7世紀後半、白村江の戦において、倭国(日本)は唐(中国)に大敗しました。しかしこれを契機に、本格的な国家、中央集権的律令国家「日本国」の建設がはじまりました。
倉本一宏著『戦争の日本古代史 - 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで -』(講談社現代新書)は、対外戦争をキーワードとして、日本(倭国) と北東アジア諸国との関係を解説・考察しています。戦争から古代史をとらえなおすことにより、日本という国をみなおすことができます。
わたしはとくに、「白村江(はくそんこう)の戦」(対唐・新羅戦争、7世紀)に注目しました。7世紀後半、中国の唐と新羅の連合軍によってほろぼされた同盟国・百済を復興するため、倭国は、朝鮮半島に大軍を派遣し、白村江において唐・新羅連合と戦いました。
こうして倭国は唐に大敗を喫しました。百済は完全に滅亡し、倭国は、百済の遺民を多数うけいれ、近江などに入植させました。
倭国にとってこの敗戦が、どれだけインパクトの大きなものであったか。唐(中国)のおそろしさを骨身にしみて感じました。
「中国はすごい! わたしたちはまだまだダメだ。中国文明にまなんで力をつけねばならない」
心をいれかえました。中国文明のあらゆる側面を吸収(インプット)しはじめました。遣唐使(留学生派遣)にも力をいれました。政府高官や知識人といった上層階級の人々の中国文明吸収熱はすさまじいものでした。まさに「中国かぶれ」でした。
こうして、白村江の敗戦を境にして、本格的な国家の形成がはじまりました。中央集権的律令国家「日本国」のはじまりです。平城京も、こうした時代のながれのなかで建設されたのです。
ここに、基層文化をふまえつつも、外国の先進文明を徹底的にとりいれて「重層文化」を形成するという、日本文化の基本的パターンのはじまりをみることができます。日本の重層文化を理解するためには白村江の戦について知らなければなりません。
ところでこれと似たようなことが 1945 年にもおこりました。第二次世界大戦で日本は大敗を喫しました。そして心をいれかえました。
「アメリカはすごい! わたしたちはまだまだダメだ。アメリカ文明にまなんで力をつけねばならない」
以下のような類似点があるのではないでしょうか。
やはり日本は重層文化の国でした。日本人は、ふるいものに外来のものをくわえて融合させて、あたらしいものをつくりだすという能力にたけています。これはひとつの創造の方法です。
しかしこの方法は創造の姿勢を必要とするのであって、それがもしなかったら、外来文明をとりいれているだけの要領のいい “猿まね” 民族でおわってしまいます。実際、日本人のことを「モンキーテール」などと陰でよんでいる外国人がいます。この点は注意しなければなりません。
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▼ 参考文献
倉本一宏著『戦争の日本古代史 - 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで -』(講談社現代新書)講談社、2017年5月20日
▼ 関連書
三田誠広著『白村江の戦い - 天智天皇の野望 -』河出書房新社、2017年7月18日
はじめに 倭国・日本と対外戦争
第一章 高句麗好太王との戦い 四~五世紀
第二章 「任那」をめぐる争い 六~七世紀
第三章 白村江の戦 対唐・新羅戦争 七世紀
第四章 藤原仲麻呂の新羅出兵計画 八世紀
第五章 「敵国」としての新羅・高麗 九~十世紀
第六章 刀伊の入寇 十一世紀
終 章 戦争の日本史
わたしはとくに、「白村江(はくそんこう)の戦」(対唐・新羅戦争、7世紀)に注目しました。7世紀後半、中国の唐と新羅の連合軍によってほろぼされた同盟国・百済を復興するため、倭国は、朝鮮半島に大軍を派遣し、白村江において唐・新羅連合と戦いました。
663 年(飛鳥時代)8月27日、唐・新羅連合軍の陸上軍は周留城(州柔城)に到り、これを包囲した。一方、水軍は軍船 170 艘を率いて白村江に戦列を構えた。
倭国の水軍の先頭がようやく白村江に到着したのは、それから10日を経た8月27日のことであった。
日本の軍船の先着したものと大唐の軍船とが会戦した。日本は敗退し、大唐は戦列を固めて守った。
8月27日、倭国軍は、唐の水軍と決戦をおこなった。
日本の将軍たちと百済の王とは、戦況をよく観察せずに、「我が方が先を争って攻めかかれば、相手は自ずと退却するであろう」と協議し、日本の中軍の兵卒を率い、船隊をよく整えぬまま進んで、陣を固めた大唐の軍に攻めかかった。すると大唐は左右から船を出してこれを挟撃し、包囲攻撃した。みるみる官軍は敗れ、多くの者が水に落ちて溺死し、舟の舳をめぐらすこともできなかった。
こうして倭国は唐に大敗を喫しました。百済は完全に滅亡し、倭国は、百済の遺民を多数うけいれ、近江などに入植させました。
倭国にとってこの敗戦が、どれだけインパクトの大きなものであったか。唐(中国)のおそろしさを骨身にしみて感じました。
「中国はすごい! わたしたちはまだまだダメだ。中国文明にまなんで力をつけねばならない」
心をいれかえました。中国文明のあらゆる側面を吸収(インプット)しはじめました。遣唐使(留学生派遣)にも力をいれました。政府高官や知識人といった上層階級の人々の中国文明吸収熱はすさまじいものでした。まさに「中国かぶれ」でした。
こうして、白村江の敗戦を境にして、本格的な国家の形成がはじまりました。中央集権的律令国家「日本国」のはじまりです。平城京も、こうした時代のながれのなかで建設されたのです。
ここに、基層文化をふまえつつも、外国の先進文明を徹底的にとりいれて「重層文化」を形成するという、日本文化の基本的パターンのはじまりをみることができます。日本の重層文化を理解するためには白村江の戦について知らなければなりません。
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ところでこれと似たようなことが 1945 年にもおこりました。第二次世界大戦で日本は大敗を喫しました。そして心をいれかえました。
「アメリカはすごい! わたしたちはまだまだダメだ。アメリカ文明にまなんで力をつけねばならない」
以下のような類似点があるのではないでしょうか。
- 白村江の敗戦:第二次世界大戦の敗戦
- 中国かぶれ:アメリカかぶれ
- 遣唐使:フルブライト奨学生
- あたらしい国家建設(律令国家):あたらしい国家建設(民主主義国家)
やはり日本は重層文化の国でした。日本人は、ふるいものに外来のものをくわえて融合させて、あたらしいものをつくりだすという能力にたけています。これはひとつの創造の方法です。
しかしこの方法は創造の姿勢を必要とするのであって、それがもしなかったら、外来文明をとりいれているだけの要領のいい “猿まね” 民族でおわってしまいます。実際、日本人のことを「モンキーテール」などと陰でよんでいる外国人がいます。この点は注意しなければなりません。
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重層文化を発展させる -「仏教音楽のルーツ -ゾロアスター教-」(古代オリエント博物館)-
重層文化からあらたな創造へ - 橋爪大三郎『世界は四大文明でできている』(3)-
もうひとつの御所 - 特別展「仁和寺と御室派のみほとけ」(東京国立博物館)-
▼ 参考文献
倉本一宏著『戦争の日本古代史 - 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで -』(講談社現代新書)講談社、2017年5月20日
▼ 関連書
三田誠広著『白村江の戦い - 天智天皇の野望 -』河出書房新社、2017年7月18日