印刷博物館(入り口)
(平行法で立体視ができます)
(平行法で立体視ができます)
印刷の歴史が概観できます。印刷は、近代文明の発展、工業化に貢献しました。しかし印刷の時代はおわり、インターネットの時代に転換しました。
凸版印刷株式会社が運営する印刷博物館(東京都文京区、トッパン小石川ビル1階)では、さまざまな印刷物や印刷機をみながら、印刷の歴史を概観することができます(注1)。
プロローグ展示ゾーン
たかさ7メートル、ながさ40メートルの大壁面に100点以上もの印刷資料が展示されています。
前印刷
中国で紙が発明される以前は、岩や骨などに情報を記録しました。
木版印刷
仏教の経典が木版をつかって印刷されました。印刷の黎明期です。
活字の登場
グーテンベルクによって西洋式活版印刷術が発明されました。「印刷革命」がおこりました。
図版の登場
精緻な図版や正確な地図が人々を魅了しました。
動力を得た印刷
印刷技術の発達と動力の導入によって、よりはやい、よりおおきい、よりひろい印刷文化が花ひらきました。
デジタル時代の印刷
活版印刷にかわり、コンピューターとプリンターをつかったデジタル印刷の時代が到来しました。
プロローグ展示ゾーンの大壁面の下には、12個の精巧なミニチュアが展示されていて、人類がたどってきた印刷の歴史を視覚的に理解できます。大壁面に展示されている印刷資料とあわせてみていけば理解が一層ふかまります。
総合展示
ブロック1 印刷との出会い
「百万塔陀羅尼」(ひゃくまんとうだらに、764-770年)は、現存するものとしては、印刷された年代が明確な世界最古の印刷物です。印刷方法については、版木に経文を彫って印刷した木版説と、銅版に文字を鋳造して印刷した銅凸版説の2説があり、どちらであるかはわかっていません。時の天皇・孝謙天皇(後に称徳天皇)は国家安泰をねがい、延命や除災をねがう経文「無垢浄光陀羅尼経」を100万枚印刷させ、同時につくらせた木製の三重小塔100万基のなかにおさめて、法隆寺や東大寺など十大寺に分置しました。
ブロック2 文字を活かす
15世紀のなかごろ、グーテンベルク(1398年頃-1468年)が『42行聖書』を活版印刷し、それ以降、それまでは手書きであった聖書が印刷されて普及するようになり、一般の人々が聖書をよみ、理解する機会をえました。その後も、あたらしい思想や理論などのさまざまな知識が印刷物としてひろまり、あたらしい社会をつくる力となりました。
グーテンベルク『42行聖書』原葉(1455年頃)は、西洋式活版印刷術の祖であるグーテンベルクがマインツ(ドイツ)で1455年ごろ出版した聖書であり、この出版は、印刷史上最大の事件となりました。みずから開発した油性インキ、木製印刷機、鉛合金活字をもちいて160〜180部ほどを出版したとされます。出版事業には多額の費用を要したため、融資をうけたものの返済できず、せっかくの印刷所と機材一式を没収されてしまい、本書を完成させたあとはおおきな出版活動はできませんでした。
「駿河版銅活字」(1606~1616年、重要文化財)は、日本最初の銅製活字であり、徳川家康が、静岡の駿府城に隠居してから、林羅山らを監督者として朝鮮伝来の銅活字にならって新鋳したもので、『大蔵一覧』11巻・『群書治要』47巻などを刊行したといわれ、これらを駿河版といいます。
ブロック3 色とかたちを写す
文字とともに、印刷にとって欠かせないもうひとつの要素が画像(図版)です。15世紀以降、挿絵いり書物や地図が、近代科学の発達や異文化理解におおきく貢献しました。
『百科全書』(ディドロとダランベールら、1751年)は、1751年から約30年をかけてフランスでまとめ上げられた全35巻の大事典で、人類の「知」の集大成といわれた刊行物です。多くの銅版画による精緻な図版をつけて、専門的な技術をわかりやすく紹介しています。18世紀のヨーロッパの印刷技術をしるうえでたいへん貴重な資料といえます。
ブロック4 より速く、より広く
18世紀後半に産業革命がおこると経済活動が急速に発展し、低コストで短時間に大量に印刷するさまざまな技術が開発され、印刷は、一大産業へと発展しました。この技術にささえられて新聞や雑誌もうまれました。一方で、大量消費社会が到来し、ポスターや商品パッケージなど、広告宣伝のための印刷技術も発達しました。そして「水と空気以外なら何にでも印刷できる」ようになりました。
ライノタイプ(1885年)は、マーゲンターラーによって発明された欧文用の鋳植機であり、鋳植機とは、活字を鋳造すると同時に、活字を原稿どおりにならべて版にする工程(植字という)までをおこなえる機械です。
ブロック5 印刷の遺伝子
コンピューターの出現が印刷技術におおきな変革をもたらしました。印刷は、デジタル技術でおこなわれるように根本的にかわり、また記録媒体としての紙の役割がおわりました。
印刷の歴史をみてくると、なんといっても、グーテンベルクが活版印刷術を発明したことがもっともおおきな出来事であったことがよくわかります。これは印刷革命でした。あらたな文明の発達は技術革新からいつもはじまります。
そしてその後、産業革命をへて、世界が近代化・工業化していくとともに印刷技術もいちじるしく発達し、20世紀後半には、「水と空気以外なら何にでも印刷できる」までにいたりました。印刷博物館に展示されている数々の印刷物と印刷機器をみればこれらのことが一目瞭然です。
このことは、ただちに印刷が必要なくなるということではないですが、印刷は、歴史の表舞台からすでに退場していることはあきらかであり、これは、工業の時代がおわり、情報産業の時代に世界が転換したことを反映しています。
大昔の人々は、岩や骨や木に文字や絵をかいていました。しかしそのご紙にかくようになりました。そしてかくのではなく印刷するようになりました。しかし今では、インターネットをつかって発信します。
このようにみてくると、情報やメッセージを記録したり発信したりすること自体に意味があるのであって、岩や骨や木や紙といった媒体はそのための手段でしかありませんでした。手段が物質であるとその物質にとらわれやすいですが、情報の記録や発信のためにはそのような “物” にいつまでもとらわれていてはいけません。
かつて、印刷された書物が刊行されはじめたころは、その書物(紙)の重量でその書物の価格をきめていたそうです。しかし実際には情報は物ではなく、媒体の重量で価値がきまるものではありません。物ではなく情報であり、物にわずらわされることなく、情報処理や情報発信に労力をさくことが大事です。
物から情報へ。印刷の歴史をふりかえることによってこれらのことがあらためて確認できました。
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▼ 注1
印刷博物館
※ 館内の撮影は許可されていません。
プロローグ展示ゾーン
総合展示
ブロック1 印刷との出会い
ブロック2 文字を活かす
ブロック3 色とかたちを写す
ブロック4 より速く、より広く
ブロック5 印刷の遺伝子
プロローグ展示ゾーン
たかさ7メートル、ながさ40メートルの大壁面に100点以上もの印刷資料が展示されています。
前印刷
中国で紙が発明される以前は、岩や骨などに情報を記録しました。
木版印刷
仏教の経典が木版をつかって印刷されました。印刷の黎明期です。
活字の登場
グーテンベルクによって西洋式活版印刷術が発明されました。「印刷革命」がおこりました。
図版の登場
精緻な図版や正確な地図が人々を魅了しました。
動力を得た印刷
印刷技術の発達と動力の導入によって、よりはやい、よりおおきい、よりひろい印刷文化が花ひらきました。
デジタル時代の印刷
活版印刷にかわり、コンピューターとプリンターをつかったデジタル印刷の時代が到来しました。
プロローグ展示ゾーンの大壁面の下には、12個の精巧なミニチュアが展示されていて、人類がたどってきた印刷の歴史を視覚的に理解できます。大壁面に展示されている印刷資料とあわせてみていけば理解が一層ふかまります。
総合展示
ブロック1 印刷との出会い
「百万塔陀羅尼」(ひゃくまんとうだらに、764-770年)は、現存するものとしては、印刷された年代が明確な世界最古の印刷物です。印刷方法については、版木に経文を彫って印刷した木版説と、銅版に文字を鋳造して印刷した銅凸版説の2説があり、どちらであるかはわかっていません。時の天皇・孝謙天皇(後に称徳天皇)は国家安泰をねがい、延命や除災をねがう経文「無垢浄光陀羅尼経」を100万枚印刷させ、同時につくらせた木製の三重小塔100万基のなかにおさめて、法隆寺や東大寺など十大寺に分置しました。
ブロック2 文字を活かす
15世紀のなかごろ、グーテンベルク(1398年頃-1468年)が『42行聖書』を活版印刷し、それ以降、それまでは手書きであった聖書が印刷されて普及するようになり、一般の人々が聖書をよみ、理解する機会をえました。その後も、あたらしい思想や理論などのさまざまな知識が印刷物としてひろまり、あたらしい社会をつくる力となりました。
グーテンベルク『42行聖書』原葉(1455年頃)は、西洋式活版印刷術の祖であるグーテンベルクがマインツ(ドイツ)で1455年ごろ出版した聖書であり、この出版は、印刷史上最大の事件となりました。みずから開発した油性インキ、木製印刷機、鉛合金活字をもちいて160〜180部ほどを出版したとされます。出版事業には多額の費用を要したため、融資をうけたものの返済できず、せっかくの印刷所と機材一式を没収されてしまい、本書を完成させたあとはおおきな出版活動はできませんでした。
「駿河版銅活字」(1606~1616年、重要文化財)は、日本最初の銅製活字であり、徳川家康が、静岡の駿府城に隠居してから、林羅山らを監督者として朝鮮伝来の銅活字にならって新鋳したもので、『大蔵一覧』11巻・『群書治要』47巻などを刊行したといわれ、これらを駿河版といいます。
ブロック3 色とかたちを写す
文字とともに、印刷にとって欠かせないもうひとつの要素が画像(図版)です。15世紀以降、挿絵いり書物や地図が、近代科学の発達や異文化理解におおきく貢献しました。
『百科全書』(ディドロとダランベールら、1751年)は、1751年から約30年をかけてフランスでまとめ上げられた全35巻の大事典で、人類の「知」の集大成といわれた刊行物です。多くの銅版画による精緻な図版をつけて、専門的な技術をわかりやすく紹介しています。18世紀のヨーロッパの印刷技術をしるうえでたいへん貴重な資料といえます。
ブロック4 より速く、より広く
18世紀後半に産業革命がおこると経済活動が急速に発展し、低コストで短時間に大量に印刷するさまざまな技術が開発され、印刷は、一大産業へと発展しました。この技術にささえられて新聞や雑誌もうまれました。一方で、大量消費社会が到来し、ポスターや商品パッケージなど、広告宣伝のための印刷技術も発達しました。そして「水と空気以外なら何にでも印刷できる」ようになりました。
ライノタイプ(1885年)は、マーゲンターラーによって発明された欧文用の鋳植機であり、鋳植機とは、活字を鋳造すると同時に、活字を原稿どおりにならべて版にする工程(植字という)までをおこなえる機械です。
ブロック5 印刷の遺伝子
コンピューターの出現が印刷技術におおきな変革をもたらしました。印刷は、デジタル技術でおこなわれるように根本的にかわり、また記録媒体としての紙の役割がおわりました。
*
印刷の歴史をみてくると、なんといっても、グーテンベルクが活版印刷術を発明したことがもっともおおきな出来事であったことがよくわかります。これは印刷革命でした。あらたな文明の発達は技術革新からいつもはじまります。
そしてその後、産業革命をへて、世界が近代化・工業化していくとともに印刷技術もいちじるしく発達し、20世紀後半には、「水と空気以外なら何にでも印刷できる」までにいたりました。印刷博物館に展示されている数々の印刷物と印刷機器をみればこれらのことが一目瞭然です。
書物をはじめ印刷物は科学革命にも貢献し、文明の発展におおきな役割をはたしたことはいうまでもありません。印刷技術なくして現代の文明はなりたちません。
しかしながら今日、わたしたちは言語や画像をアウトプットするときにインターネットをおもにつかいます。今日のインターネットの発達をみると、これは、印刷とはまったくことなる技術であることはあきらかであり、いいかえると、情報の媒体としての紙の役割がおわり、インターネットがあらたな媒体になりました。
しかしながら今日、わたしたちは言語や画像をアウトプットするときにインターネットをおもにつかいます。今日のインターネットの発達をみると、これは、印刷とはまったくことなる技術であることはあきらかであり、いいかえると、情報の媒体としての紙の役割がおわり、インターネットがあらたな媒体になりました。
このことは、ただちに印刷が必要なくなるということではないですが、印刷は、歴史の表舞台からすでに退場していることはあきらかであり、これは、工業の時代がおわり、情報産業の時代に世界が転換したことを反映しています。
大昔の人々は、岩や骨や木に文字や絵をかいていました。しかしそのご紙にかくようになりました。そしてかくのではなく印刷するようになりました。しかし今では、インターネットをつかって発信します。
このようにみてくると、情報やメッセージを記録したり発信したりすること自体に意味があるのであって、岩や骨や木や紙といった媒体はそのための手段でしかありませんでした。手段が物質であるとその物質にとらわれやすいですが、情報の記録や発信のためにはそのような “物” にいつまでもとらわれていてはいけません。
かつて、印刷された書物が刊行されはじめたころは、その書物(紙)の重量でその書物の価格をきめていたそうです。しかし実際には情報は物ではなく、媒体の重量で価値がきまるものではありません。物ではなく情報であり、物にわずらわされることなく、情報処理や情報発信に労力をさくことが大事です。
物から情報へ。印刷の歴史をふりかえることによってこれらのことがあらためて確認できました。
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▼ 注1
印刷博物館
※ 館内の撮影は許可されていません。