自然災害に遭遇したら、想定やマニュアルにはとらわれずに最悪の事態にそなえ、より安全な場所にすぐに避難します。
『釜石の奇跡 どんな防災教育が子どもの “いのち” を救えるのか?』(イースト・プレス)は、東日本大震災において犠牲者をださなかった釜石小学校と、非常に多くの犠牲者をだしてしまった大川小学校とを対照させることにより、「自分の命は自分で守る」ことをわたしたちにおしえています。
目 次第一部 ぼくらは大津波を生きた第一章 あの日、子どもたちは第二章 あの日、先生たちは第二部 釜石に学べ第三章 立て役者・片田敏孝教授の防災教育第四章 釜石小が育んだ「生きる力」第五章 反面教師としての「大川の悲劇」第六章 全国の教育現場に広がる釜石の知恵第七章 企業の危機管理にいかす
東日本大震災の際に、岩手県釜石市の釜石小学校では犠牲者が出ませんでした。
釜石小学校では、子どもたちの中から誰一人、犠牲者が出ることはなかった。あの日、釜石の子どもたちは、「地震の後はすぐ高台へ避難する」という当たり前の行動をとっただけなのだ。大人の指示を待つことなく、自分で判断して素早く避難し、いのちをまもった釜石小学校の子どもたち。
つまり、釜石小学校の子供たちは受動的な「指示まち人間」ではなく、みずから判断し行動する人たちでした。
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他方、宮城県石巻市の市立大川小学校では大きな被害を出してしまいました。
石巻市立大川小学校では、東日本大震災によって、全校児童108名のうち70名の児童のいのちが奪われ、4名の子供たちの行方がいまだわかっていない。これほど多くの犠牲がでた学校は、大川小学校だけだ。教職員も11名のうち10名が死亡した。
大川小学校では、子供たちのほとんどが津波がくる直前まで学校にのこっていました。地震の発生は2時46分、津波が襲来したのは3時37分、51分も時間があったのに教師たちは子供たちを避難させなかったのです。娘をむかえにきた母親が「津波が来るから山に逃げて!」とつたえたり、高学年の男の子が泣きながら「山に逃げよう!」と先生にうったえましたが、教師たちは避難しませんでした。
しかし、そもそも大川小学校は、津波の際の地域指定避難場所になっていました。そこまでは津波はこないことになっていました。指定避難場所が津波におそわれてしまった例は陸前高田市をはじめほかにもあります。
大川小学校の「地震(津波)発生時の危機管理マニュアル」でも「第一次避難」は「校庭等」とされ、また「火災・津波・土砂・くずれ・ガス爆発等で校庭等が危険な時」の「二次避難」は、近隣の空き地・公園等」とされていました。大川小学校の教師たちは想定あるいはマニュアルを信じていました。
しかし、マニュアルとその基礎となったハザードマップは適切に検討されたものではなく、まちがっていました。まちがった想定とマニュアルにしたがった教師と、その教師によって完全に管理されていた生徒の姿がうかびあがってきます。
このように、「釜石の奇跡」と「大川の悲劇」のコントラストは人間行動の様式のちがいをしめしています。釜石には、指示待ち人間ではないみずから判断し行動する人間の姿があり、一方の大川には、マニュアル人間と管理された子供たちがいました。
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ハザードマップやマニュアルの作成が自然災害にそなえて全国ですすんでいましたが、そのようなものをあたえられた人々はそれを信じたりそれにとらわれたりして、自分で判断することができなくなってしまいました。そもそも想定やマニュアルは当てにならないものであり、ハザードマップやマニュアルは科学的なデータにもとづくといいながら、未来の災害の上限値をまちがってさだめていました。過去のデータの分析のみで未来は予測できません。
したがって、想定やマニュアルにはとらわれずに最悪の事態にそなえて避難しなければなりません。「釜石の奇跡」と「大川の悲劇」はわたしたちひとりひとりに主体性が必要なことをおしえています。
大川小学校
▼ 引用文献
▼ Google Earth
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