幸福とは各人においてオリジナルなものです。創造的になるためにはアウトプットまでおこなうようにし、ときに決断が必要です。人生は旅です。
NHK Eテレ・100分 de 名著、今月は、三木清著『人生論ノート』をアンコール放送しています(注)。
成功と幸福は別物です。成功とは、たとえば組織のなかで出世するとか、一般的で量的なものですが、幸福とは各人においてオリジナルなものです。成功は直線的な向上ですが、幸福には進歩というものはありません。「成功こそが人生の幸福である」と誤解していると、昇進をちらつかせる上司や組織のなかでいとも簡単にコントロールされる人間になってしまいます。また「目的を達成すれば幸福になれる」と誤解していると、目的を達成した直後に没落がはじまります。
たとえばテレビの娯楽番組をぼんやりみているだけでは真に生活をたのしむことはできません。傍観するのではなく、当事者として参加し、みずからつくっていくことが大切です。鑑賞したり知識をたくわえたりするだけでなく、みずから創造することが重要です。たとえば古今の名句をよんで蘊蓄をかたむけるだけでなく、みずから句作をたのしみ、きわめることが肝要です。人間主体の情報処理でいうと、インプットでおわらせず、アウトプットまでおこなうということです。
おおくのことをあきらめたけれど、最後の最後にのこったものについて、「これこそ自分が本当に希望していたものだ」だとおもえるなら、どれほどおおくの夢をあきらめたとしても、夢をかなえた人生だといえるでしょう。ながくつづけてきたことがたとえあったとしても、それが自分にむいていないとわかったときはきっぱりと断念し、ちがう道をえらぶ勇気が必要です。断念は、真の希望につながります。決断といってもよいでしょう。
無条件降伏後、戦争批判派(思想犯)がただちに釈放されなかったのは、都合のわることをいわれるのではないかという危惧がときの政府にあったからでしょう。ときの内閣は「一億総懺悔論」をふりかざし、「国体を批判する左翼勢力は戦争中と変わらず厳しく取り締まる」と公言しました。三木は兵士として、前線にまでおもむいた貴重な哲学者でしたので、もし生きのこったならば、戦争体験に根ざしたオリジナルな哲学を構築したにちがいありません。
このように、三木清の『人生論ノート』をよみなおしてみると、今日のわたしたちにも通じる言葉がたくさんあることがわかります。それは、戦前・戦中の日本社会と今日の日本社会とのあいだに似たようなことがおおいということもあるからでしょう。こうした時代背景もあって NHK Eテレ でとりあげられたのだとおもいます。
三木は獄中死しましたがこうして著作をのこしてくれたので、わたしたちは三木のメッセージをうけとり、今を生きる糧とすることができます。また三木のおもいを現代社会につぐこともできます。
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今を生きる - 100分 de 名著:三木清『人生論ノート』-
生きがいを発見し、決断する
▼ 注
NHK Eテレ・100分 de 名著:三木清『人生論ノート』
▼ 参考文献
岸見一郎著『100分 de 名著 201811月』(三木清『人生論ノート』)NHK出版、2018年
三木清著『人生論ノート』新潮社、1954年
成功するということが人々の主な問題となるようになったとき、幸福というものはもはや人々の深い関心でなくなった。成功と幸福とを、不成功と不幸とを同一視するようになって以来、人間は真の幸福が何であるかを理解し得なくなった。
成功と幸福は別物です。成功とは、たとえば組織のなかで出世するとか、一般的で量的なものですが、幸福とは各人においてオリジナルなものです。成功は直線的な向上ですが、幸福には進歩というものはありません。「成功こそが人生の幸福である」と誤解していると、昇進をちらつかせる上司や組織のなかでいとも簡単にコントロールされる人間になってしまいます。また「目的を達成すれば幸福になれる」と誤解していると、目的を達成した直後に没落がはじまります。
娯楽というものは生活を楽しむことを知らなくなった人間がその代りに考え出したものである。それは幸福に対する近代的な代用品である。幸福についてほんとに考えることを知らない近代人は娯楽について考える。
仕事におわれる日々からのつかの間の逃避が娯楽です。息ぬき、気ばらし、うさばらし・・・。はたらいている時間に対してあそんでいる時間、真面目な活動に対する享楽です。金曜日の夜になれば酒がのめる。現代人は、こうした娯楽をもとめ、二重生活者になっています。
しかしこのような娯楽は本当のたのしみではありません。では真に生活をたのしむためにはどうあればよいのでしょうか?
単に見ることによって楽しむのでなく、作ることによって楽しむことが大切である。
たとえばテレビの娯楽番組をぼんやりみているだけでは真に生活をたのしむことはできません。傍観するのではなく、当事者として参加し、みずからつくっていくことが大切です。鑑賞したり知識をたくわえたりするだけでなく、みずから創造することが重要です。たとえば古今の名句をよんで蘊蓄をかたむけるだけでなく、みずから句作をたのしみ、きわめることが肝要です。人間主体の情報処理でいうと、インプットでおわらせず、アウトプットまでおこなうということです。
人生においては何事も偶然である。しかしまた人生においては何事も必然である。このような人生を我々は運命と称している。人生は運命であるように、人生は希望である。運命的な存在である人間にとって生きていることは希望を持っていることである。
おおくのことをあきらめたけれど、最後の最後にのこったものについて、「これこそ自分が本当に希望していたものだ」だとおもえるなら、どれほどおおくの夢をあきらめたとしても、夢をかなえた人生だといえるでしょう。ながくつづけてきたことがたとえあったとしても、それが自分にむいていないとわかったときはきっぱりと断念し、ちがう道をえらぶ勇気が必要です。断念は、真の希望につながります。決断といってもよいでしょう。
期待は他人の行為を拘束する魔術的な力をもっている。我々の行為は絶えずその呪縛のもとにある。道徳の拘束力もそこに基礎をもっている。他人の期待に反して行為するということは考えられるよりも遙かに困難である。時には人々の期待に全く反して行動する勇気をもたねばならぬ。世間が期待する通りになろうとする人は遂に自分を発見しないでしまうことが多い。
周囲の期待にこたえることばかりをかんがえていると自分をみうしなってしまいます。ときには、周囲の人々の期待に反して行動する勇気をもたなければなりません。
それは創造的になるということであって、利己主義になるということではありません。みずから創造する人と利己主義者とはちがいます。利己主義者は不気味な存在です。彼は想像力のない作為的な人間だからです。たとえばわたしたちの社会は「ギヴ・アンド・テイク」の原則でなりたっており、他人の立場・事情・心情を想像できれば利己的であることは困難です。しかし利己主義者には想像力がなく、相手のことがわからず、相手を信用することができません。信用なくして対人関係は成立せず、したがって利己主義者は猜疑心につねにくるしめられています。
それは創造的になるということであって、利己主義になるということではありません。みずから創造する人と利己主義者とはちがいます。利己主義者は不気味な存在です。彼は想像力のない作為的な人間だからです。たとえばわたしたちの社会は「ギヴ・アンド・テイク」の原則でなりたっており、他人の立場・事情・心情を想像できれば利己的であることは困難です。しかし利己主義者には想像力がなく、相手のことがわからず、相手を信用することができません。信用なくして対人関係は成立せず、したがって利己主義者は猜疑心につねにくるしめられています。
また利己主義者は、自己の特殊な利益を一般的な利益であるかのごとく主張する癖をもちます。「会社のために」「国益のために」「社会のために」・・・。私利私欲がすけてみえます。
それではどのようにすれば創造的な人間になれるのでしょうか?
それではどのようにすれば創造的な人間になれるのでしょうか?
今日の人間の最大の問題は、かように形のないものから如何にして形を作るかということである。
これはまさに現代に通じる言葉です。今日のわたしたちは、インターネットを通じて無数の人やものとつながっています。しかしネット上では、顔も表情も風貌もはっきりしません。どんな人がその情報を発信しているのかわかりません。現代社会は、無名であり無定形・無性格・無限定の「形のない」世界です。したがって大勢とつながっているのに人は孤立しています。
そこで想像力や構想力がもとめられます。矛盾や対立はそのままにしておけば衝突や抗争にいたりますが、それぞれの要素の配列をくみかえて適切に空間配置をすればあらたな秩序を形成できます。内包する多様な要素の配列やくみあわせをかえ、適切に位置づけていく「混合」の弁証法を三木は提唱しています。これは、外側からただながめているのではなく、みずからかんがえ、その生成の過程にコミットしていく生き方であり、カオスからコスモスを主体的に生成する方法といってもよいでしょう。
渾沌のうちにあって矛盾するものをきりすてるのではなく、要素の配置やくみあわせをかえ、あたらな意味をづけをすることで真の秩序はうまれます。こうして外的な秩序のみならず、心の秩序もうまれます。「こうすべきだ」といわれたことや、「普通はこうするもの」といった常識に無自覚にしたがうのではなく、いったんたちどまってかんがえなす、うたがいをもつことも心の秩序をつくるために重要でしょう。そしてみずから表現すること、発信する(アウトプットする)ことが、志をおなじくする相手をそして自分自身を救済することになります。
旅に出ることは日常の生活環境を脱けることであり、平生の習慣的な関係から逃れることである。旅の嬉しさはかように解放されることの嬉しさである。出発点が旅であるのではない、到達点が旅であるのでもない、旅は絶えず過程である。真に旅を味い得る人は真に自由な人である。旅することによって、賢い者はますます賢くなり、愚かな者はますます愚かになる。日常交際している者が如何なる人間であるかは、一緒に旅してみるとよく分るものである。人はその人それぞれの旅をする。旅において真に自由な人は人生において真に自由な人である。人生そのものが実に旅なのである。
「旅について」三木は最後にかたっています。人生は旅です。旅にでれば、習慣的な行為、常識的な思考から脱却することができます。また到達点にいたるまでの過程を味わい大切にすることができます。「目的を達成する」という誤解からときはなたれます。瞬間に旅があり、瞬間に人生がうまれます。
旅の行きつくところは死です。しかし死が何であるかははっきりとは誰にもこたえられません。「人生は未知のものへの漂泊」なのだと三木はいっています。
三木は獄中で終戦を迎えますが、一カ月を経ても釈放されず、拘置所で感染した疥癬に苦しみ、急性腎炎を獄中で罹患。九月二十六日、誰にも看取られることなく、苦しさのあまり寝床から転がり落ちて絶命しました。
無条件降伏後、戦争批判派(思想犯)がただちに釈放されなかったのは、都合のわることをいわれるのではないかという危惧がときの政府にあったからでしょう。ときの内閣は「一億総懺悔論」をふりかざし、「国体を批判する左翼勢力は戦争中と変わらず厳しく取り締まる」と公言しました。三木は兵士として、前線にまでおもむいた貴重な哲学者でしたので、もし生きのこったならば、戦争体験に根ざしたオリジナルな哲学を構築したにちがいありません。
このように、三木清の『人生論ノート』をよみなおしてみると、今日のわたしたちにも通じる言葉がたくさんあることがわかります。それは、戦前・戦中の日本社会と今日の日本社会とのあいだに似たようなことがおおいということもあるからでしょう。こうした時代背景もあって NHK Eテレ でとりあげられたのだとおもいます。
三木は獄中死しましたがこうして著作をのこしてくれたので、わたしたちは三木のメッセージをうけとり、今を生きる糧とすることができます。また三木のおもいを現代社会につぐこともできます。
なお『人生論ノート』には難解な表現が多々みれれますが、これは、言論弾圧がおこなわれていた戦時下という特殊な事情があったため、哲学用語やレトリックをつかって晦渋な書き方をするほかなかったためです。番組指南役の岸見一郎さんは、三木がしめした言葉よりも、三木がさししめしたもっと先の方をみなければならないと指導しています。一語一句にとらわれるよりも著者が何をつたえたかったのか、彼のメッセージをとらえることの方が大事です。このことは実際には、あらゆる読書でいえることです。
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生きがいを発見し、決断する
▼ 注
NHK Eテレ・100分 de 名著:三木清『人生論ノート』
▼ 参考文献
岸見一郎著『100分 de 名著 201811月』(三木清『人生論ノート』)NHK出版、2018年
三木清著『人生論ノート』新潮社、1954年