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(平行法で立体視ができます)
インドで誕生した仏教は日本にもつたわりました。ヒンドゥー教の神々は日本にもとりいれられました。世界は、創造・維持・破壊のサイクルをくりかえしています。
マハトマ=ガンディーの生誕150周年を記念して東洋文庫ミュージアムで「インドの叡智」展が開催されています(注1)。太古のインダス文明から、ガンディーを旗頭にイギリスから独立をかちとった20世紀なかばまで、インドの壮大な歴史絵巻をひもとき、インド文明圏の叡智をさぐっていきます。

ステレオ写真はいずれも平行法で立体視ができます。
立体視のやり方 - ステレオグラムとステレオ写真 -


日本とインド
インドの歴史
 インダス文明からクシャーナ朝まで
 ヒンドゥー教の確立と仏教の衰退
 ヒンドゥー教とその波及
 イスラーム勢力の進出
 ムガル帝国史の略史
 イギリス統治時代からインド独立まで
インドの叡智
インドのイスラーム文化・芸術
インドの食



日本とインド

日本とインドとの関わりは6世紀の仏教伝来とともにはじまります。インド人がはじめて日本へきたのは736年のことであり、中国に当時滞在していた菩提僊那(ぼだいせんな)という僧が、唐の僧や演奏家などとともに来日し、752年には、東大寺の大仏開眼の法会で導師をつとめました。

821年になると、日本人僧の最澄が自著のなかで、「自分の開いた教えは釈迦に始まり、インドから中国へ伝えられ、そして自分が受け継いだものだ」とときました。これ以降、世界の中心にある山「須弥山」(しゅみせん)」の南に人がすむ大地があり、そこに、インドを中心として、中国と日本があるとする「三国」という伝統的世界観が定着しました。

しかし16世紀になると南蛮人が渡来するようになり、伝統的な世界観はくずれ、インドへの関心もうすくなっていきました。



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『悉曇字記』(しったんじき)
(智広、7世紀頃(唐時代)成立、江戸時代初期(17世紀)刊)
悉曇とは、サンスクリット語を表記する文字(梵字)のことです。仏教が中国につたえられると、仏典などの文献が漢文に翻訳されていき、7世紀ごろから、サンスクリット語の文字の音韻と意味を研究する「悉曇学」が発達しました。日本では、遣唐使がもちかえった資料をもとに、9世紀ごろ(平安時代)から悉曇学がまなばれ、仮名の五十音表をつくりだすなど、日本語の発展にも多大なる影響をおよぼしました。本書は、悉曇学に関する現存最古の専門書です。



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南瞻部洲萬國掌菓之圖
(なんせんぶしゅうばんこくしょうかのず)
(浪華子、1710年)
インド亜大陸が中央部にしめされ、インド・中国・日本の「三国」で世界をあらわしました。「三国」という言葉は、平安時代から、仏教文献のなかでつかわれはじめました。





インドの歴史

インダス文明からクシャーナ朝まで

前2600〜前1900年ごろ、インダス川流域を中心とする北西インド一帯にインダス文明と称される高度な都市文明が発達していました。

この文明が崩壊すると、前1500年ごろに、中央アジア方面から「アーリヤ」と称する人々がインダス川流域に侵入し、さらにガンジス川流域へ進出して、土着の文化をとりこみながら、前600年ごろには高度な都市社会をきずきました。

こうしたなかで、仏教とジャイナ教といった、それまでの「バラモン」の宗教的権威に対抗する新宗教があらわれ、文化的・経済的な先進地域としてガンジス川中流域が成長しました。

そこからあらわれたマウリア朝は、前3世紀には、インドからアフガニスタンにおよぶ大帝国を建設し、そのときの王・アショーカは仏教に帰依し、彼のかんがえた倫理規定(ダルマ)をインド各地で碑文にきざませました。

前2世紀にこの帝国が崩壊すると、ギリシア系やイラン系の遊牧民が中央アジアから北西インドに相次いで侵入してきて、そのなかでもっとも強大な勢力はクシャーナ朝であり、これは、中央アジアを拠点としつつ、2世紀には、ガンジス川流域にまで支配領域を拡大し、また漢とローマの交易の幹線であったシルクロードと北西インドの港町をおさえることでおおいに繁栄しました。

おなじ時期に、デカン高原では、サータヴァーハナ朝が、インドの東岸・西岸にまたがる帝国をきずき、インド洋交易の拠点をおさえることで繁栄しました。



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ジョン=マーシャル編『モエンジョ・ダーロとインダス文明』
(1931年、ロンドン刊(初版))
モエンジョ・ダーロは、パキスタン南部の丘陵地に位置し、インダス文明を代表する都市遺跡です。1922-27年に発掘調査がおこなわれ、報告書(本書)がまとめられました。



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『リグ・ヴェーダ』
(フリードリヒ=マックス=ミュラー翻訳、1849-1873年)
アーリア人の自然崇拝にはじまるバラモン教と、土着の神々への信仰がそこにくわわって形成されたヒンドゥー教が、ともに聖典としているのが「ヴェーダ」(知識という意味)であり、インドの人々の生活にふかく根づき、インドの文化に多大な影響をもたらしました。前11世紀ごろから前6世紀ごろにかけて、口述で継承されていくなかで編纂され、バラモン教の祭式に関する内容を根幹とした宗教的な知識を集約しており、つぎの4種があります。なお『アタルヴァ・ヴェーダ』からは医学・健康に関する部分がぬきだされて重宝され、それは、『アーユル・ヴェーダ』として『アタルヴァ・ヴェーダ』よりも著名となっています。
  • 『リグ・ヴェーダ』(神々への讃歌や神話)
  • 『サーマ・ヴェーダ』(旋律にのせてうたわれる讃歌)
  • 『ヤジュル・ヴェーダ』(祭式の作法や供物の献呈方法などを詠んだ祭詞)
  • 『アタルヴァ・ヴェーダ』(呪術的な儀式・典礼)
本書『リグ・ヴェーダ』(写真)は、ドイツ出身のインド学者で、宗教学・神話学の先がけとしてしられるミュラーが25年の歳月をかけて完成させた校訂・英訳です。




ヒンドゥー教の確立と仏教の衰退

4世紀はじめに成立したグプタ朝(320年ごろ〜550年ごろ)は、チャンドラグプタ2世の時代に北インド全体を統一して最盛期をむかえました。サンスクリット語が公用語化され、古典文学が隆盛し、数字の表記方法と0(ゼロ、零)の概念がうまれ、ヒンドゥー教が確立しました。

その後、遊牧民の侵入によりグプタ朝が滅亡すると、7世紀前半に北インドで、ヴァルダナ朝(プシュヤブーティ朝)が台頭しました。建国者のハルシャ=ヴァルダナは名君とうたわれ、仏教に帰依、この時代にインドをおとずれた中国人僧が玄奘と義浄です。

しかしハルシャ=ヴァルダナが死去するとヴァルダナ朝は急速に衰退し、以降は、群雄割拠の時代がながくつづきました。またこれにあわせて仏教も衰退しました。



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大唐三蔵聖教序
(672年成立)
玄奘(602?-664)は、仏教の原典をもとめて中央アジアを経由してインドへおもむき、20年ちかく修行にはげんだのち、長安に帰着しました。600余部の経典を漢訳し、東アジア仏教の発展に多大な貢献をしました。



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妙法蓮華経
(1070年ごろ書写、ネパール)
サンスクリット語の名称は、「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」です。加工したヤシの葉(貝葉)の上に文字をかいて木板ではさみ、ばらばらにならないように紐をとおし穴をあけています。展示しているのは、現在のネパール周辺でかきうつされたもので、日本人としてはじめてチベットをおとずれた僧・河口慧海がもちかえった経典のひとつです。




ヒンドゥー教とその波及

ヒンドゥー教は、前1500年ごろにインドに侵入してきたアーリア人のバラモン教が、土着の信仰と融合することによって紀元前後ごろまでにおおむね成立し、4〜5世紀のグプタ朝の時代におおきく発展して確立しました。シヴァ神あるいはヴィシュヌ神を最高神とする宗教であり、インドで現在、もっともおおくの信徒をかかえています。

グプタ朝が崩壊したあと(6世紀以降)は、地方勢力によってインド各地が開発されるにしたがってヒンドゥー教も徐々にひろまり、その際、ヒンドゥー教の権威である「バラモン」(司祭)が各地の諸王朝によびよせられ、その地の神々がシヴァ神(女神の場合は妃神パールヴァティー)とみなされたり、あるいはヴィシュヌ神の化身とされたりすることでヒンドゥー教はさらに拡大しました。

同時に、ヒンドゥー教と密接にむすびついた、「バラモン」(司祭階級)、「クシャトリア」(王族・武士階級)、「ヴァイシャ」(庶民階級)、「シュードラ」(隷属民)という「ヴァルナ」制度(身分階級制度)も波及していきました。ヴァルナとは、「色」を元来は意味する言葉であり、インドに侵入してきたアーリア人が、肌の色が白いアーリア人を支配者とし、肌の色が黒い先住民を被支配者とし、肌の色で人間を差別をしたことに由来します。実際には、第5のヴァルナとして「パンチャマ」(不可触民、ダリットともいう)がおり、5つの身分階級によって社会の大枠がきめられました。各ヴァルナに属する者は、同一ヴァルナに属する配偶者を選択するように義務づけられています。

  1. バラモン(司祭階級)
  2. クシャトリア(王族・武士階級)
  3. ヴァイシャ(庶民階級)
  4. シュードラ(隷属民)
  5. パンチャマ(不可触民)

一方、「カースト」という場合は、このヴァルナと、より実体的なサブシステムである「ジャーティ」(世襲的職業身分制度)とからなる社会制度を意味します。すなわちヴァルナは5つの身分階級をさだめ、ジャーティは、肉屋・皮革・清掃・散髪・酒造・竹細工・金銀細工・芸能・医者・産婆など、おおくの職能集団にわけられ、すべての職能集団は、ヴァルナのいずれかの階級に位置づけられて序列化され、「ヴァルナ-ジャーティ」制がかたちづくられています。

カーストは、ポルトガル語の家系や血統を意味する「Casta」を語源とし、16世紀に、ポルトガル人がインドでみた職業区分が排他的で世襲的だったことから命名しました。またジャーティとは、「生まれ」を元来は意味する言葉です。



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『マヌ法典』
(オーギュスト=ロワズズール=デロンシャン訳、1830年、パリ刊)
バラモン・クシャトリヤ・ヴァイシャ・シュードラからなる4つのヴァルナがそれぞれ遵守すべき規範をさだめ、ヒンドゥー教徒が日々のおこないや儀礼などの場で心得ておくべき知識を体系化しています。




イスラーム勢力の進出

10世紀末から、アフガニスタンに拠点をもつガズナ朝がインドにたびたび遠征をおこない、各地を略奪しました。

12世紀後半にガズナ朝が衰退すると、アフガニスタンに拠点をもつゴール朝が勢力をつよめ、インドにも遠征軍をおくり、1192年、デリーちかくで、インドのラージプート諸王国の連合軍に大勝、イスラーム勢力による北インド支配がはじまりました。

13世紀にはいり、ゴール朝が内紛で急速におとろえると、ゴール朝からデリーに派遣されていた奴隷軍人(マムルーク)のアイバクが独立し、インド初のムスリム(イスラーム教徒)の王朝、奴隷王朝が誕生しました。アイバクが元奴隷であったことから奴隷王朝とよばれます。

そしてこの奴隷王朝からロディー朝までの、デリーを首都として継起した5つの王朝をデリー・スルタン朝とよびます。

14世紀前半までに、デリー・スルタン朝はヒンドゥー王朝を打倒し、インドのほぼ全域を支配しました。

しかしその直後から、デリー・スルタン朝は分裂をはじめ、ムスリム王朝がインド各地に分立し、デリー・スルタン朝の支配はデリー周辺にかぎられるようになりました。




ムガル帝国の略史

ムガル帝国は、1526年から1858年まで、インドのほぼ全域を支配したイスラーム王朝です。このムガルという名称はモンゴル帝国に由来し、モンゴル帝国の後継者を自負した英雄ティムール(1336-1405)の子孫にあたるバーブル(1483-1530)が中央アジアから北インドへ侵攻し、1526年に、デリーを都として建国しました。

しかし実質的な帝国の建設者は第3代のアクバル(位1556-1605)です。首都をアグラにうつし、中央集権的統治機構をととのえ、ヒンドゥー教徒の女性とみずから結婚し、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の融和をはかり、非イスラーム教徒に課税されていた人頭税(ジズヤ)を廃止して、ヒンドゥー教徒からも支持をえました。

この時代には、公用語のペルシア語がインドの地方語とまざりあったウルドゥー語が誕生しました。建築においても、インド様式とイスラーム様式が融合したタージ・マハルなどの壮大な建築がうみだされました。宮廷には、イラン出身やインドの画家がまねかれて細密画が多数えがかれました。

ムガル帝国は、第6代のアウラングゼーブ(位1658-1707)の時代には最大の領土を有して最盛期をむかえました。しかしアウラングゼーブはイスラーム教にふかく帰依していたためにヒンドゥー寺院の破壊をおこない、人頭税を復活させたため、ヒンドゥー教徒の反発をまねくことになり、各地で反乱がおこりました。

アウラングゼーブ帝の没後、ヨーロッパの商業勢力がインドに進出、イギリスとフランスの東インド会社は軍事介入による領土支配をすすめてはげしく対立しました。その後、カーナティック戦争やプラッシーの戦い(1757年)でイギリスはフランスに勝利し、インドの諸政治勢力に対する支配の拡大をはかりました。

19世紀前半には、ムガル帝国は実質的な統治力をうしない、名目だけの存在に皇帝はなっていました。1857年に、北インドを中心とする広範囲でインド人傭兵(シパーヒー)による大反乱が発生しましたがイギリス軍によって鎮圧され、1858年、皇帝が流刑にされ、ムガル帝国は名実ともに滅亡しました。



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シャー=ジャハーンの肖像
(マーティン、1912年、ロンドン刊)
『ペルシア・インド・トルコのミニアチュール絵画』より。インド・イスラーム文化の傑作であるタージ・マハルをきずいたことで有名なムガル帝国第5代皇帝シャー=ジャハーン(1592-1666年)の肖像画です。




イギリス統治時代からインド独立まで 

18世紀後半から、イギリス東インド会社は支配地域を拡大させ、貿易商社から、植民地統治機関へと姿をかえていき、19世紀前半には、インドのほぼ全域を植民地支配下におさめました。そして1857年のインド大反乱をきっかけに東インド会社は解体され、イギリス本国政府がインドを直接統治するようになりました。

第一次世界大戦が終了すると、ガンディーが、非暴力の理念をかかげて、イギリスに対する非協力・不服従の運動を大規模に開始しました。インド国民会議が主導するこの運動に対して、イスラーム教徒のおおくも当初は参加していましたが、その後、イスラーム教徒は、全インド・ムスリム同盟を結成、独自の運動を展開するようになりました。

前者(ヒンドゥー教徒)と後者(イスラーム教徒)の対立はしだいにふかまり、1947年、ヒンドゥー教徒を多数派とするインドと、イスラーム教徒を多数派とするパキスタンとに分離するというかたちで “インド” は独立、イギリスによる植民地支配はおわりました。



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『ベンガル記述民族学』
(エドワード・T・ダルトン、1872年、カルカッタ刊)
植民地支配をイギリスが円滑におこなうには被支配者であるインド人に関する知識と情報が不可欠でした。この調査報告書には、さまざまな民族の男女を撮影した写真をもとにした石版画が多数収録されています。



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『ガンディー自叙伝』
(マハトマ=ガンディー、1927年(1949年、ロンドン刊))
世界のほぼすべての言語に翻訳されているベストセラーです。幼少時代から、1921年に指導した「反英非協力運動」にいたるまでの出来事がしるされています。悠久の歴史をもつインド思想を、独立運動そして近代政治の場で実践したことは、ガンディーの「真実への探求」でした。





インドの叡智

ヒンドゥー教の神々

基本の3神

  • ブラフマー:創造をつかさどる
  • ヴィシュヌ:維持・繁栄をつかさどる
  • シヴァ:破壊・再生をつかさどる

基本3神の家族
  • サラスヴァティー(ブラフマーの妻):学問と技芸の女神
  • ラクシュミー(ビシュヌの妻):豊穣の女神
  • シヴァの家族
  • パールヴァティー(シヴァの妻)
  • サティー:パールヴァティーのおだやかな相
  • ウマー:パールヴァティーのおだやかな相
  • ドゥルガー:パールヴァティーのあらあらしい相
  • カーリー:パールヴァティーの残酷な相
  • スカンダ(シヴァとパールヴァティーの息子):戦い
  • ガネーシャ(シヴァとパールヴァティーの息子):富と学問、厄除け


ヒンドゥー出身の日本の神々の例
ヒンドゥー教の神々は日本にもやってきました。
  • 弁財天(音楽・財福・知恵をつかさどる神):元はサラスヴァティー
  • 毘沙門天(福徳増進の神):元はクベーラという戦いの神
  • 大黒天(福や財宝の神):元はシヴァの別の相マハーカーラ(日本の大国主命と混合して大黒天となった)
  • 吉祥天:元はラクシュミー。
  • 韋駄天:元はスカンダ。


学問・文学・修行

インドでは、聖典ヴェーダの内容を理解し実行することなどをとおして、古代から学問や思想が発達し、インド文明圏のみならず、チベット〜中国〜東南アジア、西アジアなど、周辺のあらゆる地域におおきな影響をあたえてきました。中国地域などよりもインドのほうがあきらかにかつては先進文明地域でした。

インドの古典文学としては、『ラーマーヤナ』と『マハーバーラタ』が著名であり、さまざまな言語に翻訳されて世界中でよみつがれています。

また数学の0(ゼロ、零)はインドで発見され、7世紀のインドの天文・数学者であるブラフマ=グプタが0のあつかいかたを定義したとされ、0が、その後の数学と科学の発展におおきく貢献したことはいうまでもありません。

またヨーガ(ヨガ)は、心身をととのえる古来インドの修行法を源流とし、とくに仏教において確立し、今日、世界規模で実践されています。



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『マハーバーラタ』
(4〜6世紀ごろ成立(1931-1933年、マドラス刊))
ヒンドゥー教が確立したグプタ朝の時代(320-550年ごろ)に、古典サンスクリット文学が隆盛期をむかえ、インド二大叙事詩としてしられる『ラーマーヤナ』と『マハーバーラタ』が完成しました。『マハーバーラタ』は全18巻からなる長大な物語であり、バラター族の親族間のあらそいを主題とし、各階層の人間の権利と義務をとくなど、教訓的な詩編も収録、複数の神話・物語・経典からの引用もおおいため、ヒンドゥー教における聖典であるとともに百科事典のような役割もはたしています。



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『カンダカーディヤカ』
(ブラフマ=グプタ著、バブアー=ミシュラ編、1925年、カルカッタ刊)
ブラフマ=グプタ(598 -?)は天文・数学者であり、彼の数学と天文学は、西方のイスラームの人々にもつたえられました。





インドのイスラーム文化・芸術

イスラーム諸王朝がインドで成立する過程で、建築・文学・細密画・書道(カリグラフィー)・音楽など、多岐にわたるイスラーム文化・芸術がインドにながれこんできました。これらのなかには、タージ・マハルなど、インドで極点をむかえた例もありました。またウルドゥー語があらたに成立しました。これは、デリー周辺ではなされていた言葉に、アラビア語・ペルシア語・トルコ語の語彙がとりいれられてなりたった言語であり、アラビア語系の文字体系をつかって表記される特徴をもちます。




インドの食

紀元前5世紀ごろに体系化された「アーユル・ヴェーダ」では、食を、すこやかな生活ときりはなせないものとして重視し、属性(体質)と季節を分類して、バランスのよい食事をとることをすすめています。またアショーカ王の時代(紀元前3世紀)は、香辛植物の移植に力をそそいだともいわれており、香辛料やハーブは、インド料理の基礎とふるくからなりました。カレー(curry)は、香辛料のきいたインド料理をひとくくりにあらわす言葉としてイギリス植民地時代にうまれ、明治初頭に日本にもつたわりました。










以上のように、インドには悠久の歴史があります。

前2600〜前1900年ごろにはインダス文明がさかえ、前1500年ごろにはアーリア人が侵入、前600年ごろには高度な都市社会が形成されました。

前6世紀ごろにはマガダ国が成立、最初の都はラージャグリハ(王舎城)におかれ(のちに、パータリプトラ(華氏城)に移転)、その後、インドの政治・経済・文化の中心となり、前3世紀、そのマウリア朝で最盛期をむかえ(アショーカ王の時代)、インド最初の統一帝国をきずきました。

前2世紀にこの帝国が崩壊すると、中央アジア方面から北西インドに異民族が相次いで侵入し、クシャーナ朝が成立しました。おなじ時期にデカン高原では、サータヴァーハナ朝が成立しました。

4世紀はじめにはグプタ朝が成立、7世紀にはヴァルダナ朝(プシュヤブーティ朝)が台頭しました。

10世紀末になると、イスラーム勢力の侵略がはじまり、13世紀には、インド初のイスラーム王朝である奴隷王朝が誕生しました。

そして1526年から1858年までは、ムガル帝国が、インドのほぼ全域を支配しました。この帝国は、インドにおける最後にして最大のイスラム帝国でした。

しかしムガル帝国の衰退にともない、19世紀前半には、イギリスが、インドのほぼ全域を植民地支配下におさめました。

その後1947年、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒が分離するというかたちで、インドとパキスタンがイギリスから独立しました。1971年には、パキスタンの東パキスタン州はバングラデシュとしてパキスタンから独立しました。

こうして、イスラーム文明圏とヒンドゥー文明圏は明瞭に分離されることになりました。インドの文明は「インド文明」というよりも、イスラーム文明と対比して「ヒンドゥー文明」ととらえたほうがわかりやすいでしょう。

以上を要約するとつぎのように区分できます。

  1. インダス文明の時代
  2. バラモン教からヒンドゥー文明へ
  3. イスラーム帝国の時代
  4. イギリス植民地の時代
  5. インドとパキスタンの分離独立

ヒンドゥー文明に関してとてもよくしられているのがカースト制です。これは、身分階級制と職能集団がむすびついた「ヴァルナ-ジャーティ」制であり、侵略者や権力者が人民を支配し、国家統治をするために都合のよい制度でありましたが、一方で、伝染病(感染症)の蔓延をふせぐための「隔離」の役割もはたしていました。インドは熱帯に属し、高温・多湿、伝染病がしばしば発生する地域であり、ひとたび発生したならば感染者を隔離しなければなりません。隔離をつづけているうちに、特定の集団ごとにあらかじめ人々を隔離し、また人間と人間あるいは人間と家畜の接触を極力さける様式が確立しました。こうしておけば、伝染病が発生してもほかの集団への感染をふせぐことができます。

たとえば支配者からみて きたないとおもう職能集団は感染もしやすいとかんがえ、上位階級の人々は彼ら(不可触民)とは絶対に接触しませんでした。

インドにいってみたら、インド人は、たとえばペットボトルのミネラルウォーターをのむときに注ぎ口に絶対に口をつけません。上から喉に水をながしこむようにします。またトイレの便器は腰掛け式(洋式)よりも、接触のない しゃがみこみ式がこのまれます。あるいは食事のときには、自分の手をよくあらって自分の手でたべたほうが安全であり、スプーンなど、直接 口にいれるものを他者と共有するのは感染の危険があるとかんがえていました。

こうして、人民を支配する制度と熱帯の環境条件とがあいまって身分階級制がいちじるしく発達したというわけです。

一方、ヒンドゥー教の神々は、創造をつかさどる「ブラフマー」、維持・繁栄をつかさどる「ヴィシュヌ」、破壊・再生をつかさどる「シヴァ」の3神を基本とします。このような創造、維持・繁栄、破壊・再生というのはたいへん興味ぶかく、たとえばある時代が創造されると、それが維持されて繁栄する期間がつづき、しかし時代がくだるとあらゆることがゆきづまり、その時代は崩壊、破壊され、あらたに時代が再生、創造されます。

日本の歴史でも、たとえば室町時代の末期には信長が室町幕末を破壊し、秀吉と家康が、あたらしい時代を創造し、2代将軍、3代将軍・・・と、時代は維持され発展し、しかし幕末には、薩長によって徳川幕府は破壊されて江戸時代はおわり、明治新政府が創造され、そのご維持・発展、しかし第2次世界大戦では米軍により破壊され、あたらしい民主主義国家が創造され・・・、というように、「創造 → 維持・発展 → 破壊」のサイクルがくりかえされています。

このような「創造 → 維持・発展 → 破壊」のサイクルがくりかえされることは世界中のあらゆる地域でみられることであり、歴史の法則とこれはいってもよいでしょう。この法則があるからこそ「時代」というものが生じるのであり、はじまりがあればおわりがあるのであり、どこにいってもあるいはどの分野でも「○○時代」というものがいくつもみつかります。このように、「創造 → 維持・発展 → 破壊」という観点をもつと歴史がとてもよくみえてきます。重要な知見です。

ところで日本とインドの関係ということでは仏教が注目されます。インドでは、初期においては、アーリア人のバラモン教が信仰されていましたが、前5世紀に釈迦が仏教を創始しました。当時は、都市国家としてのマガダ国が成熟をみせる一方、領土国家(帝国)へむけて都市国家が膨張をつづける不安定な時代でもあり、政治・経済・農業・技術・医学などが合理的な方向に発達していき、原始的・民族的・伝統的な従来の宗教では解決できない問題が急増していました。このような、都市国家の時代から領土国家の時代への移行期に釈迦が出現したのであり、釈迦は、原始宗教から脱して、より学問的・合理的な高度な思想・実践体系をつくろうとした宗教改革者であったとみることができます。このような時代の潮流にも注意するとよいでしょう。

わたしは先日、釈迦の生誕地であるルンビニ(現ネパール領)にひさしぶりにいってみたところ、非常に多数のインド人仏教徒が参拝におとずれていました。20年前にはかんがえられなかったことです。インドでは仏教はかつてほろびましたが、近年、ふたたび仏教徒がふえてきています。インドの身分階級制において下位に位置づけられていた人々のなかにヒンドゥー教から仏教に改宗する人々が急増しています。

現代においてカースト制はゆるされるはずがありません。世界各国が非難しています。衛生状態もよくなり、医学も発達しています。インドも、あらたな転換期にさしかかっています。



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▼ 注1
「インドの叡智」展
会場:東洋文庫ミュージアム
会期:2019年1月30日〜5月19日
※ 写真撮影が許可されています。


▼ 参考文献
交易財団法人東洋文庫編集・発行『マハトマ・ガンディー生誕150年記念 インドの叡智展』(ガイドブック)2019年1月28日
長谷川啓之監修『現代アジア事典』文眞堂、2009年