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修正市区改正及品海築港略図(1885年(明治18)頃)
東京の 150 年の変化・発展を紹介しています。震災と戦災という2度の破壊をへて街並みが創造されました。近代文明を代表するメガシティになりました。
企画展「東京150年」が江戸東京博物館で開催されています(注1)。1868 年(慶応4)7月17日、江戸は東京とあらためられ、東京府が設置されました。そして今年、東京は、150 年の節目をむかえました。150 年間に東京はどのように変化してきたのか、写真や映像・地図などから展観するという企画です。


第1展示室 明治の東京と市区改正
第2展示室 関東大震災と帝都復興計画
第3展示室 戦災復興と1964年東京オリンピック
第4展示室 副都心と現代の東京



第1展示室 明治の東京と市区改正


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江戸遷都意見書
(1868年(慶応4)4月、前島密/筆)
明治新政府は、体制一新のために遷都を検討し、なかでも大久保利通らは大阪への遷都をつよく主張しました。前島密は、東北・関東の混乱をおさえるためには江戸遷都が必要であること、また大阪に対して江戸は、皇居や官庁の用地として既存の城や大名屋敷がつかえるなどの利点があるとのべています。



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「江戸ヲ東京ト称ス」詔書
(1868年(慶応4)7月17日)
江戸を、「京都=西の京」に対して「東の京=東京」と名をあらため、天皇が東京で政治をみるという詔書がだされました。おなじ日、江戸府にかわって東京府がおかれ、ここに東京が誕生しました。
 


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東京府庁舎(初代)
1868年(慶応4)8月17日、幸橋門内(千代田区内幸町)にあった大和郡山藩上屋敷を転用して最初の東京府庁が開庁しました。
 


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御東幸・御供奉御警衛附(1968年(明治1))
1868年(明治1)9月20日、明治天皇は京都をたち、10月13日に江戸城西ノ丸へ到着しました(東幸)。このときに皇居となった江戸城は東京城と改称されました。12月に天皇は京都へもどりましたが、翌年3月にふたたび東幸、滞在中に、東京城は皇城とさらに改称されました。この間に、当時の最高官庁である太政官の東京移転がきまり、京都にあった主要官庁も1871年(明治4)までに廃止されました。1870年(明治3)には、天皇の京都への帰還延期が発表され、これらの一連のながれによって行政機能は東京へうつり、事実上、遷都(もしくは奠都)が成立しました。



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銀座煉瓦街
(『ファー・イースト』掲載写真より、明治初期)
1872年(明治5)の大火でやけたあと、銀座には、煉瓦づくりのあらたな街区「銀座煉瓦街」がつくられました。また人力車や馬車などに対応すべく、街路を拡幅する計画も同時にすすめられ、車道と歩道をわけ、並木やガス灯を整備した幅15間の大通りがつくられました。



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東京市街之光景 壱
(『帝都俯瞰写真』より、1904年(明治37))
筑地からあげられた軽気球から撮影された現存最古とされる空撮写真です。たれさがる気球の綱の周囲に位置するひろいエリアは丸の内です。ここはその後オフィス街となります。



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銀座通り(絵葉書、明治40年代) 



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東京駅(絵葉書、大正期)




第2展示室 関東大震災と帝都復興計画


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京橋方面から見た銀座の焼け跡
1923年(大正12)9月1日、関東大震災が発生しました。地震と火災によって東京市街は壊滅的な被害をうけました。



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「表通り朝」(銀座、1935年(昭和10))
銀座六丁目付近から京橋方面をうつした1枚です。震災によって破壊された銀座は、かつての煉瓦街を再生するというのではなく、もっとモダンな街並みにつくりかえられました。震災による破壊がモダン化をかえって迅速にすすめることになりました。




第3展示室 戦災復興と1964年東京オリンピック


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新橋・有楽町付近
(G・フェーレイス/撮影、1945(昭和20))
1945年、第二次世界大戦末期、東京市街地は断続的に空襲をうけ壊滅しました。写真は、現在の日比谷通りから新橋駅の方面をうつしたものです。左奥には、新橋駅の駅舎がみえます。



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有楽町・東京都庁舎付近
(佐藤翠陽/空撮、1957年(昭和32)3月8日)
戦後復興は急速にすすみました。かつての街並みを再生させるというのではなく、近代化を一気におしすすめました。画面中央左には、落成間もない東京都庁第一庁舎が、画面左下には高速道路がみえます。



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羽田空港
(佐藤翠陽/空撮、1956年(昭和31))
1952年(昭和27)、羽田飛行場は接収が一部解除され、東京国際空港と改名されました。1955年には、あたらしい旅客ターミナルが開業し、東京オリンピック開催がきまるとさらなる拡張整備がおこなわれました。写真には、開業間もないターミナルがうつっています。沖合には、海苔養殖の「ひび」が確認できます。




第4展示室 副都心と現代の東京


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建設中の新宿西口超高層ビル群
(中田和昭/撮影、1973年(昭和48))
高度経済成長をつづける日本において東京への一極集中がいちじるしくなり、過密した都心の機能を分散させるために、あらたな首都圏整備計画により新宿・池袋・渋谷が「副都心」に指定されました。新宿駅西口には超高層ビルがつぎつぎにたてられ、開発がすすみました。



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隅田川とスカイツリー
(東京都提供、2017年(平成29))
東京は、世界最大のメガシティに発展しました。2020年に開催される2度目の東京オリンピックをひかえ、あちこちでふたたび工事がおこなわれています。




1868 年、江戸時代がおわり、明治維新となりました。わたしたちは、小学校の歴史の時間にこの記念すべき年を「イヤロッパ」と語呂合わせで記憶させられました。「イヤロッパ」つまりヨーロッパです。この年に、中国にかわりヨーロッパが、日本の発展のためのあらたなモデルになり、「ヨーロッパに追いつき追いこせ」という国是が確立しました。そして東京は、100 年以上にわたってその中心的な役割をはたしてきました。

明治政府は当初は大阪に遷都しようというアイデアももっていました。しかしこの政府は西国の人々の政権です。江戸幕府はたおしたものの東国はあれて、どうにもおさまりません。そこで「明治天皇に東京に行幸いただこう」ということになり、1868 年 10 月にはじめて東京行幸(東幸)が実現しました。そして同年 12 月に天皇は京都に還幸しました。

しかし天皇がいなくなったら東国がまたおさまりません。そこで翌年3月にふたたび東京行幸をしていただきました。その後、天皇は京都に還幸するはずでしたが、1870 年(明治 3)に京都への帰還延期が発表されました。この延期状態が今日までつづいています。そのため京都には、「天皇陛下は京都にいつおもどりになられるのか。はやくもどってきてほしい」と今でもいっている人々がいます。

しかし日本の歴史において東国統治はたえずとても大きな課題でした。天皇の力が必要です。

そして東京は、天皇のもとで、近代化(近代文明化)の道をひたすらあゆんでいきます。1884 年(明治 17)には「市区改正」がうごきだし、あたらしい都市計画のもとで、道路・上水道・港・運河・オフィス街・公園などの建設・整備がすすみます。首都にふさわしい近代的な街並みがしだいに形づくられます。

しかしその後、1923 年(大正 12)に関東大震災が東京をおそいます。東京は壊滅してしまいます。

帝都復興計画をただちに立案、元通りに東京を復旧させるのではなく、もっとよい都市へつくりかえることをめざすことにしました。こうしてモダンな都市文化が東京で花開いていくことになります。これは、東京再生というよりもあらたな「創造」だったといったほうがよいかもしれません。

そしてその後、首都圏は大発展し、その領域はおおきくひろがり、1932 年(昭和 7 年)には大東京 35 区が成立しました。

ところがその後 戦況が悪化、1944 年(昭和 19 )以降の断続的な空襲により、ふたたび東京は焦土と化してしまいます。

今度は戦後復興です。そして高度経済成長です。そこにはもはや、以前の東京はありません。東京は発展するのみ。1980 年代にはその大繁栄を人々は謳歌しました。

こうして東京は、世界最大のメガシティになりました。




このように東京は、明治維新からはじまり、関東大震災と戦災(空襲)という2度にわたる破壊をへて、モダンなメガシティとなりました。皮肉にも、2度の破壊がふるい街並みをこわし、近代化を一層おしすすめる結果になりました。ふるきよきものをのこすのではなく、あたらしい都市をつくる道を東京は選択しました。まるで、破壊と創造のモデルのようです。創造には、前段階として破壊が必要であることは多くの人がみとめるところでしょう。

こうして東京は、日本の近代文明化の象徴となりました。

ところで「日本は急激に発展した」「急激に近代化した」という人々が昭和のころにはよくいましたが、これは、大規模な「破壊」のあとに「復興」があったためにそのような印象が生じたのだとおもいます。

実際には、近代化とは歴史であり、そう簡単に急激にできることではありません。たとえば国立科学博物館の展示・解説などをみると、日本の近代化は、江戸時代にすでにはじまっていたことがわかります。近代化の基礎は江戸時代にもうできていました。あるいは年功序列と終身雇用といった日本の組織をささえた様式も江戸時代に(封建時代に)確立していました。

変化・発展という表面的なできごとの深層にはもっと大きな潮流がありました。その人の潜在意識がその人の人生をうごかしていくように、その国の底流にある深層文化がその国の歴史をうごかしていくのではないでしょうか。近代化という歴史は、江戸時代から 20 世紀までつづいた大きな潮流であったとかんがえたほうがよいでしょう。

明治維新当時、江戸幕府は江戸城を無血開城し、西軍も、江戸の破壊をほとんどおこないませんでした。明治政府は、江戸のインフラをそのまま まずはうまくつかってあらたな政治をおこないました。江戸の基礎があったのでとてもスムーズに新時代に移行できました。すなわち明治維新では「政権交代」がうまくいったのです。すくなくとも、近代文明化という大局的な観点からは、江戸から明治へは連続していたといえます。

今回の企画展ではここまでふみこんだ議論はありませんが、メガシティ誕生の背景には近代文明の勃興という現象があったのであり、その具現化の代表が東京であったといえるでしょう。




さて、それでは今後の東京はどうかというと、最大の課題は災害対策であるといえます。

東京は、戦後復興から高度経済成長、開発につぐ開発、発展あるのみでした。首都圏は、まるで化け物のようにぶくぶくふくれあがってしまい、巨大にして超過密な人口密集地帯になりました。首都圏の人々は仕事、仕事で、防災までかんがえている余裕はありませんでした。防災という観点はほとんどおきざりにされてしまいました。

関東においてもつぎの大地震がいずれ発生します。日本列島の各地で大地震が頻発しているなかで、関東ではまだおこっていません。不気味です。また地震予知はできません。地震学者たちもそのことを今ではみとめています。

このままでは第3の「破壊」がおこります。目先の経済効果にとらわれているよりも、防災対策をおこなったほうが、大きな歴史、大局的な観点からみれば経済的にも効果があることに気がつかなければなりません。住民も、自分の命は自分でまもるとう気持ちをもって今から対策をたてておかなければなりません。今後、首都圏も日本も歴史的な成熟期にはいっていきます。大局的・長期的な観点がこれからは必要です。


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▼ 注1
企画展「東京150年」
会場:江戸東京博物館(常設展示室内 5F企画展示室)
会期:2018年8月7日~2018年10月8日
※ 常設展観覧料のみで入場できます。写真撮影が許可されています。