縄文人はクリ林をそだてていました。縄文時代にすでに里山がありました。自然環境と調和した持続的なシステムでした。
岡村道雄著『縄文の列島文化』(山川出版社)は、縄文時代の文化の範囲や構成・構造、その特色と個性、世界史的な位置づけについて、遺跡の発掘調査をふまえて論じています。




第一章 私たちのルーツ — 考古学の観点
第二章 列島、西と東 — 各地域の文化圏
第三章 三陸の豊かな里海 — 松島湾宮戸島の縄文歳時記
第四章 内陸の里山文化 — 発達した植物利用とサケ漁
第五章 定住を支えた交流・物流 — 山や海を行き交う人々
第六章 定住を支えた精神文化 — 葬送と祭祀


日本列島には縄文時代にすでに里山がありました。


青森県是川中居遺跡の里山
是川中居(これかわなかい)集落の南と北の沢には、土器や石器などの道具類やその加工途上のもの、自然木や種実、割られたクルミ殻や剥かれたクリやトチノミの殻などが、おびただしい量で捨てられていた。(中略)

まずクリは、住居域と墓地の東と西側一帯に広がっていたことが判明した。クリは虫が花粉を運ぶ虫媒花であり、花粉は木の周辺に落ちる。従って遺跡にクリ花粉が高い率で集中している範囲は、かつてそこにクリ林があったことを示している(吉川 2011)。是川縄文人は、ナラやブナなどを栽培し、クリ林を育てて管理して利用していた実態が明らかになった。

さらに集落北側の長田沢の両岸と、南の沢の西側にそって、水辺を好むトチノキやオニグルミが生えていたと推定されている。また(中略)ニワトコが水辺の灌木として生えていたようだ。ほかに、(中略)多用されたクリの他にクリの約二〇%のヤマグワやニレ属が続き、カエデ属、コナラ亜属(コナラ、ミズナラなど)が混じる林が広がっていた(鈴木ほか 2002)。

また集落西側のクリ林の西には多くのゴボウ近似種、縄文大豆やヒエ、エゴマやシソ、ヤマグワも発見されており、畑が存在していたと推定されている。その南東、南の沢の南側には、アサ畑があったという。

また長田沢の西側上流には、ウルシ花粉が高率に発見され、ウルシ林の存在が推定されている。

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このように、縄文時代の是川中居集落の周囲には、畑、クリ林、トトノキ林、雑木林がひろがっていました。これは、現在の日本でみられる里山の原形といってよいでしょう。

いまでは、似たような遺跡が日本の各地でみつかっています。

東日本の縄文時代の一般的特徴として、クリは実の食用だけではなく、建築材などとしても多用されていたことがしられています。また縄文時代後晩期になるとアクぬき技術が発達したためトトノキの実の割合が多くなりました。木製品は、用途に応じて樹種が選定されており、容器類にはトトノキ、弓にはマユミとかんがえられるニシキギ属、漆塗りの碗にはトトノキやマタタビ属、櫛はムラサキシキブ、ヘラ状木製品(琴)にはスギが素材として多くえらばれていました。それぞれの木の性質を熟知して樹種の選択がおこなわれており、この伝統は今日までつづいているとおもわれます。

またサケやマスの骨が出土することから、川沿いの集落ではサケやマスをとって食べていたこともわかります。

このような里山では、山菜やキノコや薬草もとれたことでしょう。シカやイノシシ・ウサギなどの獣やキジやカモなどの鳥、食用や薬となる昆虫もいたにちがいありません。1919年の農商務省の調査報告によると、蜂の子・カミキリムシ・タガメ・ゲンゴロウなどが青森県内で食べられていたとされ、このことからも昔の人も昆虫を食べていたことが想像できます。




縄文時代の人々は、立地条件のよいところに集落をつくるだけでなく、小規模ながらもその周囲に畑をつくって野菜をそだてたり、集落の近傍にクリなどをそだてて人工的な森をつくりました。そこには鳥獣や昆虫もやってきたことでしょう。こうして、食べ物・薬・建築材・道具の素材・柴草・薪など、生活に必要なものをえていました。またここには、1年のサイクル、あるいは数十年先をみこした計画的・持続的な土地利用がみられます。このようなところが里山であり、このような営みによって、自然環境と調和しながらいきる精神文化がはぐくまれたとかんがえられます。

なお東北日本では、縄文時代後期を中心にキノコ形の土製品が出土します。キノコの形態は、シイタケ・シメジ・アミタケ・ハツタケなど、いまでも主要な食用キノコの形をしているため、当時の人々もキノコを食べていたことが想像されます。

東日本では、定住が安定しはじめた縄文時代早期後半から縄文時代前期には里山がひろがっていました。とくに中日本(関東甲信越・南東北)ではナラガシワやシイ類、北東北ではナラ類、ハシバミ・カヤの実もまじる林がしげっていました。

クリは、水につよくかたいことから柱や垂木などの建築材、関東では丸木舟の素材としてもつかわれました。

エネルギー源としての薪も里山があれば容易に調達できたにちがいありません。出土炭化材の分析により燃料としてクリが多様されていたことがわかっています。燃料のために森林伐採をつづけていれば森林はなくなってしまいますが、当時の人々は、みずからクリをそだてながら、一方でそれを資源としてつかっていました。そだてながら利用していれば環境破壊にはなりません。一方的な開発とはことなる持続的な土地利用ができます。

また炭化してのこったエゴマ・マメ類が関東甲信を中心に全国的にみつかっています。マメ類は、野生種のツルマメが大きくなり「縄文ダイズ」といわれ、またおなじくヤブツルアズキが「縄文アズキ」とよばれ、それぞれ栽培化されていたとかんがえられます。またアサも、縄文時代早期から全国的にみられます。このようなことから、縄文時代の人々は「狩猟採集民」ではなく「狩猟栽培民」であったという人もいます。




わたしは長年、環境保全の立場から日本の里山に注目してきました。里山は、日本列島の原風景であるとともに、日本の土着文化(オリジナルな文化)の「ふるさと」でもあります。里山を、図式(モデル)であらわすとつぎのようになります。


181004 里山
図1 里山のモデル


里山は、集落の周辺につくられ、集落と自然環境のあいだに位置づけられます。それは、人の手のはいった二次的な自然であり、管理され持続する領域であり、緩衝帯としての役割ももちます。

自然環境・里山・集落のあいだには物質・エネルギー・情報のながれがあり、そのながれは、「自然環境→里山→集落」はインプット、「集落→里山→自然環境」はアウトプットといってもよいです。こうして、物質・エネルギー・情報がながれそして循環し、集落と自然環境は里山をとおして調和します。人と自然が共生するといってもよいです。

これは長期間にわたって持続する集落と環境のシステムであり、このようなシステムによって自然と調和する精神文化がそだち、またそのような文化(思想)があるからこそシステムが持続します。

今日、汎世界的に環境破壊がすすんでいます。とくに、発展途上国においていちじるしいです。ヨーロッパ文明型の開発を基本とする機械文明のやり方をつづけていると開発につぐ開発、このままでは地球はもちません。わたしたち人間は歴史的にみて、文明のパターンを開発から循環へ転換しなければならない時期にさしかかっています。そこで里山の方法が参考になります。いまならまだ間にあうかもしれません。


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▼ 参考文献
岡村道雄著『縄文の列島文化』山川出版社、2018年7月15日

▼ 参考サイト
是川石器時代遺跡
是川縄文館