常識とはことなる価値観が提示されています。社会通念とは別の物差しがあります。
NHK・Eテレ「100分 de 名著」で今月は『歎異抄』を解説しています(注1)。指南役は、宗教学者で相愛大学教授の釈徹宗さんです。『歎異抄』は一宗派の壁をこえて、多くの人々の心をひきつけてきました。多くの知識人たちも魅了してきました。西田幾多郎や司馬遼太郎、吉本隆明、遠藤周作、梅原猛など、『歎異抄』にほれこんだ人は数知れません。


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なかでも、親鸞思想の最大の逆説「悪人正機説」は誰もが一度はきいたことがあるのではないでしょうか。 


善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す。いかにいはんや善人をや」。

(善人でさえ浄土に往生することができるのです。まして悪人はいうまでもありません。ところが世間の人は普通、「悪人でさえ往生するのだから、まして善人はいうまでもない」といいます。)

ここでの「善人」が「自力で修めた善によって往生しようとする人」を意味している点に留意してください。(中略)次に「悪人」ですが、「煩悩具足のわれら」とも言い換えられます。あらゆる煩悩をそなえている私たちはどんな修行を実践しても迷いの世界から離れられません。阿弥陀仏は、それを憐れに思って本願を起こした、悪人を救うための仏です。ですから、その仏に頼る私たち悪人こそが浄土に往生させていただく因を持つ──と考える。それが「いはんや悪人をや」です。


常識では、悪人でさえ往生するのだったら、まして善人はいうまでもないとかんがえます。しかし 「悪人こそが救われる!」というのですからおどろきます。

釈徹宗さんの解説によると、ここでいう「善人」とは、自分の修行や善根(よい報いをうける原因となるおこない)によってどうにかなるとおもっている人々のことです。一方の「悪人」とは、煩悩をそなえ、まよいの世界からぬけられない人々のことです。そしてこのような「悪人」こそ往生できるとのべています。

すなわち普通の人々はみな「悪人」であるとおもわれます。しかし一部には、自分は「善人」だとおもっている人々がいます。「善人」は、よいことをしているとおもっていますが、傲慢であったり、自分自身のなかにある悪への自覚がなかったりします。

ここに、常識とはことなる価値観が提示されています。社会通念とは別の物差しがあります。

たとえば社会貢献と称して、自分の都合にもとづいて理屈をのべたり判断をしている人はいないでしょうか。現場のニーズ調査をしないで計らいをしている人はいないでしょうか。

親鸞はおしえています。

すべての存在には、不変の実体などない。
この身があるかぎり、状況によっては何をしでかすかわからない。それがわれわれの実存なのだ。
仏法を拠りどころにせよ。


わたしたち現代人は、自分の物差しで社会や他者を計りながら生きています。しかし親鸞の思想と であえば他者への接し方がかわります。世界が一変します。

いいことをやっているとおもいこんでいないですか? 自分の都合でやっているのではないですか? 

『歎異抄』は、おかしな方向へとわたしたちがすすまないように「リミッター」を設定しているとかんがえられます。




親鸞がいきたのは平安末期から鎌倉時代にかけてであり、それは、日本の社会構造が変化した時代の転換期、乱世でした。時代の転換期には人材が輩出します。思想がうまれます。

わたしたちが生きる現今も時代の転換期です。世界は、あらたな秩序をもとめて混乱しています。勝ち組と負け組が生じています。

こうしたなかで親鸞の思想は、時間と空間をこえてわたしたちの心にひびいてきます。親鸞の思想には普遍性があります。このような意味では、運慶や狩野元信の仕事にも普遍性がありました。普遍性は現代にも通じます。すべてのものに通じます。ここに古典をまなぶ大きな意義があるのだとおもいます。 



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▼ 注1
NHK・Eテレ 100分de 名著:『歎異抄』

▼ 参考文献
釈徹宗著・NHK編『NHK 100分 de 名著』(『歎異抄』)NHK出版、2017年10月1日