生と死の境界はあいまいです。生き方とともに死に方についてもかんがえておかなければなりません。
グラフィックサイエンスマガジン『Newton』( 2017.9号)のシリーズ「生物の宿命」では、生物の宿命である「死」について「生」と対比して解説しています。



人の死は、「心臓の停止」「呼吸の停止」、そして「瞳孔反射の欠如」によって判断される。いわゆる「死の三兆候」だ。これをもって死亡判定を行えるのは医師(歯科医師を含む)だけである。(中略)死の三兆候による判定は、科学的な確固たる証拠をもって定義づけられた「死の定義」というわけではない。(中略)

日本では1997年以降、法的に「脳死」が認められるようになった。(中略)脳死とは、臓器移植を前提にしたときに「こういう状態なら死んでいるとみなして良いだろうと人間が定めたものです」。(中略)

高齢者が亡くなるまでにたどる体の変化はゆっくりしているため、具体的な死期を正確に判断することは非常に困難です。


このように、生と死の間に一本の明確な境界線をひくことはできません。生と死の境界には幅があります。心臓が停止している人を心臓マッサージで蘇生させたり、仮死状態の人を蘇生させたという事例はいくらでもあります。しかし現代社会においてはそれでは不都合なので、医師が「死亡判定」をして境界線をひいているのです。この境界線は社会的・人為的なものです。

また高齢になると、そろそろ死がちかづいてきたことはわかりますが、いつ死ぬのかはわかりません。あるいは若い人でも、交通事故などで今年中に死亡するといったことがおこるかもしれません。死亡する日時を予知することはできないのです。もし死期が正確に予知できたなら、生き方を決められるのにとおもう人もいるかもしれません。

そしてこのような死のあいまいさが死に方をどうするかという課題をうみだします。現代社会においては、たとえば脳死をうけいれるか、延命措置をするかどうかなど、(生きているあいだに)死に方の選択をしておかなければなりません。

人は誰でも、死んでしまうと、元の生きた状態にもどることは決してできません。これは人の最大の宿命といってもよいいでしょう。だからこそ人は、死を想像してくるしんだり、不老不死の薬をさがしもとめたり、死と死後の世界について探究したりしてきたのです。

科学・医学の進歩によって病気を治療したり、健康を増進したり、寿命をのばすことはある程度可能になってきています。科学・医学の進歩は今後ともつづくでしょう。しかし宿命は依然として存在します。科学・医学がいくら進歩しても死をなくすことはできません。

病気の予防・治療や健康増進にはほとんどの人が関心をもっているとおもいます。しかし死に方についてはどうでしょうか。生き方とともに死に方についてもかんがえなければなりません。あたらしい人生論・人生観には死に方もふくまれます。

今回の『Newton』の記事は、死についてあらためてかんがえなおすよい機会になるとおもいます。


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▼ 参考文献
『Newton』(2017年9月号)、ニュートンプレス、2017年9月7日発行