約150年前の江戸を鳥瞰すると、〈城下町-耕作地帯-自然環境〉という大規模構造が見えてきます。江戸をとらえなおすことには大きな意義があります。

立川博章著『大江戸鳥瞰図』(朝日新聞出版)は、1862年の江戸を空からながめた鳥瞰図集です。高度6万6000メートルから見た図であり、著者の入念な時代考証と想像力によって約150年前の江戸がみごとによみがえっています。すべてを手書きでえがきおこした前人未踏の大作です。



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全体を29区画にわけた地図帳になっていて、当時の鳥瞰図とともに、現在のランドマークや地名などを記入した図もあり、当時と現代とを比較しながらたのしめる仕組みになっています。付録として、「大江戸鳥瞰全図」と「御府中心部」がついています。いわゆる古地図よりもはるかにわかりやすいです。




上空から江戸をながめた人はこれまで一人もいなかったでしょう。当時の人々がこの鳥瞰図をもし見たらどんなにおどろいたことでしょう。

わたしたち現代人は現在と当時を比較しながら見ることになります。

当時の江戸湾の海岸線がよくわかります。今とはまったくちがいます。江戸城の堀は大部分が今ではうめたてられていますが、現在の道路の大部分は当時の道をひきついでいます。

今の上野公園の場所には東叡山寛永寺の大伽藍が当時はありました。江戸城からみると鬼門に位置します。平安京において、大内裏から鬼門の方向に比叡山延暦寺があることに相当します。寛永寺の本堂(根本中堂)があったところには東京国立博物館が現在はあります。

寛永寺は、慶応4年(1868年)の上野戦争で主要伽藍を焼失し、そのご元通りに再建されることはなく、今では小さなお寺になっています。明治新政府としては徳川家の菩提寺を再建することは許可できなかったのでしょう。しかし本来の寛永寺をうしなったことは東京にとっては大きな損失でした。のこっていたらどんなによかったことでしょう。観光地としても大きな役割をはたしたはずです。




しかし何といっても現代と当時が根本的にちがうのは全体像です。

江戸は、江戸城とその周囲にひろがる城下町でした。江戸城を中心にして城下町がひろがり、その周辺は耕作地帯となり、さらにその外側は自然環境になっていることが一目瞭然です。

これは巨大な「目玉」構造というか「都市-環境」構造というか、何ともいえないうつくしさがここにはありました。江戸幕府が、上空からみてうつくしい構造をつくろうとしたわけではないでしょうが、人工の美と自然の美がここでは調和しています。

これをモデル化(模式化)すると図1のようになります。

170120 江戸
図1 江戸の構造のモデル


江戸は、巨大な人口をかかえる都市でした。しかし環境と調和するリサイクル都市でした。このようなことが実現できたのも図1のような構造があったからだということができます。

それに対していまの東京ははっきりいってめちゃくちゃです。こまかいことをここで議論している余裕はありませんが、すくなくとも現代人は美的センスをうしなってしまいました。あるいはそんなことはどうでもいいとおもっています。

なおわたしは、人類の人口が今よりもかなり少なかった昔には、図1のモデルのような「都市-環境」構造は世界各地に存在していたのではないかとおもっています。このモデルは、環境問題の解決などのために現代でもつかえます。

立川博章さんの『大江戸鳥瞰図』をつかって、現代ではうしなわれてしまった江戸の構造をあらためてとらえなおすことには大きな意義があります。


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