DSCF3401ba
西の丸から天守をのぞむ
(交差法で立体視ができます)
構造的・空間的に城をイメージできたら、今度は、歴史的・時間的にとらえなおしてみます。
ステレオ写真は交差法で立体視ができます。 
立体視のやり方 - ステレオグラムとステレオ写真 - >> 



DSCF3414ba
化粧櫓の内部


姫路城の西の丸からみた天守のうつくしさは格別です。姫路城にいったら西の丸にもぜひ足をはこんでください。

西の丸は、将軍・徳川秀忠の長女・千姫をめとった息子・本多忠刻のために、姫路城主・本多忠政が御殿をたてたところです。御殿をかこむようにきずかれた長屋は「百間廊下」ともいい、約300mのながさがあります。北端には化粧櫓があり、男山にある天神社をおがむために千姫がきたときに、身づくろいをしたり、休憩したといわれています。

「百間廊下」のなかは現在は資料館になっていて、多数のパネルや資料によって姫路城の歴史を知ることができます。

構造的に姫路城をイメージできたら、今度は、歴史的にもとらえなおしてみるとおもしろいです。空間的認知そして時間的認知という順序がおすすめです。




ふるくから姫路は、西日本における交通の要衝でした。16世紀末、羽柴(豊臣)秀吉は、毛利家攻略の拠点として、姫丘(日女道丘、ひめじおか)とよばれたこの地にあった城郭に手をくわえ、3層の天守閣をふくむ近代城郭をつくりました。

関ヶ原の戦いののち、徳川家康の娘婿である池田輝政が城主となり、1601年から1609年にかけて姫路城の大改修をおこないました。外観5層の大天守をはじめとする天守群や、2層の濠でかこむ内郭・外郭を区分する曲輪構成などをつくりました。

1617年には本多忠政が城主となり、長男の忠刻とその妻である千姫の住居の場となる西の丸の整備をおこないました。

明治維新後は軍用地となり、陸軍師団司令部施設や兵舎などがおかれました。いちじるしく城内は荒廃し、売却やとりこわしの危機がありましたが、1931年に国宝に指定されました。

1956年からは、「昭和の大修理」がおこなわれ、2009年からは「平成の大修理」がおこなわれ、往時の姿をとりもどしました。

姫路城は、天守の重みをささえきれずに築城当時より礎石がかたむいており、その姿は、「東に傾く姫路の城は、花のお江戸が恋しいか」とうたわれるほどでした。そのため、「昭和の大修理」の際には礎石がとりのぞかれ、鉄筋コンクリート製の基礎構造物にとりかえられました。

世界文化遺産登録にあたりこの点は問題にならなかったのでしょうか。世界遺産には、「それぞれの文化的背景の独自性や伝統を継承している」こと(真正性, authenticity)がもとめられるからです。

ヨーロッパの石の文化とはちがい日本は木や土の文化であり、そのままにしておくと建造物はくちはてていくので、解体修理や再建などが断続的に必要です。しかも伝統的な技術では保存が不可能な場合もあります。このことを、ヨーロッパ人らに日本人が説明して理解をもとめ、保存技術や修復方法に、その国独自の伝統や文化・技術をつかうことがみとめられました。

世界遺産は、 ただ単に保存していくだけということは不可能であり、自然環境と文化・歴史的背景などとの関係のなかで保存されていくべきです。


 

姫路城はとても大きな城であり、ゆっくりみていると3〜4時間かかります。建物の内部も創建当時のものであり、エアコンも売店もなかにはありませんので、夏にいく場合は、つめたい飲みものなどをもっていった方がよいでしょう。水分補給は許可されています。あるいは季節のいい春か秋にいくのがおすすめです。 


▼ 関連記事
自分の居場所を確認する - 姫路城(1)-
空間認知能力をたかめる - 姫路城(2)-
歴史的・時間的にもとらえなおす - 姫路城(3)-
〈城下町-耕作地-自然環境〉システム - 姫路城(4)-
姫路城(まとめ) 

▼ 姫路城
公式ホームページ



▼ 参考文献
世界遺産検定事務局著・世界遺産アカデミー監修『世界遺産大事典 <上> 世界遺産検定1級公式テキスト』マイナビ出版、2016年1月16日