空白領域にふみこみます。主体と環境の相互作用をしらべ、主体-環境系の運動をとらえることが肝要です。フィールドワークは、分析的な研究をへて、フィールドサイエンスへ発展します。
梅棹忠夫著作集第3巻『生態学研究』(中央公論新社)は、「フィールドの生態学」、「動物の社会的干渉」、「生物学の思想」、「自然と人間」の4部で構成されています。
フィールドワーク
1942年、京都帝国大学の探検地理学会は、今西錦司を隊長とする学術調査隊をミクロネシアにおくりました。また同年、今西錦司をやはり隊長とする探検隊が中国東北地区の北部大興安嶺に派遣されました。これらの探検隊によって、今西錦司をリーダーとする学生グループが形成されました。梅棹忠夫は、この「今西塾」の塾生であったのであり、梅棹の師は今西錦司でした。
北部大興安嶺の探検は、1942年5月から7月までの3カ月間おこなわれ、梅棹は、動物生態学および陸水学に関する観察をおもにおこないました。当時、北部大興安嶺はほとんどまったく調査されておらず、地上にのこされた最後の “空白地”(探検地)であったといってもよく、梅棹は、最後の “探検家”(冒険家ではない)のひとりでした。
満州の西部をほぼ南北にはしる大興安嶺山地のうち、ハルビン—マンチュリー鉄道が横ぎる線から北を、北部大興安嶺とよぶ。この地域の水は、その東斜面はノン江をへて松花江にそそぎ、西斜面および北斜面の水は、いくつかのおおきい水流によって、黒竜江本流およびその上流のアルグン川にそそぎこむ。
探検の結果、北部大興安嶺の川は渓流部がきわめてみじかく、ほとんどが沖積原を自由蛇行する非上流型の河川であることが特徴的であり、流域は、大部分がカラマツの森林地帯であり、河谷には、野地坊主およびミズゴケの湿原が発達していることがあきらかになりました。水温は一般にひくく、主としてこれは、この地方に発達した凍土層の影響によるとかんがえられ、また水質はつよい酸性であり、これは、森林と湿地の腐植質の腐植酸によるとかんがえられます。これらの性質は、満州の陸水としては特殊であり、この地域は、東シベリア地方の延長とみたほうがよいとおもわれます。またアムールイトなどの6種の魚について詳細にしらべ、さらにシカやウサギ・リス・クマ・オオカミなど、動物に関する調査もおこない、動物誌をまとめ、「大興安嶺探検隊採集動物目録」を作成ました。
そしてその後、1944年〜1945年には、中国・張家口の西北研究所に所属しながら、数度にわたってモンゴル草原を調査しました。草原の生態学的研究は、自然科学領域にとどまらずに家畜や牧畜民の研究など、すべての研究の基礎となりました。モンゴル草原を理解するためには、ゴビ砂漠や砂丘群といった異質な部分を草原(植生)の類型区分とどうむすびつけるかが重要です。
1955年には、京都大学は、木原教授を総隊長とする学術調査隊をカラコラム・ヒンズークシ地方におくりました。梅棹は、人類班に参加し、アフガニスタンにおいて、モンゴル系民族(現地では「モゴール」とよばれる)をあらたに発見、その調査をおこないました。
実験科学 - 動物の社会的干渉 -
1946年5月、梅棹は、中国から帰国して、京都帝国大学理学部動物学教室の大学院に復帰しました。日本国の敗戦により「フィールド」をうしなったため、オタマジャクシの集団の研究をあらたにはじめることにました。このとき、オタマジャクシのむれを、モンゴル草原のヒツジのむれのイメージにかさねあわせていました。
ウツワのなかにオタマジャクシのいくつかの個体をはなって、その行動を観察してみる。かれらは自由におよぎまわるが、それぞれの個体が、社会的に区別できるステータスをしめしている、あるいはしめるにいたる、とはかんがえられない。かれらのあいだには、組織はないとみてよいであろう。しかし、(中略)たがいの行動になんらかの影響をおよぼしあっているだろうとかんがえることは、むりなことではない。(中略)それをたしかなかたちでとらえることができたならば、組織のない社会においての個体どうしの社会関係とはどういうものであるか、具体的にかたることができるようになるだろう。
そして「社会干渉」を定義します。
ひとつの個体(イ)の行動についてかんがえれば、かれは、ほかの個体(ロ)の存在に対して、なんらかの反応をしめしたから、こういう結果になったのである。つまり(ロ)の存在は(イ)の行動のひずみの原因となった。こういう現象に対して、われわれは社会干渉ということばをあてることにしたいのである。
すなわち動物のある個体が、ほかの個体と一緒にいるときに、単独の場合とはちがった行動をしめしたならば、その個体は「社会干渉」をうけたということになります。この概念を集団にも適応するならば、もし個体のあいだに干渉がないならば、それらの個体のあつまりかたはランダムになるはずですが、もし干渉があるならば、個体は、集合するか分散するかのいずれかになり、逆に、個体の分布状態を観測して、ランダムからのかたよりをしらべれば干渉のあるなしをしることができるというわけです。
そしてこの仮説を、確率論にもとづいて理論式で表現しました。このような仮説あるいは理論式は「モデル」といってもよいです。
つぎに「ウツワ」(円形水槽)とオタマジャクシをつかって実験をくりかえし、膨大なデータを観測によってあつめ、それらが、理論式にあっているかどうかをたしかめることになります。その結果、ランダムとはことなるあきらかな分布状態が確認でき、干渉が実在するという結論がえられました。
こうして理論式(モデル)は実験によって検証され、仮説が実証されました。
この「モデル → 検証」という方法は、まさに自然科学の方法であり、実験科学的方法あるいは分析的方法あるいは客観的方法といってもよいでしょう。この方法では、定性的にだけでなく、定量的にもしめすことが重要です。
生態学の方法
ecology(生態学、ドイツ語では Ökologie)という語は、1869年に、ドイツの生物学者 ヘッケルによって「家」を意味するギリシャ語「oikos」からつくられました。この語は、住居としての家を原意において意味するとともに、そこにすむものとその生活一般をも意味し、生物の活動を、そのすみ場所ないしは環境との相互関係においてとらえていくという課題をもっていました。
そして日本での生態学の発展には今西錦司が貢献しました。
日本の生態学には、ややことばは不穏当かもしれないが、職人的綿密さはあっても理論的精密さはなかった。また、かぎられた視野のなかでの自然認識はすすんでも、生態学的世界観の構築というようなスケールのおおきい発想もなかった。そのような状況のなかにあって、強固な理論をもった雄大な生態学的世界像をくみたてようとしていた例外的学者が、今西錦司先生なのである。
今西生態学の理論体系は1930年代に芽ばえて、40年代に開花したといえるでしょう。それは、欧米の生態学を継承しながら、日本において独自の展開をとげたものでした。これには、アジア・太平洋諸地域における生態学的調査がおおきな役割をはたし、それらのフィールドワークをとおして「今西塾」あるいは「今西学派」が形成されていったのでした。
日本の生態学において特筆されるのは主体と環境のとらえかたです。
主体と環境をべつべつのものとするかんがえかたに問題がある。環境を固定的な舞台装置ないしは背景にみたて、主体をそこに演技する俳優とみる見かたは、まったくあやまっている。われわれは、とりあえず概念的に主体と環境を分極化してとりだすけれども、じっさいにうごいているのは、主体・環境系というひとつの系 system である。
わたしたちの世界には生物がいきており、生物のまわりのことを環境といいます。生物のことをより一般的に主体というならば、環境は、主体の単なる舞台装置や背景ではなく、主体と環境は一体になってひとつの系(システム)をつくっているのであり、本質的な役割をどちらもが同等にもっており、ひとつの系として変貌し発展していくことをしらなければなりません。環境が主体におよぼす作用をアクションとよび、主体が環境におよぼす作用をリアクションとよぶならば、アクションとリアクションは相互的かつ同時的につねに作用します。このような主体-環境系の運動をとらえることこそが重要です。
こうして、生物の標本を研究しているだけではない、実際に今いきている生物をその場で研究する分野としての生態学が発達し、植物を主体とする植物生態学、動物を主体とする動物生態学、人間を主体とする人間生態学が成立しました。
また生態学は、生物の進化の研究にもとりくみ、それは、遺伝学のような進化要因論ではなく、歴史としての進化をかんがえます。生物の進化というと伝統的には形態の進化をさしますが、形態だけで生物はいきているものではなく、生物には生活もあるのですから、生活をとおして進化もみとめられなければなりません。進化とは自然史であるとかんがえたほうがよく、形態的な進化は、進化の一面への投影にすぎません。
今日、大気や水の汚染をはじめとする環境問題が世界的な問題になっており、地球環境は危機的状況にあります。環境問題の解決のために、あるいは世界各地でおこなわれている地域開発にも、このような生態学にもとづいた調査と対策が必要です。環境保全をすすめ、地球の未来をつくっていくために、生態学の方法を誰もがまなばなければなりません。
*
梅棹忠夫は探検家でした。未開拓な領域にふみこんでいきました。そしてするどい観察と詳細な記載をくりかえし、膨大な報告書をまとめあげました。
探検は、空白域をうめていく行為です。パイオニアワークといってもよく、あたらしい課題につねにとりくみ、既存の常識にはとらわれず、それをうちやぶっていきます。これが、梅棹の実践をつらぬく原理であり、梅棹の独創は探検からはじまったといってよいでしょう。
そして敗戦後、「フィールド」を一時的にうしなったときには実験科学的研究にとりくみました。
モデルをまずつくり、観測データによってそれを検証していきます。自然科学には、解剖をしたり、顕微鏡観察をしたり、化学分析をしたりする手法もありますが、このときは、確率論をつかって集団の挙動を包括的に把握しようとしました。このようなアプローチのしかたも自然科学にはあり、たとえば気象学や海洋物理学などでもおなじような方法がつかわれています。
モデルが、データによって検証されるとモデルのたしからしさがつよまり、すると今度は、そのモデルにもとづいて未来の挙動や現象を予測することができます。ここに、自然科学のひとつのおもしろさがあります。
またモデルにあわないデータがいくらかあった場合、これは誤差かもしれませんがそうではない場合は、現象の「ゆらぎ」であるかもしれません。自然界にはいたるところにゆらぎがあり、確率をこえるあらたな展開がゆらぎからはじまります。
またこのような方法によって、定性的にとらえていたことを定量的にもとらえなおすことができ、認識はいっそうふかまります。
そして、フィールドワークが「解禁」になると、梅棹は、フィールドの生態学にもどっていきます。
生態学の基本モデルは「主体-環境系」であり、主体とは、植物あるいは動物あるいは人間のことであり、主体と環境の相互作用をしらべ、主体-環境系の自己運動をとらえることが肝要です。
主体-環境系では、主体から環境への作用と同時に、環境から主体への作用もあります。作用とは、エネルギー・物質・情報の流れといってもよく、環境から主体への流れは「インプット」、主体から環境への流れは「アウトプット」とかんがえるとわかりやすいでしょう(図1)。
図1 主体-環境系のモデル
これらの作用あるいは流れが主体と環境をむすびつけており、主体と環境は、ひとつの系あるいは現象のことなる側面であるととらえられます。
したがってたとえば環境における変化を観測したり、物質を化学分析したりしているだけでは主体-環境系のことはわかりません。環境科学や地球環境学とよばれる分野の研究者もこのことに気がつかなければなりません。
さらに梅棹は、フィールド(現場)のデータを類型概念でまとめているだけでは不十分であり、原理・法則を追求するところまでおこなわないと本格的な学問にはならないとのべています。状況把握にとどまらずに本質追求までおこなえということです。
フィールドワークでえられた多様かつ膨大なデータ(情報)を報告書や論文として文章化していくときに、似ているデータをグループにしてまとめていくというやり方があり、これは、類型概念でまとめていく方法であり、「類型分類」という人もいます。
これはこれで重要なことですが、しかしその先も必要だということです。そためのステップとして、「モデル → 検証」という方法が役立ちます。原理や法則にアプローチでき、法則性があきらかになれば今後の現象も予測できます。
こうして、フィールドワークは、分析的方法をへて、本格的な生態学、フィールドサイエンスへと発展します。現場の記載・報告にとどまらず、原理や法則をあきらかにし、未来を予測できるようになります。
梅棹の民族学も文明学も情報論もこのような方法によって構築されたのであり、すべての根元は生態学から発しています。『比較文明学研究』を理解するためにも『生態学研究』をよんでおくべきでしょう。
たとえば『文明の生態史観』や『比較文明学研究』によると、梅棹は、フィールドワークで「中洋」を発見したことなどにもとづいて「文明の生態史モデル」(仮説)を立案し、そしてあらたな取材(データ収集)によってこのモデルを検証、モデルの確度がたかまると、モデルにもとづいて、生態系は「文明系」へ移行すると予測しました。ここにも、「モデル → 検証」そして予測という方法がつかわれているではないですか。
梅棹は、理系から文系に転向したというみかたをしている人もいますが、かならずしもそうではなく、主体-環境系のモデルにおいて、主体が当初は動物だったところを人間におきかえて研究をすすめたととらえたほうがよいでしょう。
たとえば『文明の生態史観』や『比較文明学研究』によると、梅棹は、フィールドワークで「中洋」を発見したことなどにもとづいて「文明の生態史モデル」(仮説)を立案し、そしてあらたな取材(データ収集)によってこのモデルを検証、モデルの確度がたかまると、モデルにもとづいて、生態系は「文明系」へ移行すると予測しました。ここにも、「モデル → 検証」そして予測という方法がつかわれているではないですか。
梅棹は、理系から文系に転向したというみかたをしている人もいますが、かならずしもそうではなく、主体-環境系のモデルにおいて、主体が当初は動物だったところを人間におきかえて研究をすすめたととらえたほうがよいでしょう。
『比較文明学研究』によると、気候の分布と文明の分布とのあいだに対応関係があります。これは、環境が文明を決定しているということではありません。環境から、そのなかでくらす人々への作用はもちろんありますが、人々は、ただ受け身でいきているのではなく、住居を建設したり農地をつくったり治水・治山をしたり、環境を改変しながら(環境に作用をあたえながら)、地の利をいかしてくらしています。
それぞれの地域に、独自の文明がそれぞれに発生したのは、その地域でくらす人々とその人々をとりまく環境との相互作用の結果であり、その地域固有の「人間-環境系」の運動があったからです。一方的に環境が人間を支配するのでもなく、一方的に人間が環境を支配するのでもなく、環境が人間に作用し、同時に、人間が環境に作用します。こうして、その地域独自の歴史も生じてきたとのだとかんがえられます。
▼ 関連記事
梅棹忠夫『比較文明学研究』をよむ
今西錦司『生物の世界』をよむ
▼ 参考文献
梅棹忠夫著作集第3巻『生態学研究』中央公論新社、1991年4月25日