アンデスの人々は、人間は死後はミイラになって生きつづけるとかんがえていました。乾燥した自然環境とそこでくらす人々によって「ミイラ文化」がうまれました。
古代アンデス文明展が国立科学博物館で開催されています(注)。

第6展示室はミイラの世界です。ここでは写真撮影は禁止されています。アンデス地域からはおびただしいミイラが発掘されています。


アンデスでは、エジプトで最古とされるミイラよりも 2000 年ほど早い、前 5000 年以前に既に人工のミイラが作られている。この世界最古のミイラを作ったのは、チリ北部の海岸地域のアタカマ砂漠に住んでいたチンチョロ族の人々だった。

インカ時代のミイラについては、文字による記録が残っている。スペイン人による征服の時代を生きたインカ・ガルシラソ・デ・ラ・ベガは、インカの王族は死後も加工されたミイラになり、神として崇拝されたという記述を残している。ミイラは良質の衣服をまとい、専属の従者がいて食事を与えるなどの世話をされていた。時には御輿に乗って町を練り歩き、儀式の際には広場や神殿に安置されたとの記録もある。


極端に乾燥したアンデスの自然環境のもとでは、遺体は、腐敗することなくミイラとなってのこります。アンデスの人々は、ミイラになって死後も人は生きつづけるとかんがえました。死者は生者と共存していました。ミイラは、わたしたち日本人などとはちがうアンデス特有の死生観をうみだしました。




1911年、米国探検家ハイラム・ビンガムはクスコから約 110 km のウルパンパ渓谷にそびえる山のなかにはいりました。地元のガイドの手引きで鬱蒼とした尾根にはいあがると、そこは信じられない光景でした。標高 2280 m の周囲から孤立した尾根に広大な廃墟がひろがっていたのでした。
「どうしてこんな山の中にこんな大きな都市が・・・」




空中都市 マチュピチュの発見です。

ビンガムは、マチュピチュはインカ帝国最後の首都だったとかんがえましたが、現在では、「王のミイラにささげられた街だった」という仮説が有力です。

マチュピチュには、宗教施設があった宗教地区、人がすんでいた居住区、山の斜面につくった段々畑がある農業地区があります。マチュピチュは、第9代のインカ王パチャクティの別荘地として当初はつくられ、王の死後、ミイラとなった王をやしなうために王の兄弟の子孫がうけついでいった領地だっとかんがえられています。

インカの王は死後、ミイラとなった自分の世話をしてもらうために、自分の領地と財産をつかいました。また あの世とこの世の仲介者にお告げをして現世の政治にアドバイスもしました。

インカの人々は、人間は死後はミイラになって生きつづけるとかんがえていました。インカの人々はミイラとくらし、ミイラとかたりあってくらしていたのです。


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このように、乾燥した気候とそこでくらす人々によって「ミイラ文化」がうまれました。

自然環境は、そこでくらす人々の思考(プロセシング)に大きな影響をあたえることがよくわかります。ミイラ文化は、自然環境と人間の相互作用によってうまれたのであり、自然と人間の「合作」といってもよいでしょう。

自然環境が人間に影響をあたえることは「インプット」、人間がミイラなどをつくることは「アウトプット」といってもよいです。インプットとアウトプットによって文化が生まれます(図1)。

180131 ミイラ
図1 文化のモデル


このように自然環境から人間までを総合的にみて、そこでおこっているインプット・プロセシング・アウトプットという はたらきに注目すると、わたしたち外国人からみて特異な文化も「おもしろい!」とおもえてきます。しかしそうでないと、「何だこれ? びっくり、おそろしい、野蛮だ!」などとおもって展示室をとおりすぎ、ことなる文化をみとめることができずに一生がおわります。


古代アンデス文明展
特設サイト

▼ 参考文献
島田泉・篠田謙一監修『古代アンデス文明展』(図録)TBSテレビ、2017年10月21日
小野雅弘(執筆)『古代アンデス文明を楽しもう』(特別展 古代アンデス文明展オフィシャル・ガイドブック)TBSテレビ、2017年10月21日