荘子は、すべてを受け容れるところに主体性が確立することを多くの寓話をもちいて説きました。情報化とグローバル化がすすむ今日、自由と幸福をかんがえるうえで欠かせない思想がここにあります。

玄侑宗久著『NHK 100 de 名著:荘子』(NHK出版)は、NHK・Eテレ「100 de 名著」で放送された「荘子」(注1)のテキストです。

荘子は、今からおよそ2300年前の中国で、あるがままに一切を受け容れるところに完全な主体性が確立すると説きました。


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つぎのエピソードからみていきましょう。

弁論の好敵手だった恵施(恵子)が荘子の妻の死の報に接して弔問にいくと、荘子はあぐらをかき、土の瓶(盆)をたたいてうたっていました。あきれる恵施に荘子はいいます。


初めは悲しかったけれど、命というもののそもそもの始まりを考えてみれば、もともとおぼろでとらえどころのない状態でまじりあっていたわけだ。それがやがて変化して氣ができ、すべてが変化して形ができて、その形が変化して生命ができた。それが今また変化して死へと帰っていく。いわば四季のめぐりと同じで、妻は天地という巨きな部屋で安らかに眠ろうとしているんだよ。それが命の道理だし、だから大声をはりあげて哭くのはやめたんだ。


生も死も自然の変化の一環なのだから、すべてを受け容れるしかないという思想が表現されています。

また前と後ろをその際で断て、そして今に没頭せよ。今に没頭するということは、過去からも未来からもはなれて三昧(定)になることであり、そこから智慧(慧)がわきでるのだとおしえています。




つぎは、自在の境地に遊ぶ料理人 庖丁(ほうてい)のエピソードです。


牛の解体をしはじめた時、目に映るのは牛ばかり(どこから手をつけたらいいのか分かりません)でしたが、三年経つともう牛の全体は目につかなくなりました。近頃では、どうやら精神で牛に向き合っているらしく、目で見ているのではありません。感覚器官による知覚のはたらきは止み、精神の自然な活動だけが行なわれているのです。自然の筋目(天理)に従うと、牛刀は大きな隙間に入り、大きな空洞に沿って走り、牛の体の必然に従って進みます。牛刀が靭帯や腱にぶつかることもありませんし、大きな骨にぶつかることは尚更ありません。


庖丁(ほうてい)の牛刀は、自然の筋目にしたがって無意識でうごいています。無意識である時こそ、牛をあつかう方法がもっともよくわかっているのです。

何事につけ、無意識の方が意識よりもいろんなことを実はよく知っているのです。無意識は潜在意識、意識は表面意識と現代的にはいいかえてもよいでしょう。そして無意識になるためには反復練習をするようにします。




大工の棟梁である匠石(しょうせき)とその弟子の物語です。

匠石が、あるとき弟子を連れて斉の国を旅したところ、とてつもなく巨大な櫟(くぬぎ)の木を見まし た。

あれは役立たずの木なんだ。舟を造れば沈むし、棺桶を作ればすぐに腐る。家具にしても壊れやすいし、建具にすれば脂が流れ出す。柱にすればすぐに虫が入るという、どうしようもない木なんだ。


しかし旅から帰ると、匠石の夢に例の櫟があらわれて次のようにいうのです。

お前はいったい、俺を何と比べているんだい。お前の役に立つ、きれいな建材になる木と比べているんだろうなぁ。柤(こぼけ)や梨、蜜柑に柚、そういう実のなる木は、実ができるとむしり取られ、もぎ取られるために、大枝は折られ、小枝は引きちぎられる。これは、人の役に立つことで却って自分の身を苦しめているわけだろう。つまり寿命を全うできずに若死にするわけさ。進んで世俗に打ちのめされている。世の中って、そういうものだろう。

そこで俺は、長いこと役立たずになることを願ってきた。その結果、大木になれたのだ。無用であることが、大木になるには有用だったってことだ。もし俺が、役に立つ木だったらこんなに大きくはなれなかっただろうさ。


ここには「用」をはなれる思想が表現されています。いわゆる「無用の用」です。役立たずが実は役に立つ、無用が大用に転換してしまうということは現代社会でもよくあるのではないでしょうか。




魏の恵王は、斉の威王に裏切られました。討伐か和平か? 恵王は、賢者のほまれたかい戴晋人(たいしんじん)をよびよせました。戴晋人はいいます。


「蝸牛(かたつむり)というのを、王さまはご存じですか?」
「そりゃあ知っとるわい」と恵王。 
「その蝸牛の左の角には触氏という者が国を構え、右の角には蛮氏が国を構えておるのですが、領土争いになりまして死者数万、逃げる者を半月も追って戻ってくるような激しい戦いだったのですよ」
「おいおい、出鱈目(でたらめ)もいい加減にせい」
「それなら出鱈目でない話にしましょう。王さまは一体この宇宙の四方上下に際限があるとお思いですか」
「際限はなかろうなぁ」
「ならば心をその際限なき世界に遊ばせてから実際の地上の国々を見渡せば、いずれもあるかなきかわからぬほどではございませんか」
「まぁそうじゃな」
「その実際の国のなかに魏の国があり、都があり、都のなかに王さまがおいでです。王さまとあの蝸牛角上の蛮氏と何か違いはありますか」
「……うん、違わないなぁ」

そう呟いた王は、戴晋人の退出後なにかを失ったように悄気(しょげ)てしまったのである。


宇宙的な視点からみれば、人間たちは、いかにちっぽけなことであらそっているか。宇宙からながめれば、区別や対立というものはおよそちっぽけでつまらないもです。

荘子は、対立差別が解消される見方を「天鈞(天均)」(てんきん)という言葉でしめしました。天から見ればすべてのものはつりあっているということです。そういう見方を獲得することが差別や戦争をなくしていくことになるのでしょう。


 

まず、荘子は「すべてを受け容れる」ことをすすめています。「受け容れる」とは現代的にいえば、内面に情報を「インプット」するということです。すなわちすべてを受け容れるということは、あらゆる情報をインプットするということであり、そのような心の柔軟性が重要なのでしょう。


インプットができれば、プロセシングそしてアウトプットもすすみます。インプットは内面に入ってくる働きであるのに対して、アウトプットは外面に出していく働きです。インプットでは受け身の姿勢がもとめられますが、アウトプットするためには主体性が必要です。こうして荘子のいう「受け身こそ最強の主体性」ということが理解できます。


インプットとアウトプットをつなぐものはいうまでもなく「プロセシング」です。 このプロセシングは、基本的には、睡眠中に無意識にすすむことが現代の生命科学によりあきらかになっています。あるいは無意識でできるようになるまで反復練習をします。自然の原理によって無意識ですすむのが理想です。プロセシングをすすめる無意識あるいは潜在意識に注目してみるとよいでしょう。


以上をモデル化すると図1のようになります。図1のモデルが本書に掲載されているわけではありませんが理解の助けになるとおもいます。

161231 荘子
図1 情報処理の仕組み


一方で荘子は「無用の用」を強調しています。この思想は、現代日本の「過労死」の問題を解決していくために必要です。現代人も、この思想をただしく理解しなければなりません。無用が大用に転換することはよくあることに気がつくことも重要です。たとえば基礎研究などがその例です。

最後は「宇宙的な視点」です。約2300年も前に、宇宙的な視点をもっている人がいたということにはとてもおどろきます。世界平和のためには宇宙の視点、天鈞(天均)の思想がどうしても必要です。

現代では、Google Earth などをつかえば宇宙的視点を誰もがもつことができます。宇宙から地球を簡単に見ることができます。これは地球を大観するということです。大観法といってもよいでしょう。大観法は、技術の進歩により現代になってはじめて万人のものになりました。

大観法は、Google Earth などをつかってまるごと全体を一気にみる方法であり、地球上の多種多量の情報(データ)を集積し統合して全体像を再構築する総合の方法とはちがう点に注意してください。大観法も総合法もどちらも重要ですが、そのちがいを知ってつかいわけていくことが大事です。

このように『荘子』は過去のものでは決してありません。むしろ、情報化とグローバル化の時代をむかえた今日こそ、『荘子』が必要なのではないでしょうか。

玄侑宗久著『NHK 100 de 名著:荘子』は『荘子』の入門書として最適です。本書とともに『荘子』(注2)をよみ、あわせて、NHKオンデマンド(注3)で番組をみると理解がふかまるとおもいます。玄侑宗久さんの解説は庶民的でわかりやすく、また東日本大震災の体験をふまえてのお話しであり、とても印象にのこりました。


▼ 文献
玄侑宗久著『NHK 100 de 名著:荘子』NHK出版、2016年8月25日

▼ 注1
NHK・Eテレ 100 de 名著『荘子』

▼ 注2
荘子著(森三樹三郎訳)『荘子』〈1〉(中公クラシックス)中央公論新社、 2001年10月
荘子著(森三樹三郎訳)『荘子』〈2〉(中公クラシックス)中央公論新社、 2001年11月

▼ 注3
NHK オンデマンド『荘子』

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