南部高地のクスコからおこったインカがアンデスを統一してインカ帝国を建国しました。しかしスペイン人によってあっけなくほろぼされました。
古代アンデス文明展が国立科学博物館で開催されています(注1)。

第5展示室では、チムー王国(紀元後1100年頃〜1470年頃)とインカ帝国(15世紀前半〜1572年)について展示・解説しています。ステレオ写真はいずれも平行法で立体視ができます。
立体視のやり方 - ステレオグラムとステレオ写真 -


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木製の葬送行列のミニチュア模型(チムー文化)



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インカ帝国のチャチャポヤス地方で使われたキープ
文字をもたなっかったアンデスで、情報の記録・伝達手段としてつかわれました。むすび目の位置とタイプにより10進法の数値があらわされます。紐の色・素材・太さにも意味があったようです。キープは、ワリ(後7世紀半ば〜10世紀後半)の時代にすでに存在しました。




チムー王国(紀元後1100年頃〜1470年頃)は、北部海岸で急速に領土を拡大し、14世紀末にはシカンを征服、北部海岸地域の有力勢力になりました。

一方、チムー拡大期の後期には、南部高地のクスコ地域の小勢力にすぎなかったインカが、政治力と軍事力を急激に増大させ、1470 年頃にチムー王国をたおし、北は現コロンビアから南は現チリ中部までの約 4000 キロにおよぶ広大な領土国家(帝国)をきずきました。

インカ帝国はクスコを首都とさだめ、そのほかの都市は地方都市となりました。首都を中心にして各都市は、「王の道」とよばれる幹線道路とその周辺の道路網によってむすばれました。「チャスキ」とよばれる人が「キープ」をつかって王の命令を記憶し、王の道をリレーしながらはしって、ひろい帝国内にたちまちに命令をつたえました。

こうして、首都・地方都市・王の道からなるネットワークが形成され、広大な領土を支配する帝国の政治体制が確立しました。 

しかし、その後の歴史はつぎのようになりました。


  • 1532年:スペイン人征服者フランシスコ=ピサロらがインカ帝国を奇襲する(カハマルカの戦い)。インカ皇帝アタワルパがとらえられる。
  • 1533年:インカ皇帝アタワルパが処刑される。のちに首都クスコも陥落する。
  • 1536年:ピサロが擁立した傀儡皇帝マンコ=インカが反乱をおこす。
  • 1537年:マンコ=インカがビルカバンバに新インカ政権を樹立する。
  • 1541年:スペイン人の反対派(アルマグロ派)がフランシスコ=ピサロを暗殺する。
  • 1544年:マンコ=インカが殺害され、彼の息子たちのトゥパク=アマルらが新インカ政権を継承する。
  • 1569年:スペイン人征服者が人工村に先住民を移住させるなど、強権的な政治をおこなう。
  • 1572年:トゥパク=アマルが処刑され、ビルカバンバの新インカ政権が滅亡する。


抵抗むなしく、インカ帝国は滅亡しました。スペイン人がきてから 40 年後の出来事でした。軍事技術・軍事力においてスペインはインカを圧倒していました(注2)。

スペイン人たちは、インカの金製品を徹底的にあつめて鋳つぶして本国におくってしまいました。アンデスの芸術品の価値、すぐれた文化をみとめることはありませんでした。 

こうして、ヨーロッパ文明によりアンデス文明はあっけなく終焉のときをむかえました。およそ 4600 年間にわたってきずきあげられてきた文明が、たったの 40 年でほろんでしまいました。ここに文明の衝突の現実をみるとともに、文明のはかなさを感じざるをえません。


古代アンデス文明展
特設サイト
 
▼ 注2
ヨーロッパ人がアメリカ大陸にすでにもちこんでいた天然痘・はしかなどの伝染病(感染症)が大流行していたこともインカ滅亡に影響したという説もあります。
 
▼ 参考文献
島田泉・篠田謙一監修『古代アンデス文明展』(図録)TBSテレビ、2017年10月21日
小野雅弘(執筆)『古代アンデス文明を楽しもう』(特別展 古代アンデス文明展オフィシャル・ガイドブック)TBSテレビ、2017年10月21日