ピカソは神童でしたが、一方で、彼が生きた時代にも注目しなければなりません。
『ナショナルジオグラフィック 日本版』(2018年5月号)では、「挑発的、お騒がせで魅惑的な天才 ピカソ」と題してピカソの足跡をたどり、ピカソの芸術性を追求しています。



「スタイルが確立された流派に追随する気にはなれない。そうした作品はどれも似たり寄ったりになるから」

彼が活躍を始めた頃、写真の出現によって絵画がリアリズムの縛りから解放されたのも幸運だった。

「目の前に現れるイメージを描いただけ。隠された意味は他人が見つければいい」
「完成した後も、絵は見る人の心の状態によって変化する。私たちが日々変わるのを受け、絵も生き物のように生きるのだ。これは自然なことだ。絵は見る人がいて初めて生命を宿すのだから」
「画家は自然を観察しなければならないが、自然と絵を混同してはならない。自然は、記号を介してしか写し取れないのだ」
※「」内はピカソ自身の言葉。
 

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ピカソの代表作「ゲルニカ」は、スペイン・マドリードにあるソフィア王妃芸術センターでみることができます。1937年、スペイン内戦中に爆撃を受けたバスク地方の町ゲルニカが題材ですが、えがかれた死と苦しみは時代と場所をこえた普遍性をもっています。魂の価値を大切にしながら生きている芸術家は、人間性と文明を危機にさらす戦争に無関心ではいられないし、無関心であっていいはずもないとピカソはかんがえていました。

ピカソは、1881年10月25日、スペイン南部の都市マラガに生まれました。ピカソは、言葉をはなすよりはやくスケッチをはじめ、最初に発した単語も「ピス」(鉛筆)だったといいます。父親のホセ=ルイス=ブラスコは画家であり、息子の最初の教師でしたが、少年ピカソの実力はまたたく間に父親をおいこしました。

このようにピカソは神童でしたが、上記のように、彼が生きた時代も天才をうみだすうえで重要な役割をはたしています。

本論の最後では、ピカソの一生を 14 の場面にわけて一覧表にまとめており、ピカソ入門として役立ちます。

日本では、ピカソから衝撃をうけた芸術家として岡本太郎がいます。太郎は、「ピカソを超える」ことを目標にして制作活動にうちこむようになったそうです。


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▼ 参考文献
『ナショナルジオグラフィック 日本版』(2018年5月号)日経ナショナルジオグラフィック