如来単独の造像や信仰はまれです。
阿閦如来は、五智のなかの大円鏡智をそなえ、すべてのものを差別をしないでありのままにうつしだしてうけいれる智恵をあらわします。印相は、左手は衣をつかみ、右手は、手の甲を外側にむけてさげ、指先で地に触れる「触地印」(そくちいん)をむすびます。これは、釈迦が悟りをもとめて修行をしているときに悪魔の誘惑をうけたがしりぞけたという伝説に由来するもので、煩悩に屈しない堅固な決意をしめします。
不空成就如来は、五智のなかの成所作智をそなえ、なすべきことをとらわれずになしとげる智恵をしめします。不空成就とはもらさず(不空)、ねがいがかなうことであり、簡単にいえば失敗しないで成功することです。
不動明王
不動明王は、五大明王の主尊であり(不動や不動尊などと略称)、インドでうまれて中国を経由して日本に渡来しました。悪を退散させるためにおそろしい顔(忿怒相)をしてあらゆる障害をうちくだき、仏法にしたがわないものも力ずくですくう役目をもちます。
インド(サンスクリット語)では「アチャラナータ」とよばれ、ヒンドゥー教の「シバ神」(破壊・再生をつかさどる神)の異名とされます。チベットでは、「チャンダマハローシャナ」とよばれます。両眼をひらいたものと左眼を半眼にしたものとがあり、右手に利剣、左手に縄をもち、岩上に座して牙をだし、火炎につつまれた怒りの姿をみれば誰もがおののきます。非常におおくの民衆に支持される人気のたかい信仰対象です。
東寺の不動明王は、全国各地の不動明王の本家ともいうべき仏像であり、たとえば神護寺の不動明王は、将門の乱を調伏するために関東にでむいて成田の新勝寺にそのまますみつき、「成田不動」と新勝寺はよばれるようになりました。これを機に不動信仰が関東でもさかんになり、巨大な不動明王像があいついでつくられるようになりました。
帝釈天
帝釈天は、もともとは古代インドの神話『リグ・ベーダ』に登場する雷神・武神であり、ヒンドゥー教の「インドラ神」が仏教にとりいれられた仏法の守護神です。「十二天」のひとつとであり、梵天と対になって配置されます。諸天中の天帝という意味で「天帝釈」「天主帝釈」「天帝」などともいい、像形は一定でありませんが、ふるくは高髻(こうけい)で、唐時代の貴顕の服飾をつけ、また外衣の下に鎧をつけるものもありましたが、平安初期以降は、天冠をいただき、金剛杵(こんごうしょ)をもって象にのる姿が密教とともに普及しました。
東寺・講堂の帝釈天は、日本でもっともイケメンな仏像としてよくしられ、とくに女性に、絶大な人気があります。今回の特別展では写真撮影が唯一許可されています。
帝釈天
帝釈天
空間配置を確認しよう
今回の特別展では、立体曼荼羅を構成する21体の仏像のなかから15体がおでましになっています。会場の第4展示室にいったら、図1の全体図(見取図)と図2の細部図を参照して、それぞれの仏像は、東寺の講堂内ではどこに配置されているのか? 空間的な配置を確認しながらみるとよいでしょう。図1の見取図は、東寺・講堂のフロアーマップのようなものです。
曼荼羅では空間配置に意味があり、それぞれの仏像のイメージと智恵が空間的に記憶できるように工夫されています。このような「空間記憶法」にとりくんでおけば、あらためて東寺にいってこれらの仏像に「再会」したときに、今回の記憶がありありとよみがえってきます。あるいは『特別展 図録』の170-171ページの見取図がとても役立ちます。ミュージアムショップで販売していますので参照してください。この図を手にいれるだけでも図録をかう価値があります。
第1展示室「空海と後七日御修法(ごしちにちみしほ)」
十五歳(注)のときに伯父の阿刀大足について学問を学び、延暦十年に都の大学に入った。大学では勉学に励んだが、一人の修行僧から虚空蔵求聞持法を教えられた。それは、経典にしたがって修行すればあらゆる経典を記憶し、その意味を理解できるというものである。(空海『三教指帰』)
(注)数え年
空海は、774年、讃岐国多度群屏風ヶ浦(現香川県善通寺市)にうまれました。幼名は真魚(まお)、うまれた場所には善通寺が今はたっています。空海は、幼少から漢字の指導をうけていましたが、788年(空海 満14歳、以下同様)、長岡京へいき、おじの阿刀大足(あとのおおたり)について学問にはげみました。阿刀大足は、桓武天皇の第三王子の教育係(侍講)でした。791年(17歳)、大学の明経科(みょうぎょうか)に入学して中国の古典をまなびます。またひとりの沙門(しゃもん)から「虚空蔵求聞持法」(こくうぞうぐもんじほう)をさずかります。これは、「真言」を100万遍くりかえしとなえ、また広大な空間をつかうことによって理解と記憶を強力にすすめる方法です。797年(23歳)、大和国の久米寺の東塔で密教経典の『大日経』を発見、感得し、おおきな転機をむかえます。そして『聾瞽指帰』(ろうこしいき)(のちに『三教指帰』(さんごうしいき)とあらためる)を完成させ、道教は不老不死、儒教は人倫の道、仏教は一切衆生を救済する道として、仏教のすぐれたところをしめしました。出家に反対する親族に対する出家宣言の書でした。
798〜804年(24歳〜30歳)、消息不明、謎の期間となります。
真言の教えは経典やその注釈書には詳しく書かれておらず、図画をかりなければ伝えることができない。(恵果)
804年(30歳)4月、東大寺戒壇院で具足戒をうけ、正式な僧侶となります。そして5月、遣唐使船にのりこみ、難波(大阪)を出発、7月、肥前田浦(ひぜんたのうら、現長崎県平戸市)を出帆、暴風雨に途中みまわれ、8月、福州赤岸鎮に漂着します。この地にしばらくとめおかれましたが、11月、福州から唐の都・長安にむかい、12月下旬、長安にはいります。805年(31歳)、西明寺に滞在、5月、恵果和尚を青竜寺にたずねます。和尚は、「我れ先より汝が来たることを知りて相待つこと久し・・・」と、ながいあいだ空海がくるのをまっていたといいます。そして6月、胎蔵界の灌頂を、7月、金剛界の灌頂を、8月、伝法阿闍梨(でんぽうあじゃり)の灌頂を恵果よりさずけられ、空海は恵果の後継者となります。12月、恵果は入滅、806年(32歳)1月、恩師追悼の碑文を門下を代表して空海がかきました。密教とよばれる仏教の最後のながれが中国の恵果にながれこみ、それをうけつげる最期の年に空海がそこにたどりついたことになり、恵果と空海の出会いは千載一遇であったといえるでしょう。そして空海は、留学生は本来は20年間唐に滞在しなければなりませんが、法をうけついだので一刻もはやく帰国する決心をし、8月、唐の明州より帰国の途につき、大宰府に帰着します。
病人に薬の効能や分類を説くのがこれまでの仏教で、薬を処方して病気を治すのが密教であり、経典の意味を説くばかりであるのがこれまでの仏教で、経典に従って修法を行い効験を得るのが密教である。(空海『遍照発揮性霊集』)
806年(32歳)、10月、帰国報告として「御請来目録」(ごしょうらいもくろく)を朝廷に提出します。仏像・曼荼羅・阿闍梨の肖像画・道具九種・阿闍梨の付属物十三種など、多数を唐からもちかえりました。それらはすべて日本にはないものばかりであり、空海は、唐にわたるまえに日本にあるものはすべてしりつくしていたとかんがえられます。
809年(35歳)、7月、入京をゆるされ、高雄山寺(現神護寺)へはいります。10月、嵯峨天皇の勅命により屏風を献上、嵯峨天皇との交流がはじまります。11月、国家鎮護修法をおこない、世人の注目をあつめるようになります。812年(38歳)、11月、金剛界灌頂を、12月、胎蔵界灌頂を最澄(日本天台宗の開祖)らにさずけます。しかし空海と最澄はそのご決別にいたります。815年(41歳)、東国伝道のために、筑波・下野・甲斐・常陸に弟子をつかわします。816年(42歳)、嵯峨天皇より勅許がおり、密教修行道場として高野山をたまわります。空海は、山林修行をおこなっていたときに高野山にいったことがあり、修行道場にふさわしい地であると以前よりかんがえていました。818年(44歳)、勅許後はじめて高野山にのぼり、819年(45歳)、伽藍の建立を開始します。一方で、821年(47歳)、四国讃岐の満濃池(現香川県)を修築する大工事をおこないます。
823年(49歳)、嵯峨天皇から東寺を下賜されます。東寺は西寺とともに国家鎮護のための官立寺院であり、空海の密教は国家公認のものとなりました。827年(53歳)、大僧都(だいそうず)に任ぜられます。神泉苑で雨乞いの法を修します。828年(54歳)、日本最初の庶民のための学校である「綜芸種智院」を創設します。835年1月、国家安寧のための祈祷会「後七日御修法」(ごしちにちみしほ)を内裏の宮中真言院でおこないます。
そして 835年(61歳)、3月21日、空海は、高野山にて入定しました。高弟の実慧らは、空海の入定をしるす書簡を渡唐する円行に託して長安の青竜寺におくりました。空海の帰国後の活動を列挙、師である恵果の期待にそむかなかったことをのべ、高野山金剛峰寺の建立や空海の死のことが書かれています。実慧は、「薪尽き、火滅す。行年六十二。嗚呼悲しい哉」と空海の死を表現しています。青竜寺では、素服をつけてこれを弔したといわれています。
そして 835年(61歳)、3月21日、空海は、高野山にて入定しました。高弟の実慧らは、空海の入定をしるす書簡を渡唐する円行に託して長安の青竜寺におくりました。空海の帰国後の活動を列挙、師である恵果の期待にそむかなかったことをのべ、高野山金剛峰寺の建立や空海の死のことが書かれています。実慧は、「薪尽き、火滅す。行年六十二。嗚呼悲しい哉」と空海の死を表現しています。青竜寺では、素服をつけてこれを弔したといわれています。
その後 921年、醍醐天皇より、「弘法大師」の諡号(しごう:おくり名)をたまわりました。弘法大師は、高野山の奥の院に現在はまつられ、一切衆生を今もなお救済しつづけています。
空海は、さまざまな修法をおこないましたが、なかでも、国家の安泰と天皇の安寧をいのって正月8日から14日に宮中の真言院でおこなわれた「後七日御修法」(ごしちにちみしほ)はもっとも重要な修法であり、また かたく秘されていました。この名称は、元日から7日まで神官によっておこなわれる「前七日節会」(ぜんしちにちせつえ)のあとにおこなわれることに由来し、金剛界と胎蔵界の両部の法を隔年交互に勤修(ごんしゅ)しました。明治維新以後は、東寺の灌頂院(かんじょういん)にておこなわれるようになりましたが、いまでも、空海請来の密教法具がつかわれ、伝統が脈々とひきつがれています。
特別展会場の第1展示室には、巨大な「両界曼荼羅」(金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅)がかかげられ、「五大尊像」や「十二天像」が壁面にかけられ、「大壇」や法具とともに、「後七日御修法」の堂内の様子がおもおもしく再現されています。
第2展示室「密教美術の至宝」
第2展示室では、現存最古の色彩両界曼荼羅である「西院曼荼羅」、空海が中国からもちかえった「色彩曼荼羅(根本曼荼羅)」の第二転写本および第四転写本などの重要作例が一堂に会し、また各種の「別尊曼荼羅」、唐で書写された、「蘇悉地儀軌契印図」(そしつじぎきげいいんず)など、東寺につたわる名品の数々をみることができます。
密教は奥深く、文章で表わすことは困難である。かわりに図画をかりて悟らないもの者に開き示す。種々の仏の姿や印契は、仏の慈悲から出たもので、一目見ただけで成仏できるが、経典や注釈書では密かに略されていて、それが図像では示されている。密教の要はここにあり、伝法も受法もこれを捨ててはありえない。(空海「御請来目録」)
密教美術には名品がとてもおおく、その多彩さや質のたかさがきわだっているのは、密教が、造形物あるいはイメージをそもそも重視し、美術的(空間芸術的)におのずとなっいるからです。したがって具体的には、今日の博物館・美術館で展示できるものが非常におおいといえます。たとえば如来・菩薩・明王・天などを集合的にえがいて密教の世界観をあらわした「両界曼荼羅図」、個別の如来・菩薩・明王・天を中心にたて、その眷属(けんぞく)などで構成した「別尊曼荼羅」、如来・菩薩などの姿形や手でむすぶ印の形などを図示した図像などに注目してみれば、視覚系の情報処理を密教がとくに重視しているのはあきらかです。
両界曼荼羅は、金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅から構成され、それぞれ、密教の根本経典である『金剛頂経』と『大日経』を典拠としています。空海は、恵果からさずかった縦横4メートルにもおよぶ両界曼荼羅をもちかえって儀式などにもちいていましたが、損傷がすすむとその模写を制作しました。「甲本」とよばれる両界曼荼羅はそれをさらにうつしたものであり、「元禄本」は4代目の模写です。空海がもちかえった両界曼荼羅を源流とする曼荼羅は「現図曼荼羅」(げんずまんだら)と称され、とくに重視されています。
インドで密教がさかんになっていた7世紀前半ごろに成立したのが『大日経』であり、これを典拠とする胎蔵界曼荼羅は、宮殿のなかで大日如来が説法をおこなうという設定になっており、その宮殿を真上からみおろした構図になっています。画面の中心には「中台八葉院」があり、万物の根源である大日如来と、その周囲に、東西南北の四方を代表する如来などが配置されています。中台八葉院の周囲には、蓮華部院、金剛手院、文殊院、地蔵院、虚空蔵院、除蓋障院(じょがいしょういん)、釈迦院、外金剛部院(げこんごうぶいん)、遍知院、持明院、蘇悉地院(そしつじいん)が配置され、典拠の『大日経』とはことなる要素もあり、胎蔵界曼荼羅はしだいに独自に発展していったとのだとかんがえられます。
『大日経』からややおくれ、7世紀後半に成立した『金剛頂経』の世界観をあらわしたのが金剛界曼荼羅です。これも、大日如来の宮殿をあらわしますが、「久会曼荼羅」(くえまんだら)ともよばれるように、その画面は縦横に九等分され、『金剛頂経』にとかれる28種の曼荼羅のうち「金剛会品」の曼荼羅6種、「降三世品」の曼荼羅2種に、『理趣経』の曼荼羅をくわえて「九会」(くえ)とされました。
- 成身会(じょうじんえ)
- 三昧耶会(さんまやえ)
- 微細会(みさいえ)
- 供養会
- 四印会
- 一印会
- 理趣会
- 降三世会(ごうざんぜえ)
- 降三世三昧耶会
基本となるのは中心の「成身会」であり、大日如来などの五仏を、その眷属(けんぞく)とともに5つの部族に整理し、区画の中央と四方にあらわします。これがモデルになり、ほかの区画のほとんどは同一パターンの反復となります。
なお空海以前にも日本に密教は若干はいってきており、それは「雑密」(あるいは「古密教」)とよばれ、空海がもたらした密教は「純密」とよんで区別します。またインドでは、あらたな密教経典が11世紀なかばまでうみだされつづけ、チベットやネパールに伝播していきましたが、日本には普及しませんでした。チベットでは、金剛界曼荼羅といえば成身会のみをさします。歴史的にみると、雑密は初期密教、純密は中期密教、チベット・ネパールの密教は後期密教といえるでしょう。
- 雑密:初期密教
- 純密:中期密教
- チベット・ネパールの密教:後期密教
第3展示室「東寺の信仰と歴史」
奈良時代末、平城京において仏教勢力は肥大化し、権力をもつ僧侶によって政治が左右される状況になっていました。そのため桓武天皇(737〜806)は、794年、平安京への遷都を敢行、新都への、ふるい寺院の移転はみとめず、そのかわりに都の南方に東寺と西寺を建立し、鎮護国家のあらたな拠点をつくりました。これらのうち西寺ははやくに衰退しましたが、東寺は、嵯峨天皇より空海が管理をまかされて以来、真言密教の道場として整備され、その法灯は今日までうけつがれています。
したがって東寺には、およそ1200年におよぶ歴史があり、東寺は、平安京がひらかれたときの様子をつたえる唯一の “遺構” といってもよいでしょう。たとえば「聖僧坐像」(しょうそうざぞう)は、真言寺院となるまえの数少ない遺品とみられます。『東宝記』は、東寺の歴史をしるうえでもっとも重要な資料であり、創建以来の文書や記録類が引用されています。
東寺講堂の立体曼荼羅は空海の構想によるもので、そのうちの15体は創建当時の像です。5体の如来像と金剛波羅蜜多菩薩の6体はうしなわれたためにあらたにつくられましたが、「獅子」は台座に付属していた当初のものがのこった可能性がたかいと指摘されています。
また「兜跋毘沙門天」(とばつびしゃもんてんりつぞう)は、もともとは羅城門の楼上に安置されていたものが門が転倒したために東寺にうつされたとつたえられ、「地蔵菩薩立像」は、東寺とともに創建された西寺にまつられていたものだといいます。
現在、東寺の五重塔は、新幹線の車窓からもみえる京都のランドマークになっており、世界から人々をひきつけています。
東寺は、平安京(京都)の歴史をひもとくうえで欠かすことはできません。
*
以上のように、今回の特別展をみれば空海と曼荼羅について理解をふかめることができます。
空海は、子供のころより漢字(漢学)の指導をうけ、のちに大学にはいって学問にはげみ、将来の立身出世が約束されていましたが、そのコースからやがてドロップアウトしていくことになりす。
おおきな転機は、797年(空海 満23歳)、密教経典の『大日経』を大和国・久米寺で発見し、感得したときにありました。「これだ!」と、このとき空海は、本格的に密教をまなぶ決心をしたにちがいありません。著名な『三教指帰』は実際にはそのことを宣言するための書でした。大成する人は誰もが、このような決断をしています。久米寺に『大日経』があったということは、唐から日本に誰かがすでにもちかえってきていたということですが、それを理解できたのは空海が最初でした。
その後 798〜804年(24歳〜30歳)は謎の期間となりますが、おそらく、『大日経』や唐語など、唐への留学をめざして、日本でまなべることはすべてまなびつくしていたのではないでしょうか。実際、留学後に唐からもちかえったものをみると日本にはなかったものばかりであり、空海が、唐にわたるまえに日本にあるものはすべてしりつくしていたことがわかります。
そして805年(31歳)、恵果和尚との運命的な出会いがおとずれます。歴史的にみると、仏教は釈迦が創始し、そのご大乗仏教が発展し、そして仏教発展の最終段階が密教ということになり、この仏教のながれの最先端にいたのが恵果であり、その最期に遭遇したのが空海でした。したがって空海は、ぎりぎりのところで恵果から密教を伝授されたのであり、それは歴史の奇跡であったといってもよいでしょう。一方で、日本史上最大の天才 空海にしても師にめぐまれていたこと、“自己流” ではなかったということにも注意しなければなりません。どの分野でも「師匠と人材」が重要です。
帰国後 空海は、嵯峨天皇から、816年に高野山をたまわり、823年に東寺を下賜されます。また834年、空海の上奏により、平安京の大内裏に修法道場として真言院がもうけられ、後七日御修法が翌年からおこなわれるようになります。こうして空海は、高野山・東寺・真言院という3つの本拠地をもち、唐でまなんできた密教を、独自のビジョンにしたがってさらに発展させ、「真言宗」としてあらたに体系化、その千年にわたる発展の礎をきずいたのでした。もし、都からはなれた山奥の高野山だけが本山であったならば、僧侶の修行はできても人々は救済できません。また国家の安泰があってこそ人々が幸福になれます。空海は、高野山・東寺・真言院のバランスをとても重視したのであり、バランスをたもちながらさまざまな実践をしました。空海は、人並みでないたくさんの多様なことをおこないましたが、そこには、バランスと体系化があったことをみのがしてはなりません。
そして東寺の建造においてもっとも力をいれたのが講堂と立体曼荼羅です。空海が東寺を下賜されたときには金堂がすでにあり、薬師如来が安置されていました。そこで密教の表現の場として講堂をいわば第二の金堂として整備し、その内部で曼荼羅を立体的に表現しました。これはインドや中国にもない空海の独創でした。
このように空海は、わかいときに『大日経』をみいだして留学を決断、その準備をし、長安では奇跡的に恵果と出会い、帰国後はおしえを実践して真言宗を確立しました。日本での準備、唐での出会い、帰国後の実践というそれぞれのチャンスをすべていかしきったといえるでしょう。
- 準備
- 出会い
- 実践
さて空海の立体曼荼羅は、大局的にみれば、宇宙の真理をあらわす如来、悟りをもとめながら人々を救済する菩薩、悪をうちくだいて力づくでも人々をすくう明王、そしてそれらのすべてをまもる天という、如来・菩薩・明王・天の4つのグループ(世界)からなりたっています。
これらをこまかくみると、五智如来、五菩薩、五大明王、四天王と帝釈天・梵天というのべ21体の仏像から構成され、五智如来の中心すなわち曼荼羅の中心には宇宙の根本を象徴する大日如来が安置され、ほかの仏たちはその周囲に空間配置され、それらは、智恵と役割はそれぞれことなりますがすべてが大日如来が変化してあらわれたものです。
- 如来:五智如来
- 菩薩:五菩薩
- 明王:五大明王
- 天 :四天王と帝釈天・梵天
このようなことを理解するためには言葉をよむよりも、見取図(空間配置図)をみて視覚的にとらえたほうがはやいです。見取図とは、世界をうえからみおろした図といってもよいでしょう。
それぞれの仏像には、特定の智恵とともに特定の位置があって役割分担(職責)がはっきりしており、いわば「ポジション」があたえられています。たとえば野球では、ピッチャーを中心に、キャッチャー、ファースト、セカンド、サード、ライト・・・というようにポジションがあり、ピッチャーにはピッチャーの役割が、キャッチャーにはキャッチャーの役割が、サードにはサードの役割があり、場所と役割分担が明確ですが、しかし一方で、全体としてはひとつの組織になっています。立体曼荼羅をみるときにも、仏像をみると同時に配置をみること、要素をみるとともに全体をみることが大事です。智恵を追究するヒントは個々の仏像だけでなく、それらの空間配置のなかにも暗示されています。
- 要素:仏像、選手
- 全体:空間配置、チーム
たとえば情報を整理するためにポストイットをつかう人がいるとおもいます。ポストイットに情報を記入したら、何枚ものポストイットをホワイトボードなどに空間配置するかもしれません。そのときに、もっとも すわりのよい配置がみつかれば全体的な認識ができ、あらたなアイデアもうまれやすくなります。これは、視覚空間をつかって、断片的にだけではなく体系的にも情報をとらえなおし、理解をふかめまた記憶をしていく方法です。人間(あるいはほかの動物も)、場所(位置)で認識し記憶するように基本的にはできています。空間配置は認識の方法としてとても有用です。
このように空海は、空間的な配置によって物事の意味がきまることをおしえており、経典などにしめされている膨大な情報をそれぞれの仏像に圧縮表現し、立体曼荼羅に統合してしめしました。抽象的な概念であっても仏像という具象物にむすびつけ、視覚的・体系的にとらえればわかりやすくなり、それをみることによって心の改善もしやすくなります。
曼荼羅では、中央に、宇宙の根本(万物の根源)が位置し、周辺には、それが変化してあらわれたものが配置されます。この思想は、今日的にみても重要です。
歴史的にみると仏教は、初期は釈迦の教えでしたが、そのご釈迦信仰がうまれ、そして密教になると、歴史的な釈迦をこえて、宇宙全体を統御する、超越的な存在・大日如来が創造されました。大日如来は宇宙の根本をあらわす象徴であり、現代の用語でいえば宇宙の法則を象徴しているといってもよいでしょう。宇宙の根本には法則があり、わたしたち人間が観察できるあらゆる物質は、その法則がもたらしたみかけの現象であり、あるのは法則のみで物質や現象には「実体」がなく、物質や現象はたえず変化し、うまれてはきえていく幻像にすぎません。
空海は、このような原理にもとづいて曼荼羅で世界を表現しました。空海がえらんだ高野山も、実は、曼荼羅になっており、平坦な土地のまわりの八方向に峰がならび、胎蔵界曼荼羅の図像に対応していたので、山上の「曼荼羅世界」としてこの地を修行道場としたのでした。高野山も「立体曼荼羅」です。
このような立体曼荼羅は空海の曼荼羅の到達点であり、そこには、東洋の精神文化が投影されています。空海がまなんだ当時の長安は、ペルシャ・ソグド・インド・スリランカ・ジャワ・東南アジア・東アジアなどから多様な人々があつまった国際都市で、文化の一大集積地でした。世界の情報が集積し、多様な表現がうまれるだけでなく、おのずと、多様な情報を融合し圧縮して表現することがはやりました。長安は世界の縮図であったのであり、縮図としての性質をもつ曼荼羅が発展する素地がありました。
また空海は、インドの梵語(サンスクリット語)もやすむ間もおしんでまなび、インドその地から伝来した仏像なども日本にもちかえったことを「御請来目録」のなかにしるしています。あるいは中国よりもちかえったのは「真言五祖」でしたが、インド僧の龍猛と龍智をくわえて「真言七祖」としました。さらにインドの「ストゥーパ」(インド式仏塔)にならって「根本大塔」の建立に着手もしました。
これらのことから空海は、インドも重視し、インドでうまれた純粋な密教を日本につたえようとしていたことがわかります。したがって空海の立体曼荼羅には、数千年にわたる東洋の精神文化が投影されているのであり、インドから中国そして日本へとつらなる東洋史の壮大なながれがあり、インドから日本にいたる東洋の一大文明圏を空海をとおしてみわたすことができます。このような東洋のダイナミズムは日本史だけをみていたのでは決してわかりません。世界には、地理的・空間的な構造があり、物事は、歴史的・時間的にうごいていきます。わたしたちが、このような空間的・時間的な認識をもったときに東洋文明があらためてとらえなおされるのであり、欧米中心ではない公平な本当の世界史が創造されます。
東京国立博物館の今回の特別展では、史上最大規模の15体もの仏像が東寺からおでましになっています。今回の最大の特典は、曼荼羅の内部をあるけるところにあります。ここでは曼荼羅を「体験」します。東寺の講堂にいけば立体曼荼羅をみることはできますが、その内部にのこのこはいっていくことはできません。
おおくの仏像が360度の視角からちかづいてみられるだけでなく、仏像群がうみだす共鳴空間をじっくり味わうことができます。まるで、交響曲がつくりだす音響空間のなかにつつみこまれるようです。ここは、人気歌手の「ソロ」をきくところではありません。さまざまな情報が重層的に交じりあり響きあう「交響空間」です。
またとない機会になっています。是非、会場に足をはこんでみてください。
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▼ 東京国立博物館
東京国立博物館 − 歴史をフィールドワークする − (記事リンク集)
▼ 注1
特別展「国宝 東寺 - 空海と仏像曼荼羅 -」
東京国立博物館のサイト
特設サイト
会期:2019年3月26日 ~6月2日
会場:東京国立博物館・平成館
※ 帝釈天のみ写真撮影が許可されています。
▼ 注2:特別展会場・第4展示室での仏像の配置はつぎのとおりです。
▼ 参考文献
東京国立博物館・真言宗総本山教王護国寺(東寺)・読売新聞社・NHK・NHKプロモーション編集『国宝 東寺 - 空海と仏像曼荼羅 -』(図録)、読売新聞社・NHK・NHKプロモーション発行、2019年3月26日