調査旅行が容易になり、自然に関するデータが蓄積されてきました。サイエンスが宗教から独立しました。進化論は、社会的・歴史的にも重大な影響をもたらしました。
『ダーウィン進化論』(ニュートンムック)の第3章では「人物からみた古典的進化論の系譜」と題して、ジャン=ラマルク、チャールズ=ライエル、チャールズ=ダーウィン、アルフレッド=ウォレスの業績を紹介しています。


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ジャン=ラマルク
ジャン・ラマルクは1744年に、北フランスのバザンタンに貴族の子としてうまれました。父のもとめにしたがって最初は神学をまなび、1960年に父がなくなると自分の意志で軍人になりました。病気のために退役し、1768年に、パリへでて医学の勉強をはじめ、そのかたわら気象学・化学・植物学をまなび、1778年に、『フランス植物誌』を出版しました。この成果がみとめられて1779年に、フランス科学アカデミーの準会員に、1783年にはその正会員となりました。

ラマルクは、王室所属の植物学者ともなり、ヨーロッパ各地を1781年に旅行し、植物や鉱物の標本を採集しました。王立庭園と陳列館につとめていましたが、フランス革命により、陳列館はパリ国立自然史博物館になり、1793年に、この博物館の動物学教授に任命されました。

そして1801年には『無脊椎動物の体系』、1802年には『生物の体制の研究』、1809年には『動物哲学』、1815〜22年には『無脊椎動物誌』(全7巻)を出版しました。『動物哲学』は彼の代表作となりました。そして彼の論敵であるフランスの博物学者ジョルジュ=キュビエ(1769〜1832)とであいます。

キュビエは、化石の研究をしているあいだに、より原始的な生物の化石がよりふるい地層にふくまれていることに気がつきました。彼は敬虔なユグノー教徒(キリスト教カルバン派プロテスタント)であったので、ちがう化石が地層ごとにでてくるのは、『旧約聖書』の創世記にでてくる「ノアの洪水」のような天変地異によるためだとかんがえました。

これに対してラマルクは『動物哲学』のなかで生物進化のかんがえをはっきりとうちだし、「最も単純な生物からほかのすべての生物が進化してきた」とのべました。そして「後天的な形質(獲得形質)の遺伝が進化の原動力である」とかんがえました。天候・温度・高度など、環境からくる要素が生物にはたらき、生物をかえていきます。さむくて食料のとぼしい高山にすんでいる動物と、あたたかくて植物のしげった山のふもとにすんでいる動物とでは、その形・色・機敏性・寿命などに差があります。これらの後天的な性質が後代につたわることによって生物界がより複雑になるのではないか。こうしてキリンはながい首を、水鳥は水掻きを、ゾウは巨大な体をもつようになったのだとかんがえました。

これに対してキュビエは、あらゆる機会をとらえてラマルクを非難し、ナポレオン皇帝のまえでもラマルクをこきおろしました。キュビエの策略のために、『動物哲学』が当時最高の博物学の本だったことは皇帝らにはわかりませんでした。

ラマルクは、1829年12月にパリでなくなりました。



チャールズ=ライエル
チャールズ=ライエルは1797年に、スコットランドのフォーファーシャーのキノーディでうまれました。その後、イングランド南部のリングウッドへひっこしました。

1816年に、オックスフォード大学にはいり昆虫学や地質学の講義をきき、1819に、バチュラーの称号をとり、翌年からは、ロンドンにでて法律の勉強をはじめました。

ライエルは地質学を趣味でやっていましたが、1824年に、スコットランドの地質の研究をし、1827年には、法律を断念して地質学に専念するようになりました。そして『地質学原理』全3巻(1830〜1833)をかきあげました。

地球上には、たかい山やふかい海があり、山の地層のあるものはひどく褶曲しており、海には、厚い堆積物がたまっているところがあります。当時の地質学の先生たちは、こういった地質現象は、旧約聖書の「ノアの洪水」のような天変地異によるものだとおしえていましたが、ライエルは、われわれの目の前で現在おこっている現象が地質現象の原因である、今おこっている現象は過去にもおこっていたと主張しました。

ライエルは、かならず現場にいって観察をし、岩石の風化、河川による地層の浸食、河川による運搬や堆積、火山と溶岩などを自分の目で確認しました。

イタリアで海成層をしらべていたときには、現在でも地中海でいきている貝類の化石が地層中にふくまれていることに気がつき、地層にふくまれる現存の貝類と今は絶滅した貝類の化石の割合をつかって、地層をふるい順に、「始新世(Eocene)」「中新世(Miocene)」「鮮新世(Pliocene)」の3つにわけ、地質年代区分を提唱ました。これらの名称は現在でもつかわれています。

ライエルの『地質学原理』は12版をかさね、版をかさねるごとにあたらしいデータをおりこんでいきました。

1831年〜1836年にかけてビーグル号にのって世界周航をしたチャールズ=ダーウィンはライエルの『地質学原理』をたずさえ、愛読していました。この本は、進化論の形成にもおおきな影響をあたえました。

1875年2月、ライエルはロンドンでなくなり、ウェストミンスター寺院にほうむられました。



チャールズ=ダーウィン
チャールズ=ダーウィンは1809年に、イングランド・シュロップシャーのシュルーズベリーでうまれました。彼の父親は、法律家に彼をしようとはじめはおもいましたがあきらめ、エジンバラにおくって医学を勉強させましたが興味をしめさなかったため、つぎに牧師にしようとおもってケンブリッジ大学へやりましたが、そこで、ダーウィンは博物学に熱中しました。

そして1831年12月27日、イギリス南西部のデボンポートから軍艦ビーグル号にのって世界一周の航海に出航しました。ダーウィン22歳のときです。

3週間ほどで、アフリカ大陸沖にうかぶケープベルデ諸島につきます。

1832年2月には、南アメリカのバイアにつき、こののち、南アメリカ海陸沿岸の各地に停泊しながら航海をつづけていきます。

1833年8月、エルカメルンに到着します。ダーウィンは、ビーグル号を一旦おりて内陸を旅します。その途中のプンタアルタでは貝類をふくむ地層を発見します。かつてはここは海であり、土地が隆起したのだとかんがえました。また大型の哺乳類の化石も発掘します。

ビーグル号は、大西洋岸の測量をつづけ、1834年1月26日にマゼラン海峡にはいり、太平洋にでます。1835年7月まで太平洋岸に滞在し、ダーウィンは、アンデス山脈をおとずれ、化石や植物の観察・採集をつづけます。

1835年9月15日、ガラパゴス諸島に到着します。スペイン人司教によってここが発見されたのはビーグル号がくる約300年前のことであり、巨大なゾウガメがたくさんいたことから「イスラス・ガラパゴス」とよばれ、スペイン語でこれは「カメのすむ島」という意味です。

ダーウィンは、諸島のうちの4つの島に上陸して観察・採集をつづけ、諸島の生物は固有の種ではあるが、南アメリカの生物とちかい関係にあることをみいだします。

ダーウィンは、ガラパゴス諸島で26種類の陸鳥を採集し、なかでもフィンチに興味をもちました。フィンチのくちばしが種によってすこしずつことなっていることに注目し、これらが、ひとつの共通祖先から変化してきたのではないかとかんがえ、進化論への最初のヒントをえたといわれています。

そのご一行は、ガラパゴス諸島から25日をかけてタヒチに到着、オーストラリア南西部をまわって、1836年4月1日、インドネシア南西に位置するキーリング諸島にやってきます。ここでは、珊瑚の環礁が島の沈降によって形成されることをみいだします。

その後、アフリカの喜望峰をまわり、正確な経度を確認するために南アメリカをふたたびおとずれ、1836年10月、イギリス南西部のファルマスの港に帰還します。ダーウィン27歳のときでした。

ダーウィンは航海での経験をまとめ、1839年に、『ビーグル号航海記』を出版しました。その後1859年に『種の起源』を出版しました。『種の起源』は、第6版(1872年)まで改訂がつづけられました。

ダーウィンは、1876年に刊行した自伝でつぎのようにのべています。「ビーグル号の航海は私の全生涯を決定した。航海で学んだ自然科学に対する姿勢が、私の科学的な活動を可能にした」。

1882年4月19日、ダーウィンは生涯をとじ、ウェストミンスター寺院に彼の遺骸はほうむられました。



アルフレッド=ウォレス
アルフレッド=ウォレスは1823年、イギリス南西部(ウェールズ)にあるモンマスシャー州のアースクにうまれました。

1842年、ダーウィンの『ビーグル号航海記』をよんでつよい刺激をうけました。とくにその17章にでてくるガラパゴス諸島についての記述にもっとも注目しました。

1848年〜52年には、南アメリカのアマゾン地方へ博物採集へでかけ、1853年には、その見聞記『アマゾンおよびリオ・ネグロへの旅行物語』を出版しました。

1854年〜62年には、マレー半島とインドネシア諸島を旅行して動物標本をあつめ、1869年には『マレー半島』を出版しました。

ウォレスは、インドネシアのバリ島とロンボク島のあいだからカリマンタン島とスラウェン島のあいだをとおり、フィリピン諸島の南にいたるほぼ南北にはしる線を境界にして、生物の特徴がことなることを発見しました。「ウォレス線」とこの線はのちによばれます。この線の東の地域(オーストラリア区)では、ほかの地域にくらべて動物が原始的であることに気がつき、ほかの地域の動物が進化するまえに、オーストラリアが地理的に孤立したのではないかとかんがえました。このような業績から「生物地理学の父」とウォレスはよばれることがあります。

ウォレスは、ダーウィンとは独立して進化論をまとめあげ、ダーウィンに手紙にしてそれをおくりました。ダーウィンは、みずからの進化論との一致に大変おどろき、ウォレスの原稿を、ダーウィンの未発表の論考とともに1858年のロンドン・リンネ学会で発表しました。そして翌年に、『種の起源』を出版しました。




以上のように、ジャン=ラマルク、チャールズ=ライエル、チャールズ=ダーウィン、アルフレッド=ウォレスが進化論の形成におおきな役割をはたしました。

進化論が提唱されるまでは、自然は、聖書の記述にもとづいて解釈されるものであり、それまでは、宗教と学問は一体のもので未分化の状態でした。それにそもそも、人間とサルが共通の祖先をもつなどということは、“ただしい” 教育をうけて常識を身につけた立派な大人には到底うけいれられないことでした。

しかし一方で当時は、それまでよりも調査旅行がはるかに容易になり、自然の標本やデータが大量にえられるようになった時代でもありました。ビーグル号の航海はその最たる例です。

観察によりデータが蓄積されてくると、観察事実にもとづく客観的な研究ができるようになります。聖書や文献にどうかいてあるかよりも、膨大なデータのほうが力をもってきます。このようにして、自然の研究が宗教から独立して自由になっていったのであり、これが「サイエンス」誕生の「瞬間」でした。

こうして進化論は、単なる科学理論としておわることなく、社会的・歴史的にも重大な影響をもたらすことになったのです。

このように、進化論の系譜をみてくると、観察とデータの蓄積がいかにおおきな力をもつかがわかってきます。この〔観察(内面へのインプット)→ データ化(アウトプット)〕という方法はとても重要であり、このことは現代でもいえることです。膨大なアウトプットが世の中をかえていきます。


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▼ 参考文献
 『生誕200周年、『種の起源』150周年 ダーウィン進化論』(ニュートンムック)ニュートンプレス、2009年3月10日