会場入口
(平行法で立体視ができます)
(平行法で立体視ができます)
ものごとの本当のおもしろさ、最高の味わいを意味する醍醐味は、仏の最上の教え(最上の仏法)の意味でもつかわれます。醍醐水は今でもわきだしています。
大阪湾まででてみると、釣り堀では味わえない釣りの醍醐味が味わえるんだ。
釣りずきな知人がいっていました。最近は、大阪湾の海水もきれいになって、また栄養豊富なのでいろいろな魚たちがいて、釣ってきた魚を自分でさばいて食べるのは最高だそうです。
「醍醐味」とは、ものごとの本当のおもしろさ、最高の味わいを意味します。醍醐味の「醍醐」とはそもそもは、牛や羊の乳を精製した濃厚で甘味のある液汁のことです。インドでは、乳を発酵させて精製する段階を、「乳」(にゅう)、「酪」(らく)、「生酥」(しょうそ)、「熟酥」(じゅくそ)、「醍醐」の5段階にわけ、これらの5つの味を「五味」といい、あとのものほど美味であり、最後の「醍醐」において最高の味がえられるとされました。ここから、最高の味わいを意味する「醍醐味」という語がうまれたのです。
醍醐味は、純粋で最高の味であることから、仏の最上の教え(最上の仏法)の意味でもつかわれます。
天智天皇のながれをくむ理源大師聖宝(832〜909)は、笠取山に五色の雲がたなびくのをみて山にのぼったところ、翁があらわれて、
わしはこの山の主、横尾明神というものだが、この山をそなたに譲ろう。思う存分、宗教をなされよ。
といい、足もとの落ち葉をかきわけるときよらかな水がわきでて、その水を手ですくいあげてのみほしました。
ああ、醍醐味なるかな。
そして翁は、忽然と消えうせました。
醍醐寺の名はここからうまれました。聖宝は、笠取山に草庵を結んで醍醐寺をひらき、准胝・如意輪の両観音菩薩像を安置しました。「醍醐水」は、こんこんと今でもわきだしています。
展覧会「京都・醍醐寺 - 真言密教の宇宙 -」が東京・六本木のサントリー美術館で開催されています(注1、2)。
*
展覧会「京都・醍醐寺 - 真言密教の宇宙 -」が東京・六本木のサントリー美術館で開催されています(注1、2)。
第1章 聖宝、醍醐寺を開く
聖宝という人物は、弘法大師空海の弟である真雅(しんが)にみいだされて15歳で仏門にはいり、東大寺において諸宗をまなんだのち、真雅の弟子・真然(しんねん)について密教をきわめ、空海がひらいた高野山で密教の正統をうけついだ賢者でした。
聖宝の肖像や伝記・縁起をはじめ、上醍醐の薬師堂本尊の国宝《薬師如来坐像および両脇侍像》や、日本における如意輪観音像の代表作のひとつである重要文化財《如意輪観音坐像》などから醍醐寺の草創期についてしることができます。
醍醐寺は、醍醐天皇をはじめ歴代天皇の帰依をうけ、笠取山上に、薬師堂や五大堂を加えて伽藍(上醍醐)をととのえながら、その山裾にも伽藍(下醍醐)を展開していきました。
聖宝の肖像や伝記・縁起をはじめ、上醍醐の薬師堂本尊の国宝《薬師如来坐像および両脇侍像》や、日本における如意輪観音像の代表作のひとつである重要文化財《如意輪観音坐像》などから醍醐寺の草創期についてしることができます。
醍醐寺は、醍醐天皇をはじめ歴代天皇の帰依をうけ、笠取山上に、薬師堂や五大堂を加えて伽藍(上醍醐)をととのえながら、その山裾にも伽藍(下醍醐)を展開していきました。
第2章 真言密教を学び、修する
醍醐寺は、加持祈禱や修法(儀式)などの実践を重視し、その効験によっておおくの天皇や貴族たちの心をとらえました。真言密教の二大流派のうち小野流の拠点となり、おおくの僧があつまる根本道場と位置づけられ、修法の本尊として欠くことのできない彫刻や絵画、修法にもちいる仏具、修法の手順や記録などをしるした文書や聖教などが蓄積されていきました。 第3章 法脈を伝える - 権力との結びつき -
さかんに修法がおこなわれるようになると、それぞれの密教僧のあいだでことなる修法がしだいにうまれ、いくつかの法流が醍醐寺内でも形成されました。そのなかで中心となったのは、第十四代座主の勝覚が創建した醍醐寺三宝院を拠点とする三宝院流です。
第4章 義演、醍醐寺を再びおこす
16世紀末に第八十代座主となった義演(1558~1626)は豊臣秀吉から保護をうけ、戦乱により荒廃した伽藍の復興整備をすすめました。秀吉最晩年の慶長3年(1598)春にもよおされた「醍醐の花見」は、今日の教科書にもでてくる、安土桃山時代の華麗な文化を象徴的にあらわす一大イベントでした。
このビッグイベントは一度かぎりのものではなく、秋には紅葉狩りを、そして天皇の行幸をあおいでの花見へとつづく、遠大な儀式の第一歩になるはずだったのですが、この「花見」のたった5ヵ月後に秀吉は没しました。みずからにせまる老いを感じてはいたものの、天下を盤石にしようとするその途上でよもや命がつきるとは・・・。
秀吉は、醍醐寺の桜に魅せられ、おさない秀頼の手をひき、正室・側室・女房衆をまわりにはべらせて満開の桜をめで、余興を鑑賞し、茶屋や出店にたちより、飲んで食べて歌をよみ、春を満喫しました。
このビッグイベントは一度かぎりのものではなく、秋には紅葉狩りを、そして天皇の行幸をあおいでの花見へとつづく、遠大な儀式の第一歩になるはずだったのですが、この「花見」のたった5ヵ月後に秀吉は没しました。みずからにせまる老いを感じてはいたものの、天下を盤石にしようとするその途上でよもや命がつきるとは・・・。
▼ 注1