熊野は、近畿地方にあって縄文文化の面影がもっとものこるところです。日本文化は、縄文文化が基層になってできています。日本の原郷を旅すればもっと自然な生き方がみつかります。
梅原猛著作集第6巻『日本の深層』(小学館)の第2部は「日本の原郷」としての熊野についてかたっています。




熊野三山
熊野は、「牟婁」(むろ)という地方(和歌山県東牟婁、西牟婁、三重県北牟婁、南牟婁の四郡をふくむ地方)の総称であり、「ムロ」というのは、アイヌ語で「洞窟を住居にしたもの」を意味します。おそらく、紀伊半島南端の人たちは大昔には洞窟を住居としており、ムロという地名にその名残がのこったものとおもわれます。

現在は、熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)を中心とする熊野信仰の地としてしられています。

那智の滝の前にくると、それは峻厳にして華麗です。那智の神は、この滝をそのままを神として祭ったものであり、この神はまったく自然神であり、滝そのものが神体になっています。

那智には、青岸渡寺という寺院が神社とともにのこされており、西国三十三ヵ所の観音霊場の第一番となっています。青岸渡寺という意味は、青い海を渡るとそのむこうに観音浄土があるという観念をしめし、これは、那智の山をおりた浜辺にある補陀洛山寺(ふだらくさんじ)によって具体化され、一定の儀式をしたあとに上人を船にのせ、その扉を釘付けにして外にでられないようにし、補陀洛世界すなわち観音浄土がある南の方へ船をはなつという儀式がおこなわれていました。

那智とちがって新宮の神は速玉神として『続日本紀』に記事があり、熊野本宮の神とおもわれる熊野坐神も熊野速玉神とおなじあつかいをうけているので、新宮の神と本宮の神は関係があります。速玉神というのは、海上の安全と航海の無事をいのる船の神でしょう。新宮は、熊野川の入り口にあり、本宮は、熊野川の上流の、熊野本流と音無川が合流する地点にあり、熊野本宮はもともとは川の中州にありました。このようなことから新宮と本宮は、船あるいは川の神であったことはまちがいありません。

また阿弥陀寺は女人高野ともいわれ、この奥の院は死者の世界とつながっていて、死者とであうことができるといいます。



神武東征
熊野は、『古事記』と『日本書紀』においては、神話時代およびそれにつづく最初の歴史時代「神武東征」において姿をあらわします。南九州でくらしていたある稲作農業集団は、瀬戸内海を東上して大阪湾の日下に上陸しました。そして生駒をこえて東へむかいましたが、大和の先住者の抵抗にあって大敗、やむなく紀伊半島を船で南下、熊野に上陸しました。その後、そこにいた高倉下(たかくらじ)の援助をうけて熊野から吉野へでて、大和の背後を今度はおそいました。先住民の大和は完敗し征服され、そして橿原で、神武天皇が即位、日本国の礎ができました。

記紀神話においては、あきらかに2つの神の系譜があります。ひとつは征服する神であり、アマテラス、ニニギの系譜、アマツカミと称されます。もうひとつは征服される神々の系譜であり、それはスサノオ、オオクニヌシの系譜、クニツカミとよばれます。アマツカミははっきり稲作農業民の神であり、クニツカミは狩猟採集民的な神です。

  • 征服する神:アマツカミ(アマテラス、ニニギ)
  • 征服される神:クニツカミ(スサノオ、オオクニヌシ)

神武天皇はアマテラスやニニギの子孫とされます。

縄文時代までの日本列島では稲作農業はおこなわれておらず、弥生時代になってから稲作農業集団が朝鮮半島から渡来してきたということが考古学や人類学から今ではよくしられています。したがって、そのような「渡来人」(弥生人)が、九州あるいは西日本から東方へ移住してきたということは十分にありえることです。



熊野詣
熊野三山に参詣すること熊野詣といいます。修験者によって宣伝され、平安時代とくに院政末期に、上皇を中心とする貴族のあいだに流行しました。鎌倉時代以後は、武士や庶民の参詣が「蟻の熊野詣」といわれるほどさかんとなり、江戸時代初期までおこなわれました。

日本では、奈良時代がおわって平安時代になると神と仏を共存させる信仰がおこり、インドの仏たちが姿をかえて日本にあらわれて神々になったという本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)がとなえられました。そしてこのような思想にもとづいて修験道があらわれました。それは、土着の神崇拝と仏教が混合し、山を聖地として、回峰すなわち山めぐりをおもな宗教的な行事とする宗教です。修験道は真に日本的な宗教であり、熊野崇拝は修験道とふかくむすびついていました。

熊野信仰は、このような思想的な流れのなかでさかんになっていきました。

熊野には、太古の風習がのこっていて、熊野は、「根の国」「常世の国」すなわち死の国とむすびついているとおもわれていました。熊野は、山のなかの山、死者の国のなかでもっとも死者の国らしいところです。こうして熊野は聖地となり、熊野三山とくに本宮は阿弥陀浄土と同一視されました。

梅原猛さんは、「十世紀初期に始まり、十二世紀の末に頂点に達する「蟻の熊野詣」といわれる熱狂的な熊野崇拝は、結局、異世界としか考えられなかったこの縄文文化、死の文化、かくれ世の文化への回帰の情熱のあらわれである」とのべています。



南方熊楠
南方熊楠は和歌山市の生まれの博物学者であり、熊野を終生このみ、この自然のゆたかな地で、苔の新種など、数々の大発見をしました。そして熊野の入り口、田辺にすみました。熊楠は、野にあった大学者であり、熊野がうんだ奇才のひとりとしてわすれることはできません。



縄文人と弥生人
日本人は2つの民族からなりたっています。ひとつは土着の先住民族である縄文人、もうひとつは大陸から渡来した弥生人です。縄文人は、太古から山に木の実をとり、海に魚をとる生活をつづけていました。一方、弥生人は稲作農業をいとなむ民族であり、平地を開拓し、そこをクニとして稲をうえました。弥生時代は、狩猟採集国から農業国に日本がかわった時代です。

九州北部などに上陸した弥生人たちはすこしずつ東へ移動していきました。先住民の土地を侵略したり、先住民との混血もすすんだりしたでしょう。しかし彼らには、稲作農業をいとなむための平地がどうしても必要でした。

その結果、山間や海浜に先住民である縄文人がのこったのです。熊野は、近畿地方において、縄文文化の面影をもっともとどめる地域となりました。熊野は、あきらかに土着の神と関係しています。熊野には、ふかい山の霊気がそのままのこっています。熊野の神は縄文の神といってもよいでしょう。歴史時代にはいっても、人々は、地上の権力に対する超越的なものをここで感じとったにちがいありません。






熊野は、以上のようによむことができます。一見、不可思議で複雑な熊野は、縄文文化の観点からとらえなおすとかなりみえてきます。

そもそも日本人の生活様式や行動様式が、おなじアジア人であっても大陸の民族とはかなりことなるのは、縄文文化にその理由をもとめることができます。大陸の文化である弥生文化がはいってくるまえに、独自の縄文文化があり、それが、日本文化の基層になって、さまざまな場面でおおきな影響をいまでもおよぼしているという仮説がたてられます。

このような意味で、熊野は、複雑な日本文化を理解するためのモデルとしても参考になります。梅原猛さんの『日本の深層』は、わかりにくい日本文化をよみとくための入り口であり、またその方法を伝授するものです。

たとえば森羅万象に仏性をもとめる「山川草木、悉皆成仏」という重要な思想もこのような観点から理解することができます。あるいは日本人のまじめさ・正直さ・勤勉さ・几帳面さ、集団行動、ものづくりが得意なこと、アジア諸国に先がけて近代化をすすめたことなどにも縄文文化が作用しているかもしれません。
 
梅原猛さんは、「熊野詣再興の熱い願い」を秘めて本書を書いたといいます。熊野詣といったことまでかんがえなくても、東北地方や熊野などの「原郷」を旅して「原日本」の空気にふれてみれば、ストレスから解放されて、個性的でもっと自然な生き方がみつかるかもしれません。 


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▼ 参考文献